2参勤交代と大名行列
「参勤交代」は、鎌倉時代における後家人の鎌倉への出仕が起源であり、服属儀礼として始まった事から、正しくは目上の人に会う事を指すため、参「覲」交代と書くとされる。鎌倉公方管下でも、関東十ヶ国の守護大名が、鎌倉在住(参勤体制)を強制されている。寛永十二年(一六三六)三代家光によって、軍役奉仕を目的に武家諸法度における「参勤交代」が制度化された。この制度は封建社会での従属関係を示す、日本特有の政治形態であり、統一権力者に対する地方権力者の拝謁、勤役を前提とした、上洛(参府)と就封を意味した。この参勤を契機として、当事者間には土地所有の分与、もしくは認知となる「御恩」と、軍役提供などの諸負担とされる「奉公」の、主従関係が成立していくことになる。
江戸時代においては、慶長七年(一六〇二)、加賀前田藩が危機に陥りかけた時、前田利家正室、お松の方(芳春院)が江戸へ参府、滞在中の母を息子利長が見舞し、二代秀忠に伺候したのが、参勤交代の始まりだといわれる。「参勤、参府」とは、領国をもつ大名が、江戸へ出府して勤める事で、「交代、暇」は国元へ帰ることを意味する。因みに、薩摩藩十二代斉広の、江戸への参府には、十二泊と最高時三千五百人の供を連れ、片道現在の金で二億円かかったとされる。また、同じく九州の鍋島藩は、佐賀から江戸まで約三百里、瀬戸内は船を利用して、片道約藩財政の二割を消費する、約三千六百両を出費している。参勤交代制度によって、全国三百余の大名たちは、江戸中期において藩年収の約六割を、幕末期には約八割にまで、経費が達する藩まであり、農業生産力の発達にもかかわらず、大都市での生活水準においつけず、藩財政は年々弱体化し、逆に商人の富裕化につながっていった。一方、見方を変えれば、江戸と地方都市と文化の交流にも寄与、江戸の町は、全国の約半分を消費する、大消費都市へと変身していく事になる。
「大名は 一年おきに 角をもぎ」幕府は二十万石以上の大名の参勤交代には、馬上の武士は十五から二十騎まで、一騎につき足軽十人までと決めた覚書書を出し、経費の削減を提唱したが、必要以上に費用を削減すると、財力を蓄えていると勘ぐられるという思惑と、各藩の見得によって、余り効果は見られなかった。大大名になると、御台所長持には鍋、釜はもとより、漬物桶は石を乗せたまま移動、殿様用の風呂は水をはったまま四人かかりで移動した。それでも経費を削減するため、出立、到着の本陣や、他藩の城下町では、槍をふって威儀を正したが、それ以外は日数削減のため、者ども急げとなった。また、人件費の削減にも頭を悩まし、荷物運びの中間小者は、各宿場で臨時採用(パート)となったが、こうした人たちは仕事がルーズであったため、結果的には賃金アップ、経費の増大となった。「参勤は やがて貧しき 行列に」 こうした情況を踏まえた幕府は、制度を順次改革、原則、外様は東西に分け、交代で隔年一年毎に四月在府在国、譜代は六月に六十九家、八月に九家、尾張、紀伊家の御三家は三月、水戸家、老中、若年寄、奉行は定府、関八州の大名の在府在国は各半年の二月、八月に、対馬の宗氏は三年、蝦夷地、松前藩は五年に一度と定めた。また、地方版参勤交代として、外様の大藩の城下には、その支藩主や大知行主が参覲した。更に阿蘭陀商館長カピタンの江戸参府や、朝鮮通信使の訪日も、ある意味での参覲交代であった。「大名を 人替えにする 時鳥」それでも諸大名の財政負担は重く、幕末の文久二年(一八六二)、交代制度を三年に一度と大幅に緩和、妻子も帰国自由としたが、幕府そのものも列強の相次ぐ襲来、財政の悪化により、慶応四年(一八六八)崩壊していった。
0コメント