22 江戸 「ほのぼの」 地名

大田姫神社/うぐいす谷、根岸の里/柿の木坂/合羽橋/代田/

照降町、堀江町/道灌山/初音の里/ひぐらしの里、日暮里/山吹の里

 「ほのぼの」とは、ほのかに明るいさまをあらわし、例えば東の空が仄々としてくる、等に使われる。また、わずかに聞いたり、知ったりするさまにも、「ほのぼの」という言葉が使われる。人間社会においては、夫婦や親子の間の、ほんのりとした心の暖かさなどを、表現する場合に使われる。今回はこの夫婦、親子、はたまた動物たちや、幻の妖怪たちとの、心のふれあいについて検索してみる。

「太田姫神社」

 江戸城を築いた道灌が、山城国(京都府)一口(いもあらい)の里の社を、城内に勧請したもので、家康入府の際、神田に移されたといわれる。道灌の娘が痘瘡(天然痘)にかかった時、父親の道灌が娘の痘瘡が軽く治癒する様に、一口神社に人をやって祈願、その甲斐があって平癒、それを契機に江戸へ勧請されたものである。

 「いも」という言葉には「あばた」「痘瘡」といった意味があり、それらの治癒を祈願する神を痘瘡神、この神に因んで「いもあらい、一口、芋洗」の地名が、発生したといわれる。

 これに因み、山城国から勧請した、旧名「一口稲荷」は淡路坂の上から、駿河台四丁目に移り「大田姫神社」となる。この神社の境内には、道灌ゆかりの八重咲きの山吹が迎えてくれる。また、九段北三と四丁目の間には「一口坂」がある。この坂はもともと「いもあらいさか」と呼ばれていたが、現在では「ひとくちさか」と呼ばれている。

その名の通りの「芋洗坂」は、港区六本木にあり、昔、仲秋の名月の頃になると、近くの村から芋を馬の背にのせて運び、朝日稲荷の辺りで、毎日市を開き売っていた為、この名がついたといわれる。この頃の「芋」といえば、さつま芋ではなく里芋を指す。

 江戸の頃、痘瘡は高い死亡率の感染病であり、治癒しても顔にあばたが残った。また、はしか(麻疹)も、乳幼児の生存率を低下させ、人間の平均余命を、大きく引きさげた感染病であった。故に「疱瘡は見定め、麻疹は命定め」と、江戸の市民から怖れられた。

「うぐいす谷/根岸の里」

 「元禄年間(一六八八~一七〇三)日光御門主、此の辺へうぐいすを放たれし、故此の名ありと云う」(新編武鑑)。また、砂子にも「寺院七ヶ寺ある谷なり、いつのころにや東叡山の宮より、京のうぐいす数多く放させたまうは此所なりとぞ、今に至りて音色すぐれたりという」と記している。

 元禄の頃、上野輪王寺の宮様が「江戸のうぐいすの脚は黒いが、京のは赤や朱色で容姿、形もよい、鳴く声も関東はダミたる(訛った)声である」と評して、江戸の鶯の評価はさんざんであった。

 「うぐいす谷」の名称は、谷中にある霊梅院付近の谷に、うぐいすがいた事からこの名がついた。現在の谷中五から七丁目付近となる。明治に入り、この地で療養していた子規は

 「雀より 鶯多き 根岸かな」 と詠んでいる。

 現在のJR山手線鶯谷駅外(東)側は、江戸の頃から「根岸の里の侘び住まい」といわれた地域であった。ここは「ひぐらしの里、日暮里」とは隣り合わせであり、内側の崖上は徳川家の菩提寺、寛永寺から谷中の墓地と続いていた。

 「根岸の里」は、四季を通じて閑静な土地で、うぐいすや水鶏、藤の花、蛍、月、雪と、見るもの聞くもの事欠かない所であった。江戸名所図会によれば「呉竹の根岸の里は、上野の山蔭にして、幽趣のある故にや、都下の遊人多くは、ここに隠棲す。花に鳴く鶯、水にすむ蛙も、ともにこの地に産するもの、其声ありて賞愛せられはべり」としている。

 江戸期は日本橋大店の別宅地であり、火事の多い江戸では、北西の風が吹き荒れる、冬の危険な時期には、子供たちや女房を、早目に住まわせておく避難所も兼ねていた。また、別用途として、本人の心と体の非難先としての、別宅を構える御仁も沢山いた。

「柿の木坂」 

 江戸期は、荏原郡衾(ふすま)村に属していた坂で、村を横断する、二子街道と呼ばれた急坂であった。この坂のいわれは、中腹に大きな柿の木があったとか、またこの坂を往復する荷車から、村の子供たちが柿を抜き取って食べていた、「柿抜き坂」が転訛したものとか、また、人家が少なく暗くなると、子供たちが駆け抜けていった「駆け抜け坂」が転訛ものともいわれてる。最寄駅は東急東横線都立大学駅である。

 秋の真赤な夕陽に染まって、なお赤く色づいた柿を、これも真っ赤な頬の子供たちが、むしゃぼりついている。子供ならずとも、思わず手を伸ばしたくなる光景がそこにあった。

「合羽橋」

 浅草東本願寺西側に沿って、江戸期排水路として、造成された掘割を、新堀川といい、この川は南の鳥越川に注いでいた。震災により暗渠化され、昭和四十四年まで都電がその上を通っていた。

台東区むかしむかしによると、昔、千束池を埋立てた田圃のそばに、合羽川太郎が住んでおり、雨合羽を売って生計をたてていた。この地は低湿地で、少しの雨でも水はけが悪く、水浸しとなった。川太郎は水はけをよくするために、大川に通じる掘割を造る一大決心をし、雨合羽を売ってそれに充て、村人たちと工事を進めていた。しかし、なかなか進まず断念せざるをえなかった。すると、その情況を見ていた、大川の河童たちが、残りの掘割を見事造り上げてしまった。喜んだ村人たちは、川太郎と河童たちに感謝、そこに架かる橋を「合羽橋」、道を河童橋通りと名づけた。岩手県遠野にも、河童と人間の触れ合い話が伝わる。また、もうひとつの説は、伊予新谷加藤家の下級武士たちが、内職に雨合羽を作り、橋に掛け乾かしていたため、合羽橋と呼ばれる様になった。

菊屋橋交差点から、言問通までの約六百mは、調理、厨房器具の専門店が軒をならべ、暖廉から看板、メニューのサンプルまで売っており、毎年十月九日は道具まつりが開かれる。

「代田」

 昔、ダイダラボッチという大男が、住んでいたという伝説のある町である。伝説によるとその窪んだ所が足跡となった処が、代田小学校(代田四丁目)と守山小学校(代田六丁目)であり、この間がひとまたぎの距離で、右片足の長さが約百間もあったという。村の名の「ダイタ」は、この大男に基づいたものである。(柳田國男 ダイダラ坊の足跡)

 この大男の親戚が、近江の国にも住んでいた。近江の国の真ん中の土をすくい、その土を駿河の国へ放り投げるという悪戯をした。すくわれて水が貯まった処が琵琶湖、積まれた土は富士山になったという。こちらの大男の方が、代田より背丈が大きそうだ。

 「代田」はシロタ、よだ、なんだとも読み、水を張って田植えの準備が、整った田圃の事を指した。世田谷区の代田は「だいた」、豊川市の代田は「だいだ」と読む。

「照降町/堀江町」

 全天候型の町名を示す「照降町」は、「堀江町」の三丁目と四丁目の間にあり、堀江町の北は堀留町二丁目、西は小網町一から四丁目であった。東堀留川に架かる荒布橋から、親父橋に至る通り西側の愛称で、現在の小網町一から三丁目の間の通りである。

雪駄や雨傘、下駄屋が軒を並べていたので、この名の由来がある。他に堀江町一丁目には、名物団扇問屋と栗や蜜柑問屋が、四丁目には穀物問屋が軒をならべていた。

また、この町の名の由来は他にもあって、日本橋から芝居小屋など、盛り場人形町へ行くための、通り道であった事から、晴れても雨が降っても、人通りが絶えないことからにもよるという。 

「むら時雨 てれふれ町の 名なるべし」 芭蕉

現、日本橋小舟町・小網町である「堀江町」は、安政版江戸切絵図によると、東堀留川の西側に位置、家康入府の際、魚類調達の御用勤め堀江六郎がこの地を拝領、元和年間(一六一五~ニ三)開拓し、町を開いた事による。川の東側の河岸は、西万河岸があった堀江六軒町で、「よし町」の俗名で知られたこの辺りは、湯島天神などとともに蔭間茶屋が置かれていた。茅場町の宗匠こと其角は、この堀江町に生れ、元禄の頃まで若い頃の其角がこの裏店に住み、ここへ嵐雪や笠翁がころがり込み、三人で貧乏暮しをしていたという。

「道灌山」

 道灌山と呼ばれるこの台地「諏訪台」は、現在荒川区西日暮里四丁目に属し、縄文時代の遺跡が発見され、縄文海進の時代、ここは既に古代人の集落であった事が伺われる。

 道灌が江戸城を着工したのが康正二年(一四五六)、翌年の長録元年完成している。当初道灌は地理的見地から、ここ諏訪台に江戸城を、建設する考えであったが、砦にとどめ日比谷入江の奥、江戸氏の居館、千代田を城にしている。

 日暮里から田端、王子にかけての台地のひときわ狭く高い丘一帯を、道灌山と称したが、江戸期は谷中台から北へ続く台地の、一番高くなった所の丘陵名である。本来は現、西日暮里四丁目が道灌山で、南側(三丁目)を日暮里山、新堀山、日暮山と称した。ここより日光、筑波山、下総国府台が眺められ、図絵によれば「殊に秋の頃は松虫、鈴虫、露にふりいでて清音をあらわす。依って雅客幽人ここに来り、終夜風に詠じ月に歌うて、その声を愛せり」 秋は虫聞き(聴虫)の名所として、また、薬草の採集地としても知られていた。

 この虫の音(ね)を楽しむという習慣は、平安の頃からであるが、特に江戸の頃から盛んになり、道灌山には松虫が多く、飛鳥山には鈴虫が多く棲んでいたという。

 「是も縁 道灌山で 雨に濡れ」 「稲の花 道灌山は 日和かな」 

両句とも、山吹の故事をもじっている。現在、JR西日暮里駅西側が西日暮里公園となり、道灌山幼稚園、中学校の名がある。

「初音の里」

 江戸期に称されたこの里は、「白山御殿(現小石川植物園)の辺は、ほととぎすの名所で「初音の里」という(江戸砂子)」御殿地(白山御殿)の全てを指し、郭公の名所で俚諺にも「この国のほととぎすはここから鳴きはじめる」(江戸砂子)とされ、この名がある。また、別の文献には、この里は小石川御門の北、御殿跡及び御薬園の下より、氷川辺りなどの場所を指している。現在の文京区小石川一から二丁目辺りにあたる。江戸時代の初音は、不如帰の音色を指し、源氏物語、第二十三帖「初音」に因むものである。

「ひぐらしの里/日暮里」

 江戸の頃、[ひぐらしの里]は谷中感応寺裏門辺りから、道灌山を境とする区域であり、その台地の東側は崖になっており、そこから眺めは、眼下には隅田川が流れ、その川面には白帆の舟が行き交い、はるか北の方角には、険しい山頂をした筑波が望まれ、はるか向こうには、日光連山がかすみの中にうかんでいたという。

 室町末期、道灌の家来新堀玄蕃が、この地に住んでいた事から、戦国時代は新堀村、 入堀とも書き、(荒川区史)江戸時代になって、豊島郡岩淵領に属した。隅田川西側の低地一帯の俗称地名であり、その西側には千駄木、駒込が拡がり、谷中本町、金杉村とも呼ばれた地域であり、その周辺は田圃、畑地であった。享保年間(一七一六~三六)頃から「日暮里」と書かれるようになった「新堀村(にっぽりむら」は、西に下駒込村、南は谷中、北h田端村、下尾久村であった。「紫の一本」には、谷中の西北を「新堀」といい、道灌の山城跡と記している。

江戸中期の寛延年間(一七四八~五一)頃から、「日暮里」と書かれる様になり、「ひぐらしの里」とも呼ばれる様になった由縁は、大田南畝や柏木如亭などの文人が、一日中陽が暮れるまで、詩作に耽った事による。

寛永二年(一六二五)に、上野寛永寺が創建されてから、日暮里には多くの寺院が移ってきて、この崖のある地形を利用して、境内にそれぞれの趣向をこらし、紫陽花寺のように、ひとつの樹木や花、岩だけを配し特色のある演出をした。修性院がつつじ、本行寺が月見、雪見は浄光寺、桜と松なら青雲寺といった様に、いつ来ても四季折々自然が楽しめるように工夫を凝らし、訪れる江戸っ子たちの満足度を高める企画、演出がされていた。

JR日暮里駅の西側へでると、夕焼けだんだんの階段がある。童謡「夕焼け小焼け」の作詞者中村南虹は、ここ日暮里小学校で教諭をしていた。また、西日暮里二丁目には平仮名で「ひぐらし小学校」がある。因みにJR鶯谷駅は山手線内、目白に次いで二番目に乗降客が少ない駅だとされ、根岸に住んでいた子規は、次の様な句を詠んでいる。

「妻よりも 妾の多し 門涼み」

 

「山吹の里」

 「後拾遺和歌集」に編纂されている、醍醐天皇の皇子兼明親王が詠んだ

「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」 がある。

道灌の故事から生まれた「山吹の里」は、いくつかあって確定は難しい。 ①神田川面影橋近辺 ②新宿区山吹町界隈 ③江戸名所図会によると、道灌が立ち寄ったと伝えられる地は、高田馬場より北の方(戸塚辺り)の民家だとしている。

山吹の枝を差しだした娘は、当時十六歳の「紅皿」という名をしていた。道灌死後、出家して小さな庵を結んだという西向天神社があり、この参道から大聖院に続く坂を、「山吹坂」(現、新宿区東大久保二丁目)としている。

 道灌と紅皿との交流には、いろいろとエピソードがある。狩りに出かけた道灌は急な雨にあい、近くの民家で蓑を借りようとするが、紅皿が差し出したのが、八重咲きの山吹の枝と一首の和歌。これを受け取った道灌

「山ぶきの 花だがなぜと 大田いい」 「道灌は 見ずしらず故 かさぬなり」

「おおたわけ 是が雨具か ヤイ女」 と己の知識の浅さを顧みずあたりちらし、ずぶ濡れになって館に戻った。家来の者に経緯を話すと「殿それは後拾遺和歌集に出てくる、和歌をもじっての事ではありませんか?」と聞かされ深く反省、それから猛勉強 「雨宿り

から両道の 武士となり」 これをきっかけに教養も身につけ、紅皿を城に呼び、和歌の勉強に精を出したとされる。

 因みに山吹の花は一重と八重がある。差しだされた「山吹の花」は八重であるが、一重の山吹は黒い実がなるが、花は見栄えが良くない。一方、八重の山吹は、花は見事であるが実がならないから株を分けで増やす。当時、中国から輸入する際に、鑑賞にたえる八重の株が珍重され、一重は余り輸入されなかったとされる。

古より、花でも人間でも、建て前(見栄え)と、本音(中身)を兼ね備える事は難しいものであった。あちら立てれば、こちらが立たず。色男、金と力はなかりけりと、昔から云われてきたが、片や、女性の方はいつの時代も、見栄え(化粧の上手い)の良い方が人気を集めている。また、現代の政治の世界では、「施策なし いい訳上手 残るだけ」 となってる先生方が多くなってきているのは、国家的及び国税の無駄である。

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