23 江戸 「ほんのり」 地名

藍染川/市川真間/お玉ヶ池/面影橋、姿見橋/恋ヶ窪/不忍池/妻恋坂/

夫婦坂、夫婦橋/湯島

「ほんおり」とはわずかに認識される事を指す。色、香り、姿などが、かすかなるさまをいい、うっすら、ほのかに、弱弱しく認識される程度のもので、「頬をほんのりそめる」「梅の香りがほんのり薫る」などと使われ、同義語に、うっすら、ぼお~と、仄々などがある。

「藍染川」

 「藍染」の文字は面白い。そのまま読むと,染料の藍で染める事になるが、江戸っ子はそれだけでは面白くない。「藍」を「愛」「逢い、合い」「哀」などに置き換えてみると、藍の文字が人の世界で、拡がりをもって用いられてくる。そういった意味あいから、この川は江戸の各地に流れていた。代表的な藍染め川を御紹介する。

江戸の町人地は、一尺か一尺半、三尺、六尺幅と,規格された下水溝が張りめぐらされ、それ以上の幅の大下水のものは「川」と呼ばれていた。神田紺屋町から、染物を洗った排水で、藍く染まった下水溝が、神田の「藍染川」であった。

将軍様お膝元、職人町神田を流れていた藍染川は、江戸名所図会によれば、「天和二年(一六八二)開削、神田鍛冶町の通りを横切り、東の方へ流れる溝を藍染川と呼んでいた。この名の由来は俚諺に一町ばかり上に、南北の水が合い会流するが故に「逢初(あいぞめ)」と呼ばれ、また、紺屋町辺りを流れ、川の水が藍で染まっていた」とされる。明治十七年から十八年にかけての、東京下水道工事第一号で、埋め立てられ消滅、お玉ヶ池も姿を消した。

縄文海進の時代、上野、本郷台は半島であり、谷中、根津、根岸などは奥深い入り江であった。それらはその頃の名残の地名である。氷河期に入り海が退き、一筋の川となって残されたのが「藍染川」である。

 上野忍の丘と本郷台地の間を流れていたのが「藍染(根津)川」である。その名の由来は、染井村から流れ出るからとも、染物屋(地場産業として昭和二十年頃まで存続)があった為とも、ふたつの川が根津の遊郭辺りで、合流していたからともいわれる。

明治の末前までは、蜆が採れ、小魚が釣れ、子供が水遊びをし、川の中に立つと足元は砂利で、川底まで澄んでいた。別称、千駄木の十三曲がり、蜆川、蛍川、境川(台東と文京の区境)、谷田川とそれぞれの特徴をよく現わしている。

 染井霊園から端を発し、西ヶ原、駒込、根津谷、不忍池から上野の山の三橋下で忍川となって、三味線堀から大川に流れ込んでいた川で、上流から境川、谷戸(田)川、藍染川、忍川と名を変えながら、江戸の北東部を流れていた。

もうひとつの「藍染川」は、浅草花川戸から浅草材木町へ通じていた、三間幅程の溝梁である。花川戸北側に、唐獅子屋の看板をあげた染物屋があり、その前の溝を藍染川と呼んでいた。

「市川真間」

 山部赤人など万葉の歌人が詠んだ「真間の手児奈」による地名である。手児奈は美人のため、男同士の争いが絶えなかったという。誰かに嫁げば誰かが悲しむ、心優しい(一方では主体性の無い)手児奈は、海に身を投げてしまう。その菩提を祀ったのが真間山弘法寺である。

万葉集にも詠まれ、広重江戸百、第一一七景「真間の紅葉手古那の社継はし」の継ぎ橋は、砂州と砂州が入り組み、、この辺りの土地を結んでいた、小さな木の橋が画面中央に小さく描かれている。因みに京成「市川真間駅」は、五月第二日曜の「母の日」が近づくと、駅名を「市川ママ」に書き換え、近くの保育園、幼稚園、小学校のママの似顔絵を飾り、イベントを盛り上げている。

 真間から江戸川の方に向かうと、家康入府の頃は、江戸の待乳山から国府台の間は、利根川など五本の大河が、江戸の海に流れ込んでいた。湿地帯の東の対岸「国府台」は、「鴻之台」ともかかれ、下総国府が置かれていた所である。

中世になると、江戸川に沿った下総台地の高台には、道灌の弟、資忠らが築いた国府台城がおかれ、慶応四年(一八六八)大鳥圭介らの旧幕臣と、土方歳三らの新選組がここに集結、北関東から会津に向かい、上野の山では彰義隊が戦かっている。

 ここ国府台での、広重の第一一八景は「鴻の臺とね川風景」。国府台は自然の要害として、砦を築くには最適な条件を備えていた為、律令制度以降も戦国時代には、後北条氏と里見氏との攻防など、戦いの場所となってきた。

「お玉ヶ池」

 千葉周作の道場があった神田「お玉ヶ池」は、昔、この辺りが奥州への通路にもあたっていたため、桜が沢山植えられて、「桜ヶ池」とも呼ばれていた。

その池の傍らで茶屋を営んでいた娘、玉は「色おほかたならざりければ(現代語訳、お玉は非常に美人であったため)」二人の男から同時に愛された。思い悩んだ挙句この池に身を投げてしまう。(現代なら面倒な二人とも断るか、自分を如何に大事にしてくれる人間を選ぶ、絶対に自分は犠牲にならない)以来この池は「お玉ヶ池」とよばれる事になる。

 この池の水源は旧石神井川(谷田川)であり、飛鳥山辺りで大きく右折、日暮里、千駄木、根津から、池の端でせき止められた「不忍池」から、下流の岩本町辺りでお玉ヶ池を巡り、日本橋小網町辺りで、江戸の海に注いでいた。

 小網町の上流が、旧石神井川を埋め残して掘留としたのが、東、西の「堀留川」であり、一方、葦や葭が生えていた湿地帯(砂州)に、縄張りして埋め残した部分を「掘割」とした発想とは、全く逆の手法である。「逆もまた真也」である。 

「面影橋/姿見橋」

 この橋の由来は、「むかし此の橋の左右に池ありて、其水泛んで流れず、故に行人覗きみれば、鏡の面に相對するが如く水面湛然たる、故にこの名とする」としている。また、悲運の美女が身をはかなみ、川面にわが身を映して入水した、という伝説にもとづくともいわれ、別称「姿見の橋(小滝橋)」と呼ばれ、水面に我が身が、鏡のようにはっきりと映ったという。

 また、「於戸姫伝説」によれば、美女であった姫に、夫の友人が横恋慕をし、挙句夫は殺されてしまう。妻は夫の仇を討つがその運命を嘆き、神田川に入水してしまう。「変わりぬる 姿見よやと行く水に 映す鏡の影に恨めし」 面影、姿見に因む伝説は各地にあり、姿見の池、姿見井戸として名を残している。面影橋に関連する橋に「姿見の橋」がある。この橋は面影橋の別名とも、神田川のやや北の小川に架かかっていた橋だと云われているが、広重は江戸百、「高田姿見のはし俤の橋砂利場」で、手前の神田川に架かる橋を「姿見の橋」、奥の小川に架かる橋を「俤橋」としている。

 都営唯一の路面電車「荒川線」で、三ノ輪から王子飛鳥山で大きく左折、ババの原宿巣鴨から、文亀二年(一五〇三)に創建された、中山道の立場(休息所)庚申塚を経由、終点早稲田に着く手前の、春ならば桜並木が美しい神田川に、面影橋は架かっている。

神田川は新宿区西早稲田三丁目と、豊島区二丁目の間を流れ、目白台に登る「宿坂(しゅくさか)」の道筋は、家康入府前の奥州道中で、関所が置かれていた所である。面影橋の袂の辺りを、道灌に因む「山吹の里」といい伝えられている。

「恋ヶ窪」

鎌倉時代に畠山重忠という武将がいた。鎌倉への往復にはこの「恋ヶ窪」で足を留めてここで働くあさ妻太夫と恋仲になった。やがて平家追討の命が下り、重忠は頼朝の命令で西国へ出陣、その後横恋慕の男の、重忠が戦死をしたという風評を信じ、太夫は「姿見の池」に身を投げて死んでしまう。里の人々は太夫の死を悼んで、墓のそばに一本の松を植えた。後世、この松の枝は大きくなって重忠を偲び、西へ西へと枝を伸ばしたという。

 畠山重忠は坂東武者の鑑とされ、平家追討の戦いでは義経と共に活躍、特に「宇治川の戦い」では巴御前と対決、重忠の怪力をおそれ、女性としては豪傑の巴御前が逃げ出したと云う逸話が残っている。しかし、頼朝死亡後、初代執権北条時政の謀略により、一族は滅亡している。

 この「恋ヶ窪」の名の由来は ①府中に近い狭い窪地である ②窪地で鯉を飼っていた ③先程の太夫の恋からきているともいわれる。ここは湧水が豊富で、姿見の池の湧水群と、恋ヶ窪にある日立の研究所の池を水源としている野川は、「ハケ」といわれる国分寺崖線にそって南に流れ、二子橋の下で多摩川に合流している。その長さ約二十㌔。ハケとは崖がハケに転訛したとも、湧水が吐き出されるから、ハケになったとも云われるが定かではない。

「不忍池」

 「忍ぶ」とは我慢する、耐えるという意味合いをもち、世の中や人目を忍ぶ、忍ぶ恋路などと使われる。また「偲ぶ」という文字になると、昔の事柄や人物を懐かしく想い出すといった意味合いになり、昔を偲ぶ、故郷を偲ぶなどと使われる。口にだして伝えられない思いを詠んだ、小倉百人一首にこの歌がある。

 「しのぶれど 色にでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」 平兼盛

 「我が胸の 燃ゆる思いに 比らぶれば 煙は薄き 桜島山」

こちらは薩摩隼人が詠んだ歌である。

 上野の山は「忍ヶ岡」とよばれた。ここを藤堂高虎が拝領、故郷伊賀上野の地名をここに用いた。寛永二年(一六二五)東叡山円頓院寛永寺が建立された。年号を寺名にした例は延暦年間(七八二~八〇六)、京の鬼門に建てられた「比叡山延暦寺」がある。

 幕府もこれに倣い、江戸城の鬼門上野の山に東の比叡山、天台宗東叡山寛永寺を創建、近江の琵琶湖にみたてて不忍池を造り、竹生島になぞられた弁天島には、「天龍山生池院不忍弁財天」を祀った。不忍弁天島は「むすぶの神」、この辺りまで江戸の海であった。

 不忍の名の由来については諸説ある。古は「篠輪津」とも称し、篠(茅、芒の類)が輪のように池をめぐり、生い茂っていた事からといわれ、これらの植物で体が隠れてしまう為、姿を忍ばずからきた、また上野の忍ヶ岡に対し、池は「不忍池」とされたとも言われている。

 更には、弁天堂にある天保年間(一八三〇~四四)の碑には「篠蓮」とあり、篠とハスが多いことからこの名がつけられたともいう。いずれにしてもこの池は、縄文海進により、上野と本郷台地の間まで海が入り込み、その後海退によってできた「水溜まり」が池になったものだと推定されている。「忍ぶ忍ばず」と、人間の情感がこもった名称の土地である。

 夏の頃になると、不忍池の蓮の花が見事に咲く。ハスの根(蓮根)は将軍家にも献上され、「蓮飯」として食された。江戸期はハスの花と蓮飯を愛でに訪れる客も多く、池の周辺には出合茶屋も多かった。また、行楽の地であるとともに、ある程度の広さをもち、水をたたえていた。(水深約九十cm、水源は湧水と雨)不忍池は火事が頻繁に起きた江戸の町において、貴重な非難場所になっていたのである。

 

「妻恋坂」

 「妻恋」という言葉は、この章で一番ほんのりとする言葉である。神代の時代から育まれてきた夫婦愛、男の優しさを現す、最も適切な言葉が「妻恋」であろう。

明暦の大火以前、この地は霊山寺という寺社地であったが、この寺が類焼し浅草に移転、その跡に湯島天神町にあった妻恋神社稲荷が移ってきた。この神社の祭神は日本武尊、弟橘姫と、農耕の神様である倉稲魂神で、江戸期は一町四方を領し、関東惣社を名乗っていた。

この神社鳥居前から東から西へ上がる坂道で不忍通りまで続いている坂を、「妻恋坂」といい、古くは霊山寺開基の大超和尚から名を借りた、「大超坂」「大長坂」といった。長さ二百十m、高低差この十四m、平均斜度三.八度、坂から江戸の海と街が一望できた。神社の隣が「妻恋町」、江戸期は豊島郡峡田領湯島郷のうちの寺地であり、万治二年(一六五九)には、陸尺方(賄方、駕籠かきなどの雑人夫一般の呼称)七人の拝領地となっている。

一方、墨田区立花一丁目に、日本武尊と妻、弟橘姫を祀る「吾嬬神社」がある。日本書記「吾嬬はや」は「わが妻よ」という意味になる。古事記によると相模国から走水を渡り、上総の国に渡ろうとした際、暴風雨に遭い、その危険から逃れるため、弟橘姫が海中に身を投げ、海の神様を鎮めたという伝説が残る。

その後、姫の衣や櫛が流れつき、それを祀ったのがこの神社であるとされる。この話には続きがあって、ここで食事をした日本武尊が使った箸を、地面にさしておいた処、ひとつの根からふたつの芽をもつ「連理の樟」になったという。

広重第九十一景は「吾嬬の森連理の樟」と題して、桜の咲く十間川の土手の向こうに、樟の樹と思われる樹が描かれている。この樟の樹、明治の終り頃まで、大きくそびえていたという。

「夫婦坂/夫婦橋」

 夫婦とはいつも傍にいるもので、常に並んでいるか、向かい合っているか、前後にいるか、会話はなくとも、お互いの視界の届く範囲に存在している。この「夫婦坂」も大田区北馬込で、環七を挟んだ「貝塚坂」と向かい合っているので、この名称がある。大田区北馬込一と中馬込二の間から南に下る坂である。

同じく大田区内で東蒲田二と南蒲田一を結ぶ、「呑川」に架かる「夫婦橋」は、「土橋」に併せて「女夫(めおと)橋」と呼ばれていたが、呑川の改修工事により、小橋が撤去され、「やもめ」となり、元夫婦橋となっている。

「湯島」

 承平年間(九三一~三八)は、湯島郷であった。文明十八年(一四八六)堯惠法印は「忍の岡の並びに油井島といふところあり」と記している。また、加賀白山の修験僧は、忍岡を廻った後ここに至り、「湯島という所あり、武蔵の遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛んに薫ず」と記しているから、昔から湯島は、梅の郷であったことが伺える。名の由来は湯島天神辺りから、温泉が湧き出したから、と云われているが定かではない。

江戸初期から次第に町屋が多くなり、「桜の馬場」が設置され、元禄年間(一六八八~一七〇三)には、忍岡から孔子廟が移転し昌平學を併設、湯島聖堂として儒学の最高学府となっている。また、旧湯島郷に属した町には、神田明神門前、妻恋町、三組町、切通町、天神門前などがあった。

 湯島といえば、天神様と白梅で名が通る。雄略天皇の御宇二年(四五八)、勅命により創建された天満宮は、正平十年(一三五五)菅原道真を勧請、湯島天神は文明三年(一四七八)道灌が再建している。

 寛文七年(一六六七)建立の銅製の鳥居は、下脚部に小さな獅子の頭部が三体ついた、珍しい鳥居となっている。また、境内には奇縁氷人石とよばれる「迷い子」の石があり、右側には「たずぬるかた」 左側には「をしふるかた」を貼ってお互いの情報を交換した。

寛永三年(一六二六)の武江年表には、「冬、湯島天満宮杜に氷人石といふ物立つる、男女の縁組、迷子を尋ぬるもの、その他祈願の旨を書して、この石の片面に貼す」と記されている。男女の縁組とあるから、天神様は迷子探しだけでなく、男女の仲、今でいう「婚活」までも、サポートしていたものとみられる。

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