24 江戸にあった 「おもしろ」 地名
おいてけ堀/金六町/鮫洲/砂村隠亡堀/丹後殿前/鉄砲洲/土支田/
猫貍橋/日陰町/曳舟/左り横町/へっつい河岸/余丁町/
「小豆沢、おいはぎ坂、我善坊、疱瘡店、竜土町」
「おいてけ堀」
「置行堀」「おいてきぼり」ともいわれ、寛政年間(一七八九~一八〇〇)創作された、「本所七不思議」のひとつになっている。画報によると、太公望が釣った魚を、びくに入れて帰ろうとすると、堀の中(墨田区石原四丁目辺り)から、おいてけ、おいてけと呼ぶ者がある。怖いので急いで家に戻る途中で、獲った魚が全部なくなってしまうと云った奇談、怪談めいた話である。
江戸の頃の本所は、水路が多く魚がよく釣れた。同じような話は本所の錦糸堀の他に、隣の葛飾堀切にも、向島の源森橋、深川の仙台堀、埼玉川越にもある。この「おいてけ」の正体は、河童、かわうそ、むじな、すっぽん、狸、人間の追剥などが想像できる。因みに、隅田川七福神の多聞寺に狸塚がある。寺の狸が、ここから本所に出張していったものとみえる。
現在の錦糸町、菊川、両国、押上、業平などを含む「本所」は、元の町、本来の町といった意味をもち、歴史的には己の帰属する主家、本家の意味に用いる。また、荘園での実行支配権を有した者を指した。
本所は深川と並んで、下町の外郭をなす地域で、両国橋を挟んで、日本橋両国と本所東両国とされたが、東両国は別称「向こう両国」であった。本所は明治の頃は「ほんじょう」で、「ほんじょ」が一般的になるのは昭和以降である。ここに住んでいる人間は「本所っ子」といわれ、江戸っ子の代名詞ともなっていたが、現在では、その呼び方も次第に少数派となっている。
「金六町」
江戸期に京橋川の南、八丁堀水谷町に隣接した土地に、柴田金六が長屋を開き、明暦大火(一六五七)後に、火除け地となり築地に移転、その後、八丁堀や築地へと、移転や引き移しが多かった為、元地、代地、同名地などが各地に多い。当初一帯は「京橋金六町」、後の木挽町一丁目(現銀座一丁目)となっている。
宝永七年(一七一〇)朝鮮使節歓迎のため、国威高揚を目的とした芝口御門造営により、現、中央通り七から八丁目にあった出雲町の南半分(南金六町=芝口金六町)は、収公され御用地となり、新橋(あたらしばし)と名付けられた橋も、「芝口橋」と改名した。しかし、それから十五年後の享保九年(一七三四)、火災により焼失、御門は再築されず、橋の名称も新橋に戻り、土地も元に戻された。
江戸期、「芝口金六町」と呼ばれた土地は、明治二年から五年にかけて、芝口北紺屋町、金春屋敷や三十間堀八丁目などと合併して「南金六町」となり、現在は銀座八丁目となっている。この辺りは新橋が近く、東海道の両側町にあたっていた為、信楽茶屋など待合茶屋も多く、店頭に茶釜を出して、商人の寄り合いや、旅の送迎、開帳の出迎えなどでにぎわっていた。
「鮫洲」
お江戸日本橋から約二里、品川は当初目黒川の境橋から南の南品川宿、北の北品川宿の二宿で構成されていたが、北品川宿の更に北方に、歩行新宿ができ三宿となる。「鮫洲」は南品川宿の南端から、立会川までの細長い地域で、東は江戸の海、西は紅葉の名所「海晏寺」である。
建長三年(一二五一)品川沖に大きな鮫が浮いていた。当時の記事によると「海晏寺寺伝云 昔、品川海上に大鮫死して浮出るを、漁夫得てこれを割けるとき 腹中に正観音の木像出現す。人々不思議の思をなす、今に門前を鮫洲の号するは其故なり」。鎌倉幕府執権北条時頼は、観音像を本尊として補陀落山海晏寺(曹洞宗)を創建、江戸期は近くの御殿山の櫻とともに、この寺の紅葉は江戸っ子の人気をさらった。
また、一方の名の由来として「寛政四年(一七九二)海中礒辺干潟の時、砂の中より清水出る故名とする」とあり、「砂水(さみず)」が転訛して鮫洲となったともいわれている。
「砂村隠亡堀」
文政八年(一八二五)中村座で初演された、鶴屋南北作「東海道四谷怪談」、この物語でなお怖い場面のこの堀は、砂村本八幡が舞台となっている。元八幡とはもともと浮島に鎮座していた産土神を、砂村新左衛門が勧請したもので、現在は「富賀岡八幡宮」。寛永四年(一六二四)永代島を開墾した長盛上人が、ここに「深川八幡宮」を創建、以後、八幡様と云えば深川(富岡)八幡、元の産土神は元八幡と呼ばれている。
「砂村」は現在の江東区北砂、南砂、新砂、東砂の、四っの砂村からなる。万治二年(一六五九)新左衛門が、干潟の「浮き島」を開拓「砂村新田」と名づけた。 開発当初には塩除堤(土手)が築かれていたという。
「丹後殿前」
江戸期、神田雉子町の北の通りに、越後国蒲原郡村松三万石堀丹後守の屋敷があり、その頃この辺りに、「湯女」をおいた風呂屋(丹前風呂)は、吉原をおびやかす程の盛況ぶりをみせた。
丹前風呂で客の髪すきから、飲食などサービスを提供していた「湯女」のひとり「勝山」は、丹前をぞろっと着て二本の木刀をさし、この辺りを歌舞伎役者に匹敵するほどの、斬新ないで立ちで闊歩していた。
丹前とは厚く綿の入った、防寒用の広袖の長着で、派手な縞柄のものが多く、旗本奴の間では、六法組などの間で流行した。六方とは歌舞伎のふりのひとつで、手足を前後、左右、上下に伸ばして、喜びを表現する演技のひとつで、歌舞伎十八番「勧進帖」で、弁慶が舞台から花道へ戻るシーンでの、動きの激しい「動の演技」である。
官営の吉原を脅かすものとされ、廃絶させられた後、ここで働いていた勝山は、新吉原にトレードされて太夫となり、勝山髷やおいらん道中のパフォーマンス、「外八文字」を考案、歌舞伎役者同様、当時のカリスマファッションリーダーであった。
「鉄砲洲」
「鉄砲洲」の名称の由来は、寛永年間(一六二四~四四)幕府鉄砲方の井上、稲富の二人が、大筒(大砲)の町見(試射)を行っていた為であるとか、ここの地形が、種子島(鉄砲)に似ていたからともいわれる。明暦年間(一六五五~五七)以降、「洲は突き出されし(新井白石)」、これによって湊町、船松町、明石町などが起立された。
広重江戸百、第十六景「鉄炮州稲荷湊神社」では、千石船の帆柱の間から稲荷橋が見える。この橋を渡ると左側に赤い湊稲荷神社と、寛政二年(一七九〇)に築造された、富士塚(富士浅間神社、現在高さ五、四m)も描がかれている。
この神社の由来は、平安時代の承平八年=天慶元年(九三八)、凶作に悩む桜田郷の住民たちが、産土神を祀ったのが始りとされ、江戸期になって「髙橋の南詰にあり、鎮座の由来評(つまび)からず、この地は廻船入津の湊にして、諸国の商ひ船普(あまね)くここに運び、碇を下して問屋に運送、近世吉田家より、湊神社の号を贈らるる」とある。
更に、「当社は南北八丁堀の産土神なり。此の詞、昔は八丁堀一丁目の南岸にありしが、この地年月を重ねて、家居立ちつづきければ、八丁目の大川はしに置せし」、寛永元年(一六二四)稲荷橋南東詰に遷座、詞は江戸の拡大と共に、東へ東への海岸線に移転、江戸後期、「浪ヨケイナリ」とも称された。
現在の神社は明治元年、稲荷橋東南の地より内陸の湊一丁目に移されているが、常に江戸水路網の入口に位置、全国船乗りの信仰を集めてきた。以前「鉄砲州」の名称は小学校にもあったが、現在は神社のみ、例大祭は三年に一度の、五月二日から五日に行なわれる。
「土支田」
「どした」と読み「土志田」とも書く。練馬区石神井川の北、白子川の南に位置する、この土地の名の由来は ①土師器を生産する人々が集住していたことから土師田に転訛した。 ②「ドキ」は「トキ」で、仏田や神田の「斉田(ときた)」からきたともいわれる。
いずれにしても、濁音で始まる地名は、古代にはないため、おそらく鎌倉時代以降の、命名であろうと思われている。この村は東西三十二町(一町≒百〇九m)余りの、細長い大村であったので、上組、下組に分かれていた。
「猫貍橋」
文京区千石二と三丁目の境(不忍通り)を猫貍坂、交差点を猫貍橋としている。(文京区教育委員会)この橋の下を流れていたのが小石川で、猫貍橋は「ふたまたぎ」と呼ばれていた。名称の由来は、大木の根っこの脵を架けて、橋とした事によるとされているが、「猫貍」とは、この辺りを通る里人が、怪(化)物に化されることが多かったので、この字が当てたともいわれている。
「日陰町」
芝口橋(新橋)の南、芝口三丁目の西裏側の新道を「日陰町通り」と称した。寛文年間(一六六一~七三)に町の片側を削って、道路を通じた所で、道幅二間の日当たりのよくない道路で、参勤交代で江戸にきた国侍が、家族の土産用に購入する、伽羅油、書物、錦絵や古着などを売る店が並んでいたという。
「曳舟」
「曳舟」とは舟の舳先に縄を結び、その縄を人間が引いて進むというもので、広重が江戸百、第一〇二景で「四ッ木通用水引ふね」と題して、大きく曲がりくねった「本所上水」とも「亀有上水」とも呼ばれた、用水(曳舟川)を描いている。
この川は万治二年(一六五七)に、瓦曾根溜井(鳩ヶ谷)を水源に、開発された用水で、水は旧荒川の両岸を拡げ、埼玉郡、足立郡、葛飾郡四ッ木を経て、本所、向島に流されていた。
本所上水(亀有上水)は海抜が低く、土地の起伏が少ない為に、下流部分では満潮時海水が混じり、飲料水としては向かなかった。この為、享保七年‘(一七二二)上水として廃止され、その後灌漑用水として、また水上交通の水路(曳舟川)として活用されていった。
四ッ木(四継村)から亀有村まで約二十八町(約三㌔)、前述のように土地の起伏が少なく川底が浅いため、櫓をこぐ舟は適さず、近くの農民が副業として人力による「曳舟」の方法をとった。
曳舟川の土手の堤は、水戸街道の脇道が通り、亀有で合流していたため、水戸への交通や、「柴又帝釈天」の参詣にも利用された。この曳舟川、大正時代の荒川放水路の工事で分断され、現在は暗渠(曳舟通り)となっている。
江戸を流れている自然河川(river)は、隅田川と多摩川、切絵図に青くほぼ直線状で塗られている掘割は、人工河川(canal)である。世界に目をやると、ライン河やヴォルガ河も、かっては舟を人や馬に曳かせていた。中国でも、杭州から長安に至る長江で、人が舟を曳いていた。日本に限らず、世界の自然大河川でも、岸に道をつけ人間が利用する事になると、「運河」と呼ばれるようになった。
「左り横丁」
港区赤坂新町二と、三丁目(現在赤坂三丁目辺り)の間にあった横丁で、江戸期の俗称地名である。この横丁の煙草屋が、左手で煙草の葉を刻んでいたので、この名がついたといわれる。現代では珍しくもないが、江戸時代左利きが少なく、珍しかったせいかこの俗称が残った。
江戸時代の煙草屋は、葉煙草の小売店と、刻み煙草を売る店とがあり、煙管など喫煙具などは小間物屋で売っていた。明暦年間(一六五五~五八)の頃には葉煙草屋があり、自分の家の包丁で刻んで商売していたが、寛政年間(一七八九~一八〇〇)頃から、次第に需要が多くなり、歯車のついた煙草刻みの器械が作られたり、内職の手間稼ぎにもなった。宝暦年間(一七五一~六〇)になり、刻み煙草の行商人も多くなり、桐の引出しのついた箱を担いで、お得意先を廻っていた。
この様に江戸時代は、煙草といえばもっぱら刻み煙草、これをひとつまみして火皿(雁首)に詰め火を付ける。一服目は旨く二服目はやや落ち、三服目は不味くなる為、二服と半分で止めるのが、最上のエコな吸い方であった。
吸い殻は灰吹き竹に、軽く叩いて捨て、残った煙を吹き出す。これをしないと、中に残った煙が煙管にヤニとなって溜り、煙草の味を不味くし、煙管を詰まらせる原因ともなった。
煙管の素材は、全体を銀、銅、真銅などの金属で作った「延べ煙管」と、雁首と吸い口を竹でつないだ「羅宇煙管」がある。羅宇はラオス産の竹で、一昔、間の料金を払わない乗り方を「キセル」といったが、今はパスモ、スイカでこの芸当は出来ない。
「へっつい河岸」
「竈」は食べ物の煮炊用に用いる施設で、「へっつい」とも「かまど」とも読む。また、かまどは、「釜所」が転訛したものといわれる。関東ではへっつい、関西では、くど、おくどさんと呼ぶ。持ち運びのきく小型のものは「七輪」と呼ばれ、新世帯の贈り物として喜ばれた。(落語へっつい幽霊)
江戸期の炊飯、調理に使われた道具は、江戸は羽釜、関西では鍋。かまど(へっつい)は薪をよく燃やすための煙突がなく、長屋の屋根の天窓は、屋内の換気用として用いられ、その傍には出火の予防のため、火伏せの神様である「遠州秋葉明神」や、「芝愛宕神社」の御札が必ず貼られていた。
「へっつい河岸」は、浜町川の入り堀沿いで、住吉町の裏河岸、浪花町の南境にあった掘割で、元吉原の廓跡、「おはぐろどぶ」の一角をなしていた。御府内備考には「松島町中の俚俗名なれど、その辺りの屋敷もへっつい河岸とよぶ」とある。南側に面したこの掘割を利用、土と瓦で作られたへっついを、天日乾燥させ製品としていたので、この名が残る。明治二十一年埋立てにより消滅している。
また、「へっつい横丁」は、かまど横丁ともいわれ、昔から左官職人が多く住み、へっついを作って商売をしていた。現在の港区赤坂三丁目のうちである。
「余丁町」
[よちょうまち]と読む。江戸期は豊島郡野方領戸塚村、初期は東大久保村であったが、後に御旗組屋敷となっている。地域内に四丁の小路があったので、俗に大久保四丁町と呼ばれていたが、四は死につながるとして、後に「四」を「余」の字に、変更したとされているが、この以前から、町は余丁町であったとされている為、この説は頷けない。
昭和二十ニ年、牛込区から新宿区へ移管する際、区側は東新宿を提案したが、地元住民側は従来の地名を主張、現行の新宿区余丁町になったという経緯がある。昭和二十ニ年といえば、町名改正で江戸の頃からの歴史ある町名が消え、殺風景な町名が増えた時期であった。地元住民の熱意により、本来の町名が残ったという、代表的な町となっている。
「小豆沢、おいはぎ坂、我善坊、疱瘡店、竜土町」
「小豆沢(あずさわ)」と読むこの地は、板橋区北部の地名で、新河岸川を隔てて北区浮間があり、江戸期は武蔵国豊島郡小豆沢村であった。この歴史は古く平安末期、平将門が本拠地常陸の岩井から、大宮台地を抜け入間川を渡り、武蔵野台地の小豆沢に、湊を造ったともいわれ、また頼朝も治承四年(一一八〇)、始めて武蔵国に上陸したのも、小豆沢湊の近くであったといわれている。
「おいはぎ坂」は、別名「牛洗井戸坂」、大森風土記によるとこの坂は細く樹木が覆い被さり、昼でも薄暗かったので、通行人がよくおいはぎの被害にあった事から、この名が生まれたとある。現大田区南馬込四丁目にある坂で、昔は池上本門寺に抜ける裏道であった。
「我善坊(がぜんぼう)」と、一風変わった名の由来は、二代秀忠の正室、お江与(崇源院)の葬儀の際に、現在の港区麻布台一丁目辺りに「龕善堂(がんぜんどう)」という寺を建てた事に由来、この字をあてたといわれる。また、坐禅する僧の坐禅坊が、転訛したともいわれる。この辺りは崖地が多く、我善坊坂は崖地に沿って、六本木へ向かう登り坂となっており、周辺には御手先組の拝領屋敷や、但馬出石藩仙石家、陸奥八戸藩などの上屋敷があった。
「疱瘡店」は、元禄期辺りまで沼沢地であったので、西大沢の俗称もあり、麻布今井町辺りの青山忠成などの武家屋敷内であった。疱瘡の患者が発生、ここの町屋を借りて住まわせたので、この名がついたといわれる。現、赤坂新坂町。
「竜(龍)土町」は、現在の港区六本木七丁目の外苑東通り辺りで、江戸初期までは海岸沿いの漁村で、漁人(りょうど=漁夫)町といわれていたのが、転訛して「竜土」になったといわれ、また、愛宕下西久保猟師村が元和年間(一六一五~二三)に、麻布領内に代地を与えられた際に、漁土を竜土に改称したという説もある。さらに、寛永年間(一六二四~四四)この地に竜が現れたという伝説によるともされるが、この説は夢のまた夢の話であろうと思われる。
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