4 東海道/日光道中/奥州道中/中山道/甲州道中
「東海道」
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いに勝利、天下に号令する立場に立った家康は、翌六年、東海道の駅制を定め、戦国期の宿制を設定、東海道の各宿場に、伝馬制印と定書を下し、伝馬三十六疋を常備し、伝馬手形を持つ者にはその使用を認めた。この年に五十三次の大半が定められたと考えられている。
東海道に続き、中山道の各宿にも伝馬、人足の負担が命じられ、公的な輸送手段制度が確立していった。その代償として伝馬一疋につき、居屋敷地三十から八十坪を提供、その分の地子(地代)を免除した。
御馴染み広重の、東海道五十三次日本橋の図で、朝焼けの空の下、太鼓橋である日本橋から、行列を組んで出発しているのは西国大名であろうか。時間は「お江戸日本橋七つ立ち」、現在の午前四時頃である。下りてくる橋の右端は高札場、左端は晒場、どちらも明治r六年に廃止されている。行列の前を横切っているのは、今朝魚河岸から仕入れた棒振りで、市場は橋を戻った川の向こう側、右側にひろがっていた。
慶長十一年(一六〇六)、幕府は芝増上寺一帯を埋立て、街道を高輪の台上から海岸線に下して、本芝を起点としたが、翌十二年、日本橋を起点と改めている。白金台から品川台、大井村辺りまでを、惣称として「高輪が原」と呼ばれていたが、江戸名所図会には「高縄は高縄手、海道は後世に開けしものにて、古は丘の上通りを道路せしなれば、さもありなんかし」としている。
日本橋から「高輪大木戸」まで約一里半、この大木戸は宝永七年(一七一〇)とも、寛政四年(一七三二)ともいわれるが、東海道から江戸への入り口として設けられた。芝口門(元札の辻)に建てられたのが起源とされ、享保九年(一七二四)品川宿より半里手前の現在地に移転、天保二年(一八三一)「札の辻」から高札場も移され、日本橋、常盤橋、半蔵門などと共に、江戸の六大高札場となる。
江戸の頃は街道の送迎や、それにかこつけた物見遊山の人々で賑わった。現在、国道十五号線、泉岳寺交差点北東側に石垣が残っている。また、近くにJR山の手線の新駅「高輪ゲートウェイ」も新設された。因みにゲートとは勿論「門=大木戸」を指している。
日本橋を午前四時に発つと、夏場はこの辺りで明るくなってくるため、灯油代を節約して、慌てて提灯を消すことになる。この「こちゃえ、こちゃえ」と唄う七つ立ちの唄は、沿道の地名を織り込んだ道中歌で、江戸から京へは「上り歌」、京から江戸への逆コースの歌もあり「下り歌」と呼ばれた。
この唄正式名は「お江戸日本橋」という。もとは甲斐の国の盆踊りの唄が、江戸に入って囃子詞がつく唄となった。江戸末期に流行った俗謡を、明治初年に旅の唄に改められたのがこの唄であり、「こちゃえ」とは「こちらへどうぞ」「こっちはいいよ」という意味をもつ。
「東海道」は京三条大橋まで、百二十五里二十丁、五十三次、これは品川から大津までの宿場の数である。因みにこの「五十三」という数字は、仏教の経典「華厳経」にでてくる言葉で、善財童子が悟りを開くため、歴訪した場所と一致するという。童子は文殊菩薩によってつかわされ、普賢菩薩から教えをうけるために旅に出る。五十一次が弥勒菩薩と会う石部、五十二次が文殊菩薩と会う草津、五十三次目が普賢菩薩(大日如来)と会って悟りを開く大津、いよいよ極楽、宇宙の京へ着くという壮大な教えになっている。
この先、京から大坂まで十三里、その間は伏見、淀、枚方、守口となる。化政期(一八〇四~二九)の東海道の上り下りの人数は、参勤交代の大名行列百四十余藩の人数を除いて、おおよそ約二百万人/年、日割りにすると約五千から六千人もの旅人が、基本的には幅五間から六間(川崎~保土ヶ谷三間、以西は二~二間半)の狭い東海道を、大名行列と仲良く進んだ。一九の「東海道中膝栗毛」によると、初日は戸塚泊で十里半を歩き、二日目は小田原泊で十里、三日目はいよいよ箱根峠越えとなった。
因みに、日本橋を起点とした東海道は、川崎、神奈川から太平洋岸で、京へ直結する本道以外にも、小杉の方を通った「相州中原道(小杉道)」、「中原街道」は家康が入府の際にこの道を利用したと云われ、多摩川を丸子で渡った。別称、小杉道、肥し街道、江戸期になり東海道が整備されると脇往還道(間道)となる。また、世田谷から溝の口、平塚へ道程三里半抜けた、家康が鷹狩りコースとして使った「平塚道(厚木八王子道)」があった。
さて、今回は本道を、芝浦から高輪へ進むことにする。芝浦の由来は海苔を取るための小〈芝あるいはヒビ〉の浦であった事にもよる。高輪の由来は、古代、田圃の道を造るのに縄(輪)で測った事(縄張り)からきたとされ、高い所の真直ぐな道「高縄手道」を指した、古代条里制の用語である。
「高輪大木戸」は、四谷大木戸と同じく関所で、ここから西南は江戸の外である。だが、ここは交通量が多すぎて管理が行き届かず、関所としての機能は充分ではなかったとされる。文化十一年(一八一四)伊能忠敬は、地図上の起点をここにおいている。
この先は芝車町(牛町)、この地を火元とした文化三年(一八〇六)の「丙寅の大火」は、浅草辺りまで延焼、その前年に描かれたのが日本橋繁盛絵巻「熈代照覧絵巻」である。まもなく、右手坂上が鉄道唱歌にも唄われている「高輪泉岳寺」である。江戸時代はこの辺まで、海岸線が迫っていた。大木戸から品川まで海岸沿いを十八丁歩くと東海道第一の宿場品川宿となる。
当時の「芝、高輪切絵図」に描かれている海岸線は、現在のJR線とほぼ一致、明治五年に開通した新橋、横浜間の線路が、此の辺の海岸を埋め立てて敷いた為である。街道随一の宿場町品川の住民も、この鉄道開通には余り好意的ではなく、客を鉄道に奪われるのを心配して、駅を宿場内ではなく北側に造らせた。結果、現在のJR品川駅の住所は、品川区ではなく港区である。
「御殿山」へ向かう海岸には、百を超す茶屋が並び芸妓もいた。正月と七月の夜半の月を待つ「二十六夜待」になると、海岸には月を待つ客のために、屋台が店を並べ、広重の江戸百、四十一景は「月の岬」と題して、障子の向こうに白帆が浮かぶ、高輪の海と月を描いている。
「名月や 座にうつくしき 顔もなし」
と、芭蕉翁、月に勝る美人はいないとしている。
「品川」は日本橋から約二里、汐干狩、月見、紅葉狩の名所である。地名の由来は、高輪に対して品ヶ輪と呼ばれていたとか、目黒川の河口は、現在の京急新馬場辺りで大きく蛇行、しなっていたので「しなる川」が品川に転訛したとか、鎌倉時代この地を支配いていた豪族が、品川氏であった事などによるとされる。
当初は、目黒川の「境橋」以南を南品川宿、北を北品川宿といい、二宿で構成されていたが、享保七年(一七二二)、更に高輪寄りの茶屋町が、歩行(かち)新宿として加わり三宿となった。天保年間(一八三〇~四三)になると、品川宿は芝高輪辺りから大井村辺りまで、南北約半里余十九の町が整備され、本陣一、脇二、旅籠は九十三を数えた。
幕府は当初、江戸十里四方の旅籠について、飯盛女(宿場女郎)を一軒につき二人までとしたが、その後宝暦十四年(一七六四)、宿全体で五百人までが認められ、旅人以外に、品川沖の景観、御殿山の櫻、海晏寺の紅葉などを目的に、市中や近場からの客も多く、北国(北狄)の新吉原をしのぐ大歓楽街となり、南国(南蛮)とよばれた。
「飯盛りも 陣屋くらいは 傾ける」
傾国は古代中国の美女、傾城は新吉原の売れっ伎遊女を指す。
箱根の峠は標高八百四十九m、小田原から峠まで約十七㌔、下りは三島まで約十五㌔、元和四年(一六一八)小田原、三島の宿から各二十戸を移住させ、新しい宿場を造ったのが始りで、天保十四年(一八四三)には八百四十四人が定住、関所の役人はすべて小田原藩士で、「出女」の検分のため、二人の人見女が置かれていた。また、芦ノ湖を通航する船の検分のため「透見番所」も設けられていた。
「箱根関所」の次の難関は、「箱根峠は馬でも越すが、越すにこされぬ大井川」と唄われた「大井川」である。陸路はいくらきつくとも歩けば先が見えてくるが、水路はそうはいかなかった。一度大雨や台風によって、川の水が増量すると、水位が人足の胸辺りまでくると川会所が「川止め」を決める。この川合所は川の両側、島田と金谷にあり、渡渉制度の管理を行い、道中奉行の直轄であった。ここで働く川越人足はそれぞれ三百五十人、藩府直参の下級官史で、それ以外を「雲助」と呼んだ。川の水かさが引くまでは宿で待機、旅の行程がここで大幅に狂うことになる。幕末、和宮の一行はこれを踏まえ、日程が読める「中山道」の道を選択した。
島田宿は江戸から数えて 番目の宿場である。明治十二年、木造歩道橋としては世界一の長さ八九七、四m、巾ニ、四mを誇る、賃取橋「蓬莱橋」が大井川に架けられた。それまでは小舟が往来していた。(長さ八九七、四mは「厄なし」と読める事から訪れる人が多い)
大政奉還をした慶喜を護衛して、駿府まできた旧幕臣たちが、版籍奉還によりその職を解かれたため、不毛と云われた台地に住み込み、開墾し茶畑とした。これには海舟も物心両面から支援したと云う。蓬莱橋は大井川右岸の茶畑、牧の原台地と左岸の島田を結ぶ生活活動道路である。
現在は農道に分類され、島田市農林課の所轄、通行料は人間大人一人、自転車各一台共に百円、面白いのは定期券がありこちらは月額八百円である。良く晴れた日は、橋の中程から霊峰不二を仰ぎ見る事が出来る。因みに、長さ八九七、四mは、語呂合わせでやくなし‘(厄なし)の橋として、厄除け、長寿のパワースポットとして、縁起を担いで訪れる人も多い。
東海道はこの先、宮から桑名の間七里を海路にとり、「坂はてるてる鈴鹿はくもる あいの土山雨がふる」と唄われた、伊勢と近江の国境、「鈴鹿峠」標高三五七mを越える。奈良時代の頃は、伊賀から伊勢への大和街道であったが、平安遷都以来、鈴鹿峠越えの「阿須波道」が開かれ、これが後の東海道となる。
東海道四十一番目の「関宿」から、峠の向こう「土山宿」まで約四、七里、徒歩約七時間、現在は峠の下を国道一号線が通過し、峠を越えたハイカーは、バス停からJR草津線貴生川(きぶかわ)へと家路を帰る。
因みに関宿の民家では「虫かご窓」が使用され、この窓は日中外から家の中は見えず、逆に中からは外の様子が見る事が出来るという、すぐれものである。中山道は草津で東海道と合流、終着駅京都に入る。今では鴨川に架かる三条大橋を渡ると、橋の袂に弥次さん、喜多さんの銅像が迎えてくれる。
京は延暦十三年(七九四)、桓武天皇が都と定めた平安京、以来千年の都として天皇の御所がおかれた。貴族の時代から平安末期には平氏滅亡、日本の三大改革といわれた鎌倉幕府が誕生、次いで室町幕府が倒れると、京は応仁の乱によって荒廃、織豊時代から家康が江戸に幕府を開くにいたって、やっと静かな生活が始まったが、幕末、政治闘争の波にもまれ、またしても暗い、不安定な生活を余儀なくされた。明治二年、東京遷都、その都としての役割を閉じる。
「日光道中」
元和三年(一六一七)、家康の廟所が駿府の久能山から、江戸の鬼門の方角にあたる、日光東照宮へ移されることによって、「日光道中」は江戸時代、最も神聖な場所へと通ずる街道となった。この移転により、千住から宇都宮へ向かう奥州道中は、日光道中と呼ばれるようになる。日本橋から千住を通り、宇都宮で奥州道中と分かれ、鉢石(神橋)まで約三十五里(約百四十㌔)、徳次郎の下、中、上の三宿を加え二十一宿を数えた。
江戸城外郭門「常盤橋御門」より、現在の日銀新館が道を閉鎖してない江戸時代は、ここから外が本町通り、本町一丁目から二丁目と進み、日本橋から伸びている「通町筋」と交差して三丁目となっている。この町は江戸町民の自冶を預かった、三人の町年寄の町である。当初「福田村」と呼ばれ「徳川氏東遷の始に開拓して、市肆を設けし処なり」とし、また横山町辺りまでの「本町通」は、「江戸随一の通り也、古より豪商富貴の聚(あつま)る所にして諸問屋多く、家屋も塗屋土蔵の類多し」としている。
薬種問屋があった本町三、四丁目を抜け、現在の昭和通りを渡ると「大伝馬町、名主馬込勘解由、駅逓の事を司りしを以て此の名あり」としている。この町は一と二丁目からなり、一丁目には木綿店が多く、二丁目は肴店と俗称されており、この北側の町が「小伝馬町」で、「名主宮辺又四郎、駅逓の事を司りしを以て此の称あり。此の地昔時は「六本木」と称し、奥州道中の駅たんなりしといふ」更に北側には江戸最大の牢獄「伝馬町牢屋敷」がおかれ、代々牢奉行は石出帯刀、「安政の大獄」では多くの人々が犠牲になった。
「人形町通り」を越すと、多くの旅籠があった事から「通旅籠町」、この角に東京駅に移転する前の、江戸三大呉服店のひとつ、大丸呉服店があった。元吉原の「大門通り」をまたげば「通油町」ここを通過して「浜町川」を渡ると、塩屋が軒を並べていた「通塩町」である。
今でも繊維問屋の多い「横山町」を抜けると「浅草御門」に出る。つまり、旅籠で泊まった日光、奥州道中への旅人は、前日横山町で道中の衣類を充てがい、朝早く隣町で提灯の油を買い、その先で塩を仕入れ、浅草御門へ急いだ事になる。
横山町は一から四丁目、この町の南、橘町には明暦の大火まで、浅草御坊と呼ばれた「西本願寺」があった。大火後、鉄砲洲沖に移転を命じられ、二十二年をかけた延宝七年(一六七九)に、築地御坊として再建している。また、この町の西側は「馬喰町」という馬市の町であり、古代中国、周の馬ききの名人、伯楽から博労、馬喰に転訛した町である。
日光道中が、神田川をまたぐ手前に構えていたのが、三十六見附のひとつ家康次男結城秀康が造営した「浅草御門」である。図絵は「御高札場を建てられる。馬喰町より浅草への出口にして、千住への官道あり」と記している。次いで「此の附近料理店、船宿多くあり」としているのは、神田川第一橋梁、柳橋界隈の料亭街の事である。
明暦三年(一六五七)正月十八日、本郷丸山本妙寺から出火(別説有)した、世界史上類をみない都市火災であった「明暦の大火」、俗にいう「振袖火事」は、この日まで八十日間も、雨なしの乾燥状態が続いた処へ、朝から秒速二十七mの北西の強風が吹きあれ、火はまたたく間に駿河台、神田の青果市場を焼き、伝馬町牢屋敷を襲った。
囚人たちが牢を破って、脱走したとの誤報により、門扉を閉ざした御門に、避難してきた市民が殺到、圧死、焼死、水死者などあわせ約二万千人余の人々が、ここで犠牲になった。これに関する記事は浅井了見著「むさしあぶみ」に詳しく載っている。
日光道中は浅草雷門の手前、茶屋町あたりが日本橋からの一里塚、ここより隅田川よりに進み、助六でお馴染みの花川戸、この先が浅草追分、江戸以前の奥州街道は、川沿いに今戸、橋場を過ぎて北へ進んだ。浅草寺裏は「新吉原」、その右手は江戸歌舞伎の猿若町、待乳山の西をさらに「山谷堀」を渡ると左手は春慶院、二代目高尾の墓が中山道西方寺と、ここにもある。
現在の台東区と荒川区の区境に、二番用水(思川)が流れていた。ここに架けられていたのが小塚原にむかう「泪橋」であった。この泪橋から北西に進むと浄閑寺、寛文四年(一六六四)以降、二万人余の遊女たちが過労、栄養不足のため死亡、投げ込み同然に葬られた寺である。若い命が飢えや重い税の為、親や兄弟の犠牲となり、若しくは騙されて散っていった。
「生れては苦界、死しては浄閑寺」
今も本堂の裏にその跡が残されている。日光道中は小塚原から南千住、千住大橋を渡り、河原町から掃部宿、千住宿、本陣へと進む。
日光道中のバイバス「日光御成道」は、五街道同様に整備された脇街道のひとつであり、通称「岩槻街道」歴代将軍の日光東照宮参詣のために造られた街道である。享保十三年の記録では、八代吉宗の社参には十三万三千人が供奉したとある。
平安末期、義経が平泉からかけのぼった、「鎌倉街道」のひとつである。この街道は日光道中の脇街道にあたる岩槻街道が用いられ、本郷追分で中山道と分岐、岩淵宿から川口の渡しを使うと危険なため、荒川に船を浮かべて仮橋を造り川を越え、川口宿から幸手宿で、日光道中と合流した。
将軍による江戸を起点とした参詣は、通常片道三泊四日の行程で、初日岩槻城、二日目古河城、三日目宇都宮城、四日目東照宮参詣となる。家康を祀る東照宮は、日光の他、駿府の久能山、上野寛永寺、芝増上寺など、全国で五百余り建立されている。
この日光東照宮への御成道の他に、江戸には二つの御成道があった。ひとつは寛永寺、東照宮参詣の道で、江戸城から神田橋御門を出て、筋違橋(現在の昌平橋辺)を渡り左へ向かい、(右は市民の日光道中)神田旅籠町から上野山下、上野寛永寺へ向かう道で、この道はこの先三ノ輪を経て、掃部宿、千住宿で日光、奥州道中と合流していた。
もうひとつは、江戸城から外桜田門、虎ノ門、若しくは外桜田門や内幸橋門から、芝御成門を経て芝増上寺へ参詣する道筋である。大奥女中たちが代参と称して通った道である。明治になると、将軍から天皇に代代りするから、呼び方も御成道から「御幸通り」となる。銀座のみゆき通りをはじめ、明治、大正、昭和三代の全国訪問先の御幸通りがこれである。
家康入府後、先ず手を付けられたのが道三掘と小名木川の開削、「千住大橋」の創架は文禄三年(一五九四)、関東郡代伊奈忠次を普請奉行として、家康入府以降、隅田川に初めて架けられた橋である。伊達正宗が資材を提供、橋杭には水に強い犬槇の巨木を使用、創架以来明治十八年七月の洪水まで一度も流失しなかったという歴史をもつ。此の事は単に古称大橋とよばれた「千住大橋」が頑強で長持した事にとどまらず、下流の橋にとっても、上流からの流木の被害から免れることにもなった。
縄張りは藤堂高虎。現場監督は掃部宿を開き、荒川堤(現、墨堤通り)を築き、千住宿を造りあげた石出掃部介(墓地は同じ宿にある浄土宗源長寺)、当時のオールスターが参加して造り上げた橋であった。
昭和二年、橋脚なしの鋼鉄製アーチ橋に改架、同十八年台風により流失、同四十八年、増加する交通量に対処するため、それまで使用していた橋を「下り」專用とし、新たに「上り」專用の橋を並べて架橋、親子並列の仲の良い千住大橋となった。
図絵によれば「荒川の流れに架す。奥州街道の咽喉なり。橋上の人馬は絡繹として間断なし。橋の北一、二町を経て駅舍あり。この橋はその始め文禄三年、甲午九月伊那(伊奈)備前守奉行として普請ありしより今に連給たり」長さ六十六間、巾四間、橋杭三本立の板橋であった。参勤交代でこの橋を渡る大名は六十四家、東海道に次ぐ二番目の多さである。
地元の古老が「せんじ」とよんでいた千住の地名は、この宿場にある勝專寺(赤門寺)の千手観音によるという。「本阿弥陀仏は鎌倉頼朝に仕えていた図書政次が水底より得しと云うもの是なりと云」風土記稿。また、この境内の鐘は千住一帯の時の鐘であり、鐘の音は石町から浅草、千住宿へとつながれた。天保飢饉で犠牲者になった無縁仏を、金蔵寺とともに供養している。
もうひとつの地名由来は、戦国時代の武将千葉氏が住んでいたから、千と住むで千住となったと云うが、語呂合わせの感がある。因みに祀られている「千手観音様」は、奈良唐招提寺の観音様の手は千手であるが、通常は四十二手、二十七面のお顔である。
寛永二年(一六二五)日光東照宮の造営により、千住村は日光、奥州道中の初宿に指定され、参勤交代の制度化で宿場駅として発展、日本橋から二里八町、江戸四宿のひとつとなった。千住宿は日本橋、草加宿、水戸街道の三方へ継立を行い、佐倉道、上総道ともつながっていたため、歩行役と伝馬役を割り付けられ、千住一から五丁目が本宿、その後掃部宿、河原町が加わり、南北二十二町十九間≒二、四㌔、天保十五年(一八四四)本陣、脇本陣各一、旅籠数五十五軒を数えた。
因みに「水戸道中(越前浜中道)」は、越前浜街道の一部で、水戸と江戸を結ぶ脇街道で、千住の宿場から右に折れ、新宿(にいじゅく)から、金町、松戸(ここまでが道中奉行支配)、取手を通過して水戸まで続いていた。慶応四年(一八六八)、寛永寺で謹慎していた十五代慶喜は、江戸無血開城の四月十一日朝、千住大橋を渡りこの街道を水戸へと旅立っている。その後水戸、弘道館で謹慎、翌明治二年、駿府の浮月桜に移住した。
また、水戸道中の松戸宿と取手宿間の道に平行して、利根川と江戸川を結ぶ四本の道があった。これらの道路は銚子から利根川の水路約二十里を利用して夜通しかけてさかのぼり、運ばれてきた鮮魚を、夏場の腐敗を防ぐため、未明、布佐で陸揚げして松戸まで七里半陸送、再び江戸川で船に移し換え、江戸までの輸送に使う鮮魚優先の産業道路で、「鮮魚(なま)街道」と呼ばれた道であった。
「奥州道中」
日光道中と宇都宮宿で分かれ、これより北は古代の「東山道」で、大和政権の蝦夷地制圧のための官道で、「白河の関」までの十宿が「奥州道中」である。白河藩は吉宗の孫、田安宗武の子の松平定信が治世を尽くした。天保の飢饉においても、周りの諸藩が大勢の飢死者を出したが、備蓄米など諸政策で一人も出さなかったという、実績がある藩である。
「都をば かすみとともに 立ちしかど、秋風の吹く 白河の関」 能因法師
京より奥州白河まで、約半年の歳月を要した事になる。定信によって確定された関跡は、JR白河駅からバス若しくは自転車の行程。小高い丘に碑と神社が祀られ、その北方はみちのくの田園地帯、秋には蕎麦の白い花が凬にゆれる。
江戸期は日光、奥州、甲州の三本の街道は正式には「道中」、これと東海道、中山道を管理したのは「道中奉行」、それ以外の脇街道(脇往還)は、勘定奉行の支配下とした。「街道」とは、単なる道を指し、「道中」とは、街道、運輸、通信、宿泊などを総合した意味あいを表現したものである。道中には、人生そのものが含まれていた。
寛永二年(一六二五)、東照宮が久能山から日光に移され、寛永十三年(一六三六)下野国日光まで日光道中が開通、それまでの奥州道中は宇都宮から北、下野、磐城、出羽、陸奥と続き、明治以降の奥州道中は、下野から岩代、陸奥三厩までを指すことになる。
古代「東山道」と呼ばれた奥州道中は、大和政権の蝦夷制圧のための官道であった。平安末期より鎌倉時代にかけ、義経は平家追討のためこの道を上り、頼朝は奥州平泉の藤原勢力を壊滅するため、この道を下った。時代は下り、秀吉は東北勢力の制圧に、家康は関ヶ原の戦いの誘導戦として、会津の上杉を討つと称して、小山まで東軍を移動させている。
江戸時代になって、陸奥国や蝦夷地との物流が増加、白河はその中継地点として賑わいをみせた。幕府もこれを重く考え、奥州の要として譜代大名を配置、ここまでの道を幕府直轄の街道とした。江戸二百六十余年の間、参勤交代の大名家は約四十家弱、寛永年間(一六二四~四三)、芭蕉は曽良を伴って「おくのほそ道」を旅している。
「中山道」
「中山道」は「東山道の中筋の道故に、古来より中山道と申す事に候、只今迄は「仙」の字書候得とも、向後「山」之字書可申事」とされ、以後中仙道は「山」の字充てられる。
東海道と同じく、京と江戸を結ぶ街道であるが、東海道が太平洋岸であるのに対し、その道筋は日本の中央部分、内陸部であった。東海道よりも距離が約十里ほど長く、従って宿場数も多く、山間部が多く道も険しかったが、大井川など、河の氾濫による「川止め」がない行程であったため、旅の日程が、立てやすかったのが利点であった。参勤交代の大名家数は東海道百五十四家に対し、三十余家と約二割強の数であるが、近江や信濃、越中などの商人たちは、川止めの心配がないため大いに利用された。
守山宿(滋賀)から板橋宿まで六十七宿、約百二十里の行程であり、京二条城番や大坂城番に勤務した、江戸の旗本たち勤番は、京への道を東海道に、帰りを中山道にとって往復の旅を楽しんだ。また中山道は、女旅にも日程が立てられやすかった為利用された。
江戸日本橋を発つと、神田須田町の東北にあり、神田見附とも呼ばれた「筋違橋御門」に出る。ここから右は御成道、左の中山道を少し進むと、神田明神と湯島聖堂、ここで道中の無事を祈願して、江戸中期頃より江戸に組込まれた本郷三丁目、かねやすという乳香散(歯磨粉)を売る店が角にあり、大岡越前は江戸防火のため、ここより南側を土蔵造りにするよう命じている。
「本郷も かねやすまは 江戸のうち」
十一代家斉の十一女、母はお美代の方の娘、溶姫(やすいひめ、ようひめ)が、文政十年(一八二七)に輿入れした際に建てられた、御守殿門と呼ばれた加賀前田家「赤門」先、現在の東大農学部正門前が「本郷追分」である。ここは日本橋からの一里塚、右に進むと「岩槻街道(日光御成道)」、駒込、岩淵、鳩ヶ谷から幸手で、日光道中と合流している。
中山道は左の道筋へ進むと、五代綱吉が館林藩主だった頃の、白山御殿と呼ばれた下屋敷があった。正徳三年(一七一三)、麻布から薬園を移設、そこへ享保七年(一七二ニ)、八代吉宗は町医者小川笙船の目安箱への意見を容れ、施薬院(小石川養生所)を開設した。現在の東大理学部所属の、小石川植物園がこれである。六義園から後世ババの原宿と呼ばれる、巣鴨のとげぬき地蔵尊、高岩寺へでる。その右側一帯は染井村が拡がり、巣鴨庚申塚を通過して、地蔵尊から半刻ばかり歩くと板橋宿に着く。
「板橋宿」は、お江戸日本橋から二里二十五町三十三間、中山道第一の宿場で、その初見は南北朝時代(一三三五~九二)にさかのぼる。この名の由来は石神井川に架けられた板の橋による。また、「イタ」は崖、河岸を意味し、「ハシ」は端を意味、板橋宿は、石神井川の崖の上に架かる橋がある、土地であった。
「板橋の駅は中山道の首にして、日本橋より二里有。往来の行客常に絡繹たり。東海道は川々の差支の終御師とて、近世は諸候を初め往来繁ければ、伝舍(はたごや)酒屋軒端を連ね繁昌の地たり」と、江戸名所図会にはその繁雑ぶりが記されている。
宿場の構成は上宿、仲宿、平尾の三宿からなり「宿内町並南北拾五町四十九間(約一、七㌔)」の長い町であったが、奥行きはなく周囲は畑や水田ばかりであった。また、本郷に上屋敷をおいた加賀前田家は、延宝七年(一六七九)参勤交代のコースをそれまでの東海道から中山道に変更、利便性を考え下屋敷を平尾宿の北側に移転、その敷地約二十二万坪、近くに石神井川が流れていた。
宿場の北は前野村、南は滝野川村に接し、上宿は川越街道の継立場、仲宿に高札場、問屋場、本陣などが置かれ、手前の平尾追分で小江戸と呼ばれた川越への街道と分岐していた。本陣一、脇本陣三、旅籠数五十四を数え、家屋総数五百七十三軒の規模であり、守貞漫稿によると、飯盛り女の数は四宿で最少であったため、こんな皮肉も詠まれた。
「板橋と 聞いて(道中の)迎ひが 二人減り」
京から下ると宿場の入り口に、縁切り榎がある。皇女和宮降嫁の際も、これを忌み嫌って迂回して通過したとされるが、この榎が原因で迎えの客が減ったとも考えられるが、逆にこっそり来て榎の皮を削ぎ、粉末にしてお茶、味噌汁に混ぜて飲ませ、旦那様若しくは女房殿との離縁を望む人々も、現代と同じくいたと思われる。そういう意味では、板橋は重宝な宿場であった。
ここまでが「武州路」、この先、現代版「中山道」を歩いて行くと、松井田宿から横川へ抜けると、中山道屈指の難所、JR信越本線の売り物「峠の釜めし」で著名な「碓氷峠」、峠を越え軽井沢宿までが「上州路」、少し昔までアブト式の電車(信越本線)が、小諸方面へと走っていた軌道跡は、今は洒落たハイキングコース、日帰り温泉、峠の湯もある。
峠を越せば爽やかな軽井沢から「信濃路」、夏の終わりには、白い花を咲かせる蕎麦畑、その向こうに三筋の煙を上げる、浅間山を右に見ながら望月宿、和田宿を進むと、甲州道中が合流する下諏訪宿、諏訪湖を一望する塩尻峠。この峠を越すと「木曽路」、藤村によると木曽路はみんな山の中となる。
奈良井宿から鳥居峠を越え、藪原宿から二時間半ほど歩くと、中仙道の真ん中の標柱がポツンと畑の中に立っている。関所が置かれた木曽福島、妻籠、馬籠、中津川と、旧街道の面影を残す中山道ハイライトコースが待っている。中津川宿から関ヶ原宿まで「美濃路」、草津で東海道と合流すれば、京までは「近江路」三条大橋はもうすぐである。
「甲州道中」
「甲州道中」が整備されるまで、武蔵と甲斐を結ぶ古代、中世の街道は「古甲州道」であり、甲斐の国の国府と下総の国の国府を結ぶ道路であった。大久保長安が整備した幹線道路には、古道の原型があり、その原型を新しい街道でつなぎ、整備したものである。
甲州道中は、江戸日本橋から「外桜田門」側の内堀を廻り、半蔵門から四谷大木戸を通り、内藤新宿から、高井戸、八王子、小仏峠を越えて、甲斐国甲府迄であったが、その後、慶長十五年(一六一〇)下諏訪まで延長され中山道と合流、ここまで四十五宿、約五十五里の行程、五街道の中でも幕府の戦略上、最も重要視された街道であった。
この道は武蔵野台地の尾根伝いに造られ、江戸からの出陣、敵からの侵入防止、また最重要視されたのが、江戸初期ではまだ政情が不安定な時代、予期せぬ事態にそなえ、仮想敵国からの襲撃に備えて、幕府は江戸城から、甲府までの逃走路を策定した。
長安は甲州道中を、防衛道路と想定し、江戸湾側からの攻撃された場合、脱出口は半蔵門とし、半蔵門先の麹町付近から四谷にかけ、御三家や親藩、旗本の屋敷や伊賀同心鉄砲組の組屋敷などが配地され、街道沿いには砦用の寺院が置かれ、内藤新宿には「百人組」、八王子には「千人同心」を組織、甲府城までの逃亡を支援した。
一方、中山道からの攻撃に対しては、甲府城が陥落した場合、八王子で阻止する体制を整えた。いずれも八王子がキーポイントとなった。甲府城は代々親藩や譜代大名が勤め、享保三年(一七一八)、柳沢吉里が大和郡山に国替えになってからは、「天領」となり、甲府城代がおかれ、勤める武士は「甲府在番」と呼ばれた。因みに、明治になって、八王子千人同心の次男、三男は、北海道の開拓にあたる為派遣され、慣れない土地で困窮を極める事となる。
江戸城から、甲州道中に直接通じている御門が「半蔵御門」、服部石見守半蔵の屋敷が、近くにあったためこの名がある。吹上御苑、西の丸への入り口にもなっている。半蔵堀と桜田堀の境に設けられた、江戸城内郭門であり、江戸五口のひとつで、麹町御門とも麹町口ともいわれた。この御門の枡型は、元和六年(一六二〇)伊達正宗らによる構築で、明治四年に撤廃されている。半蔵門は一般的に非常用の出口、裏門と考えられているが、見方をかえると城に直結する街道をもち、最も堅固な守備体制を固めていたことから、正門であったのでは?の説もある。
因みに江戸城の門は合計九十ニ、その内訳は大手門の様な大門は六つ、諸門六十、半蔵門など典輪(くるわ)が二十六であった。この他に三十六見附が、警備のために構えられていた。所謂典輪とは、常盤橋、半蔵門、外桜田門、神田橋御門より四里以内を指す。
江戸城の西側が、幕府の戦闘集団の屋敷が固まっていた「番町」、その番町の南端、半蔵門から四谷門までの甲州道中(新宿通)沿いに、町屋が細長くのびていたにが「麹町」である。この町の名の由来は、 ①台地が多く麹の室を作りやすかったため、麹の製造業者が多かった(近くの隼町遺跡から、室が発掘されている)。 ②東西に細長い小路の街であった。 ③国府(府中)と江戸を結ぶ道にあった為、国府路町と呼ばれ、これから転訛したといわれる。一丁目から十三丁目まであり、十一から十三丁目は四谷門外にあった。
「四谷御門」は、武蔵野台地が江戸城で扇情にひろがる、要の部分に位置する重要な拠点なため、門内には、紀州や尾張の上屋敷、直参旗本の屋敷がおかれた。門外は甲州道中が、麹町十一丁目から内藤新宿へ通じ、その両側には御手先組、御持弓組など、戦闘部隊の武家屋敷で占められていた。
四谷とは江戸期以来の汎称で、その名の由来は、 ①市谷を含む四ヶ所の谷があった。②梅屋など四軒の茶屋があったため、四っ屋が四谷に転訛した等の説があり、その範囲は東は四谷御門、西は内藤新宿、南は千駄ヶ谷、北は市谷、大久保まであり、御門が造られるまでは、四谷の原と呼ばれる広大な原野であった。
寛永十四年(一六三六)、島原の乱に際し輸送に功績があったとして、日本橋大伝馬町や塩町は、四谷御門外の甲州道中沿いに町地を拝領、四谷伝馬町、四谷塩町が成立した。現在の新宿区須賀町などに、またがっていた「四谷伊賀町」は、天正十年(一五八ニ)に起きた「本能寺の変」に際し、「伊賀越え」を成功に導いた功績により、家康から伊賀者への拝領地であり、当初は半蔵御門前にあったが、のち四谷御門外のこの地に移転している。
また、新宿区大京町にあった「四谷左門町」は、御手先組諏訪左門が、この地を初めて開いたため、この名が付けられた。また、隣町は家光の侍女、右京左門の屋敷があったため、「四谷右京町」と名付けられている。
四谷左門町には御家人田宮家の娘、於岩が婿養子伊右衛門と一緒になり、仲の良い夫婦で、貧しい生活を助けるために良く働き、家を再興させたといわれる屋敷がある。寛永十三年(一六三六)於岩没後、江戸の人々の信仰を集め「於岩稲荷杜田宮神社」が祀られている。文政八年(一八二五)初演の鶴屋南北作「東海道四谷怪談」は、作者が当たりを取るために、妄想と想像の果てに作られた創作である。
当初、甲州道中の最初の宿場は「内藤新宿」ではなく、日本橋から四里先の高井戸であったが、この道中を利用する人々からから要望があり、元禄十ニ年(一六九九)浅草の名主喜兵衛ら五人が願い出て、五千六百両を上納して許可される。
新しい宿場は、信濃国高遠藩内藤家の屋敷の一部を上地(あげち)して幕府に返上、新しい宿場を開設、「内藤新宿」と名づけた。四谷大木戸から下町、中町、角筈村の上町の東西九町十間(約一㌔)、上町の追分で青梅(成木)街道と分岐していた。南は玉川上水を隔てて天正十八年、清成が拝領した下屋敷、北は百人与力などの武家屋敷であった。
甲州道中を利用する参勤交代の藩は、高遠、高島、飯田の三藩のみ、旅人も少ない割には四宿のうち、品川に次いで飯盛り女が多く、この為強引な客引きが横行、享保三年(一七一八)一旦廃止され、安永元年(一七七二)再開されている。
「内藤新宿馬糞のなかに、あやめ咲くとはしほらしや」
と詠まれているように、甲州道中は人の往来と共に、近郊からの野菜、果物、木炭等の農産物、甲州からは葡萄、甲斐絹、印伝革、秩父の横瀬からは焔硝(火薬)などの鉱産物など、産業道路としての役割も大きく、また、船の便が無いため、女郎屋の客や荷の運搬用に使われた。更に秩父三十四観音巡り等の馬の利用が多く、従って糞もやたらと道端に多かった。
広重江戸百、六十一景「四谷内藤新宿」にも、草鞋を履いた馬の足元に、しっかりと描かれている。天気のいい乾燥した日には、風に舞い糞害を巻きおこし、黄砂のように黄色のモヤがかり、「馬糞新宿」とも呼ばれた。
一般に日本橋から半蔵門前から内藤新宿へのコースとは別に、伝馬制による、もうひとつの甲州街道があった。その道順は日本橋を北に取り、品川町を西に曲がって、内堀沿いを鎌倉河岸へ出て、一っ橋、神保町、俎板橋から九段坂を上り、市ヶ谷見附を渡って、四谷見附から内藤新宿へ向かう、というものであった。伝馬役がこのコースをとった理由は、左廻りは大名屋敷が多く疲れるのと、左廻りより約六百m距離が稼げたことによる。
人馬の組立運賃の覚え書きによると、江戸日本橋より四谷新宿迄一里三十壱町、但、鎌倉河岸、飯田町通り此駄賃銭、本荷五拾六文、軽荷三拾七文、現在の宅配便とほぼ同じ値段である。元禄十ニ年(一六九九)卯之月、南伝馬町高野新右衛門他ニ人、大伝馬町馬込勘解由、と記されている。
現在の新宿三丁目辺りが「新宿追分」日本橋から直進している道が「青梅街道」、左へ行くのが「甲州道中」である。「追分」とは道がふたつに分かれる場所を指すが、もとは馬や牛を追い分ける場所を意味したが、次第に、街道の分岐点を意味するようになっていった。東海道では、中山道と分岐する「草津追分」、中山道では北国街道と分岐する「信濃追分」、美濃路と分岐する「垂井追分」、日光御成道が分岐する「本郷追分」がある。その先に、日光、奥州道中と本郷で分岐した、御成道が合流する、「幸手追分」があった。
また、「青梅街道」は甲州裏街道とも、成木街道ともよばれ、江戸城建設のため、慶長十一年(一六〇六)開設された硅酸カルシゥム(石灰)を、成木村や小曾木村より調達した街道で、石灰は白壁用の漆喰に使われた。新宿追分から青梅まで開かれた街道で、中野~田無~青梅~氷川~丹波(大菩薩峠)~塩山から、甲府の東(酒折村)で甲州道中と合流、甲州道中よりニ里短く、厄介な関所もなかった。
また、田無の先で分岐した道は「秩父道」と呼ばれ、所沢を経由して秩父まで伸びていた。この青梅街道、幕末には八王子などを中心にした養蚕、生糸の械織産業が盛んになり、明治以降も、貴重な外貨の財源となった。
戦略街道としての甲州道中を追って行くと、追分の先、現在の四丁目に曹洞宗天龍寺がある。甲州道中から少し入った、新宿高校と隣り合わせの位置にある。元は遠州法泉寺、本尊は千手観音。家康側室であり、二代秀忠の生母となる、西郷局の兄が住持であった関係で、家康入府の際、三万六千坪の寺地を与えられ、寺名を天龍寺に改め、江戸城裏鬼門鎮護の寺として牛込に移転、天和三年(一六ハ三)、類焼により当地へ再移転している。この様に遠江国の一寺が、甲州道中近くに寺地を置いていたのは、防衛上の配地によるものと考えられる。
明和四年(一七六七)、境内に「時の鐘」が設置された。ここの鐘は定刻より明け六っは、半刻(約一時間)ほど早く撞かれた。地元、内藤新宿で前夜遅くまで遊んでいた武士たちが、勤務先に遅刻しないようにとの、親心からの措置で、「追い出しの鐘」と呼ばれた。
市街地を見やすくした切絵図は、現在の地図とは必ずしも一致しないが、天龍寺の先が「大久保百人町」、家康入府の際、警備にあたった内藤清成(信濃高遠藩三万三千石)が率いた、伊賀組鉄砲百人同心の屋敷が置かれたところで、腕前は江戸で一、ニを争う腕前であったという。
慶長七年(一六〇ニ)大久保北、中、南に屋敷が置かれ、「大久保百人大縄屋敷」と呼ばれた。組屋敷内では趣味と実益を兼ねた、ツツジの栽培が盛んであった。因みに新宿区の区の花はツツジである。また、切絵図に載る百人組は、内藤新宿北方や千駄ヶ谷谷町西方、牛込宋慶寺西南方、及び角筈調練場の東北方に位置していた。
「千人組」が置かれたのが八王子である。幕府は八王子を、甲斐、武蔵の国境警備の重要拠点と定め、武田家の旧臣たちを、千人組という組織に編成、城や街道の警備にあたらせたのが「八王子千人同心」である。尚、千人組は日光東照宮の警備も命じられ、この間の道筋は、江戸一極集中の道でない、「鎌倉街道」や「山の辺の道」などが利用された。
甲州道中の最終地点は、甲斐の国甲府である。その後下諏訪まで延ばされ、ここで碓氷 峠を越えてきた中山道と合流している。江戸中期に、設置された甲府城の守備や、管理にあたったのが、「甲府在番」「甲府在勤」と呼ばれた武士集団である。甲府へは江戸の不良旗本(とされた)たちが、所謂「山流し」「甲府勝手」と呼ばれて、懲罰的に左遷させられ、ここより江戸へは、一生戻れないものとされた勤務先であった。一般庶民が、佐渡や八丈島へ流されるのと、同じ感覚であった。武士も庶民も、江戸時代は現代以上に、厳しい現実が待っていた。
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