25 猫の多い下町 「谷根千」

谷中/根津/千駄木

文京区東端から、台東区西端一帯の「谷中」「根津」「千駄木」の頭文字を、つなげた「谷根千」は、その周辺地区を示す総称である。古民家や寺院、趣きのある坂があり、そして何故か猫の多い町である。

大正十二年の関東大震災の際において、家屋の倒壊も少なく、火災に見舞われなかったのも、近くの不忍池の水や上野の山の森、寛永寺の樹木のおかげとされている。さらに時代は下って、昭和二十年の東京大空襲においても、山の手線内において、焼夷弾の被害も余り受けず、そのためか、戦後も大規模な再開発もされず、古い民家をリノベーションした店など、昔の面影を残した町となっている。

「谷中」

縄文海進、海退がくりかえされていた時代、この辺りまで、海の潮が入りこんでいた。上野は「忍が岡」湯島は「向が岡」谷中を「入砂の岡」と呼んでいた。

「谷中」は「屋中」とも書き、この字の文献上の初見は、戦国時代の小田原衆所領役帳に記された「江戸彌中」、彌と谷の字は異なるが、これであるとされている。この名の由来は、山の手台地の東端、上野の山と駒込(本郷台)の中間に位置する谷であることから、この名がついたとされ、「下谷」に対する対語である。

昔は千駄木、根津、日暮里にかけての、広い範囲を谷中といった。江戸期は豊島郡峡田領のうちで、寛永二年(一六二五)上野寛永寺の創建に伴い、子院が建てられた事や、明暦大火後は城周辺の寺社が移転してきた為、谷中は寺町となっていった。元禄年間(一六八八~一七〇三)より、東叡山中堂領おうちで幕府領、崖下の百姓地(主に谷中生姜を生産)を谷中本村として分離、崖上の寺町を谷中村とした。

元禄十二年(一六九九)ある事件により、感応寺(現天王寺)が日蓮宗から天台宗へと改宗、これにより壇家が離れたため、門前に茶屋の建設を寺社奉行に願い出、元禄十六年(一七〇三)許可され、谷中感応寺裏門前町新茶屋町を起立して出来たのが「谷中茶屋町」である。

また、谷中を冠した町として、「谷中三崎町」がある。三崎は「さんさき」と読む。駒込、田端、谷中の三っの台地(三崎)が、相対していた処とされこの名がある。この他にも、谷中を冠した町には、「片町、観智町、感応寺町、観音町、九ヶ寺門前、興禅寺町、西光町、七面前町、惣持院町、天王寺町、初音町、自性院町」など、お寺さんに関した町が多い。

「谷中」は、台東区内の地名で、旧下谷区にあたる下谷地区内にあった地名で。昭和四十六年「谷中町」が成立、現在では谷中一から七丁目まである。

「根津」

江戸期、忍が岡、向ヶ岡と海との付け「根」に位置、船着き場であったことから、湊の意味をもつ「津」が結び付いた事による。上野台地と本郷台地に挟まれた根津谷(藍染川)に位置、本郷台地の「根」という意味をもつ。もともとは、徳川家宣の屋敷地が駒込千駄木団子坂より移転、甲府宰相徳川家の産土神を根津権現とした為、現在の元甲州藩下屋敷の地に遷座、この地を「根津」と呼ばれるようになったともいう。

では、根津の語源は、何処からきたのかと云うと諸説ある。①諸々の神の番をするのが不寝(ねず)権現であり、「紫の一本」によると、道灌の首を不寝権現として祀ってある、といういい伝えがある ②江戸砂子や御府内備考によれば、祭神である大黒様の使いがネズミであるためという ③大和の民を守る須佐之男命を、ここの根の神として祀った ④地理的には上野(忍ノ岡)と湯島(向ヶ岡)の根元にあり、舟が停泊する湊である、等々諸説ある。

「千駄木」

もとは駒込村に属しており、三代家光の御霊屋の、寛永寺御薪林であった。此の事から、この名の由来は、一日に千駄の薪を伐採し、上野寛永寺の護摩木や、炊飯用に納めたからといわれ、②道灌が植えた栴檀(せんだん)の林が「せんだんき林」に転訛したともいわれる。また、柳田國男によれば、雨乞いの儀式「千駄焚き」からであろうとしている。

元文、延享年間(一七三六~四八)になると開発され、水田や町屋に変わっていった。

広重、江戸百第二十七景「千駄木団子坂花屋敷」では、花木に囲まれた「紫泉亭」が描かれている。「団子坂」の上は、鴎外が住んでいた観潮桜、下れば不忍池であった。幕末から明治にかけて、この坂の中ほどには、毎年、秋になると菊人形展が開かれ、人気を呼んでいだ。 

26 江戸に「生まれた町」

尾張町、加賀町、出雲町/佃島/築地/中洲

 

江戸初期、江戸城前には日比谷の入江が、現在の大手町西部辺りまで入り込み、その前には本郷台地から舌状に伸びた「江戸前島(日本橋波蝕台地)」が伸び、汐留辺りまでがその先端であった。家康は千石夫制度を用い、諸国の大名に東南の海浜を埋め立てさせた。その時担当した大名の国名が、それぞれの地域名といわれていたのが、尾張町をはじめとする旧町名である。

 また一方、佃島、築地も江戸拡大の一環として、市民の需要に応えるため、民間の普請により出来あがった陸地である。中州は漁獲のための職場とした佃島、宗教活動の場となる本願寺を中心とした築地とは造成理由が異なり、商業資本により新吉原をしのぐ歓楽街を目的とした。

「尾張町/加賀町/出雲町」

 江戸期の銀座は、現在の一から四丁目までは日本橋の「金座」が「本両替町」であったのに対し、二丁目に銀の吹き替え所が出来た事から、「新両替町」と呼ばれた職人町であり、これらに銀座の名称がつくのは、維新後の明治二年以降である。

晴海通りの南側、五から八丁目は、それぞれの町名がつけられていたが、これらが銀座に統一されるのは、昭和も五年になってからであり、東銀座や西銀座も含め、現在の銀座八丁が出来あがるのは、昭和四十四年となる。

「尾張町」

町名の由来は不明であるが、慶長年間(一五九六~一六一四)頃、町地の造成(一般的には財政)を担当した、大名の国名によるものだとされる。元禄期、元数寄屋町から三十間堀にかけて、火除け地が設けられ、一丁目の北側が収公されたが、宝永七年(一七一〇)になって、再び町地や屋敷となり、一丁目には「元地」と「新地」がある。

その一丁目の雛人形市は、日本橋の十軒店とともに人気があり、尾張町交差点(現四丁目交差点)を中心に、買物客に恵比寿の絵を鋳出した一文銭を渡す、サービスをしていた恵比寿屋や、布袋屋、亀やなど、老舗の呉服店が軒を並べていたが(江戸名所図絵)、その南は町地が途切れ、急に淋しくなっていたという。

「内裏雛 人形天皇の 御宇かとよ」 芭蕉

尾張徳川家は御三家の筆頭格、石高六十ニ万石弱であったが、実質は百万石に近かったとされる。藩祖義直はお亀の方を母ともつ家康九男、(紀州家、水戸家は於万の方)この義直の遺命は「王命に従って催される事」であった。

江戸時代を通じて、将軍を出せなかった事や、尾張家に将軍家からの養子を、押し付けられた事などにより、宗家に反発、戊辰戦争では十五代慶喜が、大坂城より敵前逃亡した事により見切りをつけ、官軍側に味方をしている。

「加賀町」は、現在の銀座七丁目辺りになる。この町名の由来は ①慶長八年(一六〇三)役夫を出した国が、加賀藩であった事による ②この町の住民が、加賀の国の出身者が多かった、③町を開創した名主の名が、加賀平右衛門であった事などが挙げられる。

加賀前田家の藩祖は前田利家、幼名犬千代。信長に仕え後に秀吉に味方、五大老となり秀吉死後、秀頼を補佐し、家康の対抗勢力となったが、病で亡くなっている。開府後は加賀、能登、越中の三ヶ国の大半を領有、大名中、外様ながら最大の百二万五千石の禄高を要した。伺侯席も御三家と同じく大廊下、また開府後に出された、一国一城令の後に、小松城の再築が許され一国ニ城になるなど、加賀藩は優遇されていた。

「出雲町」江戸初期、出雲藩堀尾氏が埋立て、整地を担当したことによる。現在の銀座七から八丁目にあたる地域で、現在の中央通り(旧東海道)の両側にあった町であったが、宝永七年(一七一〇)芝口御門造営のため、新橋より南半分(銀座八丁目)が収公され御用地になり、町域は北側半分(銀座七丁目)となっている。

この町の裏通りには、東海道の入口にあたっていた事などから、信楽茶屋などの待合茶屋が多く軒を並べ、街道の見送り、出迎え客の他、各藩の留守居役などに利用された。また東に流れていた三十間堀河岸地(八丁目十番辺り)は、出雲町裏河岸と呼ばれ、賑わっていた。

出雲の国は、かっては毛利氏の支配下にあったが、信長、秀吉との闘いを経て、堀尾吉晴が富田城から、松江に拠点を移し二代統治、その後京極氏から、寛永十五年(一六三八)には松平家が継ぎ、七代治郷は「不昧」を号し、茶の湯にも通じた。松江藩は明治維新まで続く。宍道湖の水を取り入れた松江城は、別名千鳥城、大部分が黒塗りの水城である。この町の名産は、宍道湖で採れる大粒の蜆である。

他に大名家に関連した地名には「因幡町」(京橋二丁目)「山城町」(銀座七丁目)

などがあった。また銀座にはこうした大名家に関連した地名の他に、現在は何丁目何番地と、何の愛嬌もない無粋な番地となっているが、つい最近(昭和五年)までは、江戸の歴史を感じさせる情緒のある町名が多かった。

「南佐柄木町」は、家康入府の際に御用研師佐柄木弥太郎が、この地を拝領したことのよる町名で、現銀座六丁目の外堀通り辺りとなる。銀座五から七丁目にあった「南鍋町」の由来は、御用鍋物師長谷川豊後が居住、刀や煙管を取り扱う店が多かったからとも、近くの山下門が鍋島門とよばれていた事にもよるという。この町の鍋町芸者は金春芸者と一諸になって、新橋芸者に発展している。

現在築地にある朝日新聞社は、大阪から東京銀座「滝山町」に進出、その後数寄屋橋に移転、築地に再移転しているが、石川啄木が校正係として働いていた滝山町は、銀座六丁目の並木通り沿いにあった町である。由来は開創町名主が滝山藤吉であったからとも、町には竹林が多かった為ともいわれる。また、この地に奥絵師の狩野信之や能の一派、金剛家らが居住していた。隣の七丁目にあった「竹川町」は、竹を売る店が多く、寛永の切絵図では「竹山町」、承応、明暦の切絵図では「竹屋町」「竹倉町」とも呼ばれ、町内には朱肉を取り締まる「朱座」があった。 

「佃島」

 「佃島」は古くは向島、その北側の「石川島」を森島、鎧島といい、佃島は隅田川(大川)に点在する干潟(寄州)であり、石川島は三角州であった。この寄州を摂津国西成郡佃村と大和田村の漁民が拝領、築島して移り住んだ。

 そもそも佃の漁民と家康の関わりは、天正十年(一五八二)六月二日の「本能寺の変」にさかのぼる。「長篠の戦い」の後、「天目山の戦い」でやっと、念願の甲斐武田軍を討ち負かした織田、徳川、北条の連合軍は。しばし休息のため家康は京に招かれる。

家康は在京を利用して、堺の商人と鉄砲の打ち合わせをしたり、住吉神社に参拝をしている。この視察旅行中、大雨のため神埼川が増水し、渡河が出来ないでいる時に、舟を出してくれたのが、森孫右衛門以下の佃の漁民たちであった。

 慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いで天下を握った家康は、豊臣家を根絶するために、元和の役(一六一四~五)いわゆる大坂冬の陣、夏の陣を起こした。ここでも佃の漁民たちは、西国大名たちの侵入に対する大坂湾の巡視、魚好きな家康のために、伏見城に魚の響応をしている。そうした関係により、二村の漁民たち三十余人が、江戸へ召しだされ下ることになる。

 この時期については二説があり、「日本橋魚市場沿革紀要」によれば、天正十八年の家康入府の際に同行してきたとされ、一方、「佃島年代記」によれば、幕府の呼応に応じて、慶長十七年(一六一二)神官と漁民が江戸へ下ったとされている。しばらくは老中安藤対馬守や石川八左衛門の屋敷に寄宿していたという。

 寛永年間(一六二四~四三)鉄砲州沖(隅田川)の寄州を拝領、漁の合間に大川に川砂と「しがらみ(柵)」をもって十四年をかけて、正保元年(一六四四)百間四方=壱萬坪、(実質九十五、三九間×九十、四間=八六二三坪)を築島、故郷の名をとり「佃島」と命名、翌二年、府内への佃の渡しを開始、三年、摂津の住吉神社を勧請している。

 「江戸の図に 点をうったる 佃島」 「不如帰 一声鳴いて 佃島」 

 

「築地」

 「築地」とは、海面の埋立地をいう。江戸には「築地」と名のつく土地がいくつかある。①今回登場する隅田川右岸、鉄砲州先に明暦大火後に埋め立てられた土地 ②隅田川左岸の埋立地の総称として、木場など築地二十四ヶ町をいう ③溜池西側にあった赤坂築地町 ④牛込にあった赤城築地町、それに隣あった筑土八幡は現在もある。また、明治以降の埋立地、「月島」も当初の地名は築島、紛らわしいと云う事で月島となった。

 明暦大火後の万治元年(一六五八)、四代家綱が松平伊豆守らに命じ、木挽町の海手を埋立(築きあげた地)、これによりこの辺りを築地と俗称する様になる。(御府内備考)次第に大名屋敷が増えだし、浅草御門南の横山町(現、日本橋横山町)より、浅草御坊(江戸海辺御坊、浜町御坊)と呼ばれていた「浄土真宗、西本願寺」が、焼失後の移転先として命ぜられたのが、まだ大川の河川敷であったこの地であった。

 鉄砲州と云われた寄州の内側であった本湊町、船松町、十軒町、明石町あたりまでは、州が防波堤の役目をしたため、比較的穏やかに進んだが、その先の州が切れた地域は、江戸の海の波をまともに受け難航をきわめた。

 ここで活躍したのが、対岸の住民たちである、佃島の漁民たちであった。寛永年間(一六二四~四三)に拝領した鉄砲州沖の寄州を、十数年かけて築島した豊富な経験とノウハウを屈指、加えて熱心な浄土真宗の信者でもあった、佃島の漁民たちは我が旦那寺を建立するため、漁の合間をぬって埋立てに協力した。

「春もやや 気色ととのふ 月と梅」 芭蕉

延宝七年(一六七九)阿弥陀如来立像を御本尊とする、築地本願寺が建立される、明暦の大火で、浅草御坊と呼ばれた寺院が焼失してから、実に二十二年の歳月が経っていた。当時は晴海通りの方角を向き、敷地一万二千坪、五十八の塔頭が境内におかれた。

江戸期は何度も火事に見舞われ、安政二年(一八五五)の地震でも倒壊、明治に入り東南側に「居留地」が開設、明治五年、銀座の大火でも焼失、大正十二年関東大震災により崩壊、現在、銀座方面に向いて建てられているインド様式の建物は、仏教の根源はインドであると云う考えに基づいて、昭和九年、伊東忠太の設計によるものである。

 

「中洲」

 隅田川は東京湾から遡上してくると、築地大橋、勝鬨橋、佃大橋、中央大橋、永代橋、隅田川大橋、清洲橋を抜け、次が新大橋、この清州橋と新大橋の間の右岸の町が、中央区日本橋中州である。

上流からの流れが大きく左へカーブするため、土砂が溜まり易く、三角州ができ「中洲」と呼ばれた。また、一度埋め立てられた西側の掘割を、再び水路(箱崎川)としたため、流れはふたつとなり「三っ股」と呼ばれる様になる。

 明和八年(一七七一)「三俣出州築地計画」が、道中伝馬役の馬込勘解由の発案で開始され、安永元年(一七七三)に中洲新地として竣工、同四年、町屋が整った。この計画の目的は土地を造成して、その地代で伝馬業の経費を補填しようとするものであった。

四年かかりで隅田川が左にカーブし、土砂が溜まり易い部分に、約九千坪の土地を造成、三俣富永町とした。ここに九十三軒の茶屋を開き、新吉原をしのぐ大歓楽街が出来あがる。為に両国広小路や深川門前町が、寂れるほどの盛況ぶりであったという。

 しかしこの栄華はわずか十余年で消えさる。後ろ盾の田沼意次が失脚、寛政元年(一七八九)老中筆頭松平定信による「寛政改革」によって、中洲の町は川の中に沈んだ。その理由は隅田川の氾濫の元凶となるというものであったが、その真の理由は、風俗営業を嫌う定信の、潔癖性からくるものだとされている。

中洲の土は、明和八年から九年=安永元年(一七七一~二)にかけ、本所御船蔵前の土砂を運んだとされ、また明和九年に発生した「目黒行人坂の火事」の残廃も使われたとされるが、閉鎖後の中洲の土は取り崩されて、対岸の石川島と佃島の間にあった、三角形の州に運ばれ造成され、「石川島人足寄場」となり、多くの無宿人が収容された。 また、越中島の埋立や、上流の墨堤の補強にも使われ、三囲神社の鳥居が、川から半分程隠れるようになり、現在でも川から望むと、鳥居の脚の部分は隠れている。

維新後明治政府は、「大川中洲築立」の再埋立て計画を実施、明治十九年中洲町が誕生、対岸佐賀町への渡船も始まっている。二十六年、真砂座開演、周辺は江戸の頃のように茶屋、料亭などで賑わったが大正六年閉鎖、江戸期の歓楽街は十余年の栄華であったが、近代の歓楽街はその倍、三十余年で幕をおろした。昭和二十ニ年、日本橋中洲を表示、同四十年、浜町との境、翌年、箱崎町との境が埋立てられ、完全に地続きとなる。

「中洲いま 馬鹿者どもが 夢の跡」

 

番外編 江戸にあったやたらと多い「島」のつく地名

「島」とは地質学的に捉えると、グリーンランドより大きく、オーストラリア大陸より小さく,四方を水域に囲まれた陸地をいう。因みに三方位を囲まれた陸地は,半島と呼ぶ。もう少し細かく定義すると、①水に囲まれている。②自然にできた地形である。 ③満潮時に沈まないなどが、島となるが、人工島などは島とは認められない。

自然地理的には周囲を海、湖沼などによって完全に囲まれ、本土に対して相対的に狭小な陸地を指す。日本では四国より大きな陸地を本土、択捉島より小さい陸地を「島」と呼んでいる。一/五万分地形図に記載されている島は、四千三百四十五島ある。

「佃祭」より 十一代 馬生演

まぁ、隅田川の周辺てぇと、島のつく地名がおおございますね。

向島、牛嶋、寺嶋、京島、柳島。こっち側くるってぇと三河島、小島、清島。それから下って来るってぇと、霊岸島、亀島、永代島、越中島、大島、石川島、佃嶋、月島。

え~、随分と、これ島がおお御座いますね。もともとは島だったところをドンドン陸続きにしたんでしょうが。あの石川島は以前、造船所がございまして、えー、我々が子供の時分、大きな船があそこに入ったんですね。

えー、それがためにこの勝鬨橋を、開けるようにしたと伺っておりますが、で、いつの間にか造船所がなくなったら、あれ、高級マンション、凄いですな、地名までなくなっちゃって。佃リバーシティ、て、こういうんですね。(略)

噺は御覧のように江戸弁で、佃の漁民と家康の関わり、日本橋魚河岸から佃煮の話、佃の渡しが八の字を描いて進んだ話も入って、最後は月島の長屋からお馴染みもんじゃで終るという、川向こうを網羅した噺となっている。

知っている島、知らない島、江戸が如何に多くの島で出来上がっていたかが、噺の上からも知りえて面白い。この噺は築地の市場が、まだ豊洲へ移転する前の時代であるから、その後の東京湾の相次ぐ埋立てで、馬生師匠、島の名前を覚えるのに一苦労かと思われる。 

江戸純情派「チーム江戸」

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