第3章 お江戸日本橋七つ立「五街道をゆく」
古の歌人が歌枕をさがし、もののふが戦に駆け、
世人が信仰に、物見遊山に歩いた道、街道。
そこには体の中を吹き抜ける汐凬と、草花で敷きつめられた、野山が待っていた。
古人いう「いとおしき子には旅をさせよ、万事慶び知るものは、旅にまさる事なし」と。
1街道(道中)のなりたちと江戸四宿
「街道」がはっきり路線として現れるのは、大化の改新後の大化二年(六四八)の駅伝馬制が実施され、天武天皇の時代(六七二~八六)、先駆者たちや渡来人たちが、歩み固め、道筋をつけた原形を、国が伝馬と駅を主要官道とし、七道制度が定められてからである。七道とは京を中心に、東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、西海の、七つの道路である。この制度により、京から大宰府に至る山陽道が大路、陸奥の鎮守府へ至る東山道や、常陸の国府へ至る東海道は中路、その他の諸道は小路とされた。この時代の東海道は、京の山城から伊賀へ向かい、海沿いの伊勢、尾張、参河(みかわ)から、甲斐、伊豆、相模と下り、三浦半島走水から海上を渡り、安房、上総、下総、常陸へ抜ける行程であった。平安から鎌倉、室町期にかけて、浅草待乳山あたりから国府台にかけては、低湿地であった為、都から東国へ向かうには、相模の走り水(横須賀辺り)から、海上を渡っていかなければならなかった。また、東海道は足柄山から先は、箱根の坂の東「坂東」であり、坂東武者は東の東夷(あずまえびす)、つまり東の野蛮人であり、東山道(中山道)は、碓氷峠から先は「山東」と呼ばれた、やはり未開の土地であった。康正三年(一四五七)、関東管領上杉の家来道灌は、江戸に館を造営、更に暗黒の百年ののち、家康は江戸を政権の都とした。街道は原則、人や物の輸送であったが、戦いのためでもあった。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの年に、公用の使者が乗り次いで移動できるように、各宿場毎に使用する馬を設置、更に翌六年、伝馬制の朱印状を出し東海道を制定、伝馬三十六頭を配備したり、中山道やその他街道の、宿場の整備に努めた。慶長8年江戸に幕府が開かれると、首都江戸の交通事情はひっ迫、翌9年幕府は里程標を定め、日本橋を全国の里程の基とし、東海、越後、陸奥などへの諸道へ、一里塚が定められ、三十六丁壱里とした。武江年表によると、慶長8年(1603)この時日本橋にはじめて架けられ、長さ凡(おおよそ)二十八間であった。
「日本橋 何里何里の 名付親」開府時と同時期に創架された日本橋は、旅鏡によれば「此の橋より西に御城、東に海あり。北に浅草、東ゑい山、南に富士山、かのこまだらの雪まで見ゆ。左は魚河岸賑ひ、繁昌の地也」としている。下を流れる日本橋川と共に、江戸物流を担っていく事になる。「この橋を日本橋といふは旭日東海に出ずるを親しく見るゆゑにしか号くるといえへり。この地は江戸の中央にて、諸方への行程もこのところより定がしむ。橋上の往来は貴となく賎となく絡繹として間断なし」お江戸日本橋は、七っ立ち(現在の午前四時頃)、街道、道中の旅立ちは七っ(寅の刻)が最も早く、それ以上早い場合は、幕府の許可を必要とした。明け六っ(卯の刻)は、三十六見附や町木戸が開く午前六時となる。
慶長9年(1604)日本橋を五街道の起点(ゼロm地点)と定めた幕府は、道中奉行をおき、諸大名に命じ畳の厚さに砂利、土を盛らせて街道を整備させ、一里を三十六町≒三、九㌔と定めた「一里塚」を、全国主要街道におき、榎や杉、柏が植えられ、街道筋には松が植えられ、宿場も設けられていった。「宿場」とは、旅宿を主な機能として成立した、交通上の集落であり、鎌倉期以降、町場として発展、室町、戦国時代には、大名が各宿に諸々の特権を与え、本宿に対し新宿も積極的に設置、その育成を図っていった。江戸時代になって、幕府は五街道の宿場の特権を認め、街道を整備していったため大いに繁栄したが、明治になり鉄道網の発展により、一部は小集落に、一部は産業都市、政治都市として再生していくことになる。街道筋の一里塚に、榎が多く植えられたのは、枝の木(えのき)といわれるように、街道の目印や陽除け風除けのため、枝が多い榎が選ばれたためである。また、この木は縁の木とも呼ばれ、縁結びの木でもあったが、逆に縁切りともなり、板橋宿には、公武合体で江戸に下った和宮も、避けて通った縁切り榎があった。「くたびれた 奴が見つける 一里塚」この一里塚跡、都内二十三区内には十八ヶ所が残っており、本郷通り滝野川警察前は、夏には榎の樹影となる。 また、海辺に近い街道筋に植えられたのは、汐凬や砂に強い黒松で、雄松とも呼ばれ、東海道筋では御油の松並木が見事である。赤松と呼ばれた雌松は、松タケが生えるが、こちらは山間部の街道筋に植えられた。松は「待つ」に通じ神様に来て頂くのを待つとして、旅の縁起にも担がれ、家では柱や庭木に降臨するといわれ、縁起の良い木として大事にされてきた。因みに元禄時代(1688~1703)芭蕉と曽良が尋ねた、奥州多賀城は、約千年前の貞観年間(859~876)大津波に襲われた。3、11、東日本地震において、福島原発は海からみると、全くの無防備であったという。先人の苦労が生かされていない現代人がここにもいる。
「江戸四宿」
全国主要な街道に、宿駅(宿)や一里塚が設けられ始めたのは大化改新以降、中国からの律令制度を取り入れてからである。慶長九年、日本橋を五街道の起点と定め、街道の整備に着手、伝馬制や飛脚の確立、道路ら宿泊設備などが整備されていった。「伝馬制」における宿場の義務は、幕府の公用で往来をする役人のために、人や馬を継立てたり、宿泊、休憩施設(本陣、脇本陣など)の提供であり、勿論無償であった。これらの経費は飯盛り女の売上や、公用でない民間の荷役(駄賃附)による売り上げで賄われた。宿場と宿場の間は、平均二里半(約10㌔)、長いところでは五里もあった。中間には少休憩するための立場が設けられ、出茶屋もおかれた。元和年間(1615~24)にかけ、主要五街道の道筋が固まってくる。五街道を整備された年代順にあげていくと、東海道、日光道中、奥州道中、中山道、甲州道中となる。日本橋から五街道の最初の継立駅は、それぞれ品川、千住、板橋、内藤新宿(高井戸)で、これらを合わせて「江戸四宿」と呼んだ。日本橋からこの四宿までの伝馬を、大伝馬町と南伝馬町が、月半分毎に受け持ち、日本橋と四宿間を往復して、その役務を勤めた。小伝馬町は江戸市内や江戸城内への、小物の運送に勤めた。東海道を例にとると、日本橋から品川宿までの運送を受け持ち、そこで品川の問屋場とバトンタッチして、日本橋への役務があればそれを担って、日本橋へ戻るといったシステムをとった。現在のJRと一諸である。ある程度まで進んだ電車は、そこで客を降ろし、新しい客を載せて元の駅に戻るといった、折り返し運転をする。従って18きっぷのような各駅停車になると距離が稼げず、やたら乗り換え回数が多い路線に出くわす事もある。しかしこれも旅の醍醐味。ひなびた田舍の駅で遠くの景色の素晴らしさや、ホームに植えられた花々の可愛らしさに、見とれることもあるから、捨てたものでもない。
寛永12年(1635)三代家光によって軍役を目的としての武家諸法度のうち、「参勤交代制度」が制度化され、四代家綱の時代になり、街道は本格的に整備されていった。正徳6年=享保元年(1716)新井白石は、道中奉行を通してお触れを出し、東街道は海端を通るため「東海道」、中仙道を「中山道」、日光、奥州、甲州の各海道と呼ばれていた道は、海端を通らない為「道中」と表記するとした。明治5年、江戸幕府を引き継いだ新政府は、街道の起点を江戸幕府同様、東京は日本橋、京は三条とし、現在日本橋の橋の真ん中には、国道7本、(1、4、6、14、15、17、20号線)の起点を示す、丸い日本国道路元標が埋め込まれている。
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