21 江戸 「俳句」 の世界をゆく

松尾芭蕉/与謝蕪村/小林一茶/山口素堂/宝井其角/杉山杉風/

服部嵐雪/半井卜養/斉藤その女/斯波園女/秋色女

 俳句と川柳は俳諧から生まれた一卵性双生児の様なものであり、俳句が俳諧の発句そのものであるのに対し、川柳は平句より発展、季語をもたず人生全般を投影している。今回取り上げる俳句は、日本文学の一形態で、江戸時代前期からみられた「俳諧の句」の意味で、俳諧の連歌の発句が、独立したものである。

五、七、五の十七音の短詩形の文学であり、一般には十七音の定型を守り、切れ字「や」「かな」「けり」などを用い、季語(季題)をもつ。江戸時代の俳諧は、元来はおかしみを主とする「俳諧之連歌」の略称であり、光景を重んじた松永貞徳の「貞門」から、奔放な作風の西山宗因の「談林」へ、更に風雅を追及する松尾芭蕉の「蕉風」として完成していく。

明治に入り、正岡子規が連句の発句を独立して、短詩として詠む事を提唱、近代俳句として今日にいたっている。古く発句といっていたものを、俳句と指すようになるのは、明治二十年以降、子規が用い始めてからである。

「松尾芭蕉」

 俳聖といわれた松尾芭蕉の足跡をさらっとおさらいしてみる。寛永二十一年(一六四四)伊賀上野に生れ、十八歳で藤堂藩侍大将の嫡子に、料理人として仕えた。この藩は文芸を重んずる藩風で、芭蕉もそういった環境の中、自然と俳句を詠むようになっていった。

延宝三年(一六七五)二十九歳にして江戸へ下り、本小田原町の日本橋魚河岸仲買人鯉屋市兵衛こと、弟子の杉山杉風の屋敷に寄宿するようになる。また、別説として、同じく門人の小沢卜尺の貸屋に住んだともいう。同五年、神田川の改修工事に帖付として携わり、関口芭蕉庵に起居、同八年宗房から桃青を名乗り宗匠となり、俳句の師匠として独立。

「発句也 松尾桃青 宿の春」

同年八月、日本橋から深川新大橋近くの、「芭蕉庵」へ移り住んだ。庵の名称の由縁は、弟子の李下から送られた芭蕉が生繁り、芭蕉本人が気に入り、自分の俳号を、「芭蕉(はせを)」にしたものである。因みに植物の「芭蕉」は中国原産で、英名ジャパニーズバナナという。亡くなるまでこの庵に住んでいた。

 「蓑虫の 音を聞きに来よ 草の庵」

桃青から芭蕉に変わるのは三十九歳の時である。その後四十一歳で「野ざらし紀行」四十三句、四十四歳には、「鹿島紀行」七句、四十五歳、「笈の小文」五十四句、同じく四十五歳に、「更科日記」を発刊、元禄二年(一六八九)河井曽良と「おくのほそ道」に旅立つ。距離にして約六百里、延べ日数百五十日をかけて、結びの地大垣に着く。

「蛤の 二身に分かれて 行く春ぞ」

元禄七年、旧十月十二日、大坂御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷で病の為永眠。五十一歳。

「旅に病み 夢は枯野を かけめぐり」

芭蕉が伊賀上野から江戸へ下り、寄宿した「本小田原町」は慶長年間(一五九六~一六一四)に起立された町である。江戸城増築のため、相州小田原の石工棟梁、善右衛門が当地を石置き場として拝領、後に按人町や本船町などと魚河岸に編入されたため、南小田原町(現築地六丁目の一部)に移転、日本橋は本小田原町となった。

暫く神田上水の改修工事に従事、その時期に住んでいたのが「関口」の辺りである。この名は神田川の水を取り分ける、堰の口にあたるためこの名がついた。後に建てられた「龍隠庵」を弟子たちは「関口芭蕉庵」と呼ぶようになった。上流には上総久留米藩、豊前黒田藩の下屋敷があった。現在の椿山荘の奥は、早稲田の田圃が拡がっていたが、芭蕉はこの田園風景を気に入り、琵琶湖に例えて賞賛した。

「五月雨に かくれるものや 瀬田の橋」

芭蕉は関口時代、昼は改修工事の帖付をし、夜は西行や能因法師を研究、休みには日本橋の杉風や卜尺と交流を深めたり、弟子の募集育成に努めた。享保十一年(一七二六)芭蕉の三十三回忌に、この住居跡に、弟子たちが師匠を研鑚して建立したのが、「五月雨塚」である。

 深川住居跡とされるのは、現在の「芭蕉記念館」であり、また芭蕉稲荷には池があって、

 「古池や 蛙飛び込む 水の音」

の名句が生れた場所だとされ、大正六年の大洪水の際、芭蕉が置物として大切にしてい、石の蛙が出土した所である。延宝八年(一六八〇)から四度も火災に会いながら、住み続けた庵は深川元町にあり、芭蕉は大坂御堂筋で亡くなるまで、新大橋の建設を見守りながら住み続けた。

 「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」

文久二年(一八六二)の尾張屋版江戸切絵図には、萬年橋北側の、松平遠江守の下屋敷の中に、「芭蕉庵の古跡 庭中に有」と記載されている。

「与謝蕪村」

 「春の海 終日 のたりのたりかな」

 「菜ノ花や 月は東に 陽は西に」

お馴染みの俳句である。その作者、蕪村とは中国の詩人陶淵明の漢詩「帰去来辞」に由来する。陶淵明は四十一歳の時、役人を辞め田園に生きる決意をした。人生の転機を迎えたその時に詠まれた、陶淵明の代表作である「帰去来辞 田園将蕪 胡不帰」(帰りなんいざ 田園まさに蕪れんとす なんぞ帰らざる)による命名だとされる。

俳号は「ぶ村、夜半亭」。二十歳の頃、江戸に下り夜半亭栄阿に師事し俳諧を学ぶ。住まいは「時の鐘」近くの師匠の寓に居候、この時は「京鳥」と号していた。

 寛保二年(一七四二)二十七歳の時、師匠が亡くなり、芭蕉を追って東北地方を行脚して修業時代を過ごし、自己の作品を高めていった。四十二歳になって京に住居を構え、四十五歳で結婚、一人娘に恵まれる。明和七年(一七七〇)夜半亭二世を継ぐ。

 京へ行くまで住んだ、江戸の町は水の都であった。また蕪村自身が人生を水に例えたのか、蕪村の作品には河を題材にした句が多い。その中から春夏秋冬、四季を通じて代表的な句をあげてみよう。

 春 「春雨の 中を流るる 大河かな」

 夏 「さみだれや 大河の前の 家二軒」

 秋 「船頭の 棹とられたる 野分かな」

 冬 「水鳥も 見えぬ江わたる 寒さ哉」 

 蕪村の住んだ「日本橋本石町」は、もともとは石町と呼ばれていた。寛文年間(一六六一~七二)、神田に新石町(現、内神田三丁目)が出来た為「本石町」と呼ばれるようになる。石町という名は、米穀商が多く集住していた事から、穀類の数量単位「石」に由来したものである。

 江戸期は三丁目に「時の鐘」、その近くにオランダの商館長カピタンが宿泊する「長﨑屋」、日本橋二と三丁目の間(現室町三丁目)には、桃の節句、端午の節句の人形を売る「十軒店」があった。昭和七年、震災後の区画整理により、金吹町、北蛸町、本革屋町、本銀町、本町、本両替町などの、全域または一部を合併、現在の本石町一から四丁目となっている。

「小林一茶」

 「一茶」とは、一椀の茶の泡末の如き人生を表す、無常感に基づく命名であるという。。信濃の国相原で生れ、三歳の幼さで母を亡くした一茶は、継母との折り合いが悪く、これが一茶の句作に大きな影響を与えたとされる。安永六年(一七七七)十五歳の時に、奉公のため江戸へ出て俳諧と出会う。

 「掃溜の 江戸へ江戸へと 時鳥」

故郷で生活出来ない沢山の人間が、十一月頃になると椋鳥のように、集団で江戸へ出稼ぎに入り込み、江戸は全国の掃溜といわれ、雪解けの春になると帰って行った。「此の日信濃冬奉公人来る。信州雪国なれば、冬のたつきなし。その間江都へ出て奉公し、ある者は量炭などを売って営みとす。来るとしの二月の末、みな帰国す」(江戸年末行事) やってくるのは信濃ばかりではなく、会津、福島や越後など、雪国が多かった。

 「小仏は ぞろぞろ下りる 寒いこと」

江戸の住民たちは地方からの労働者たちを「椋鳥」といってさげすんだ。奉公先や住居も、安定しなかったからである。これは彼らのせいではない、世の中の仕組みのせいであった。景気の良い時期は安い賃金で仕事を捌き、不景気になると不正規採用者を一番先に解雇、雇い主はリスクを除き、自身の安定を図った。彼らは無宿人同様の境遇に、おかれていたのである。現代の外国人労働者と、企業との関係とがかぶさってくる。しかし彼らが日本人の嫌う、疲れる、汚い、臭い仕事を担う事によって、日本国そのものの機能が、維持されている事も忘れてはならない。

 「初雪や これから江戸へ 食ひに出る」

江戸へきて何の混ぜ物がない、白い米を喰える事が、現金収入もさることながら、無常の喜びであった。白米は彼らを江戸へ呼んだ、大きな一因といえる。

 「信濃者 ぶらりぶらりと 直売し」

 こうした人々の職を斡旋したのが「口入屋(くにゅうや)」、椋鳥たちも毎年来ていると居心地のいい巣(雇い主)に向かう。巣のほうでも気心が知れているから商談即決、となる。

 「椋鳥も 毎年来ると 江戸雀」

江戸雀が毎年帰らず、住みついたのが一茶である。

 口入屋とは職業斡旋業者のことで、いまでいうとハローワーク。口を挟むことで、転じて仲介、斡旋の意味を指した。入口、受入宿、肝煎、慶安などと呼ばれ、男性のみに関わらず、女性、子供たちも対象となった。

この職業は江戸初期から存在、地方から出てきた者達の、保証人となり職場を斡旋、稼ぎの一部を徴収、享保年間(一七一六~三五)頃からは、天災、飢饉などで金に困っている、農家の娘たちを、吉原や岡場所に売る、女衒の様な仕事や、商人に嫁を紹介(結婚相談所)したりした。

旧三月五日は出替、出代(でかわり)の日で、一年契約の奉公人が解雇若しくは再雇用される日で、半年契約の者は九月五日がその日であり。年俸給は中間小者で三両二分、女中(はした)で三両前後であった。

 芳町(葭町)は、古くはヨシなどが生えていた所で、町名は俗称で江戸期から存在した町である。現在の人形町交差点から、小舟町交差点に向かう道の南北にあった、堀江六軒町やその新道、堺町横丁を総称する町であった。近くに歌舞伎小屋や蔭間茶屋、また堀留の問屋なども多くあった為、口入れ屋を業とする店が多く集まっていた。

 「天保の改革」で深川辺りから、多くの人間が芳町へ移り住み、花柳界として発展、元大坂町、住吉町に住む芸者を総称して「芳町芸者」と呼んだ。ここは柳橋、新橋と並ぶ花街で、明治期以降は日本橋魚河岸に加え、証券・穀物取引所を控え興隆をきわめた。

「山口素堂」

 素堂の代表的句に「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」がある。この句には(今かまくらにて)の前書きがある。通常、目に青葉と詠みたい処であるが(目にはとくると字余り)となる。あえて「目には」とくる理由は、素堂の気持ちを酌めば、「このいい季節、(目には)青葉がしみ、(耳には)山時鳥の声が聞こえ、(口には)獲れたての初鰹がありますよ」となるから、(目には)の文言は、不思議ではなくなる。

 素堂は甲斐国巨摩郡の生まれで、二十歳の頃稼業の造り酒屋を弟に譲り、江戸へ出て和歌、経字、茶道などを学び仕官したのちに、上野不忍池辺りに隠棲、二歳下の芭蕉と、門弟としてではなく、友人として交流をし、蕉門の確立に大きな影響を与えたとされている。素堂は個人的には蓮を好んだ事から、「蓮池翁」とも呼ばれた。

 また、元禄九年(一六九六)、故郷甲斐代官による「濁川」の治水工事にも従事、「山口堤」と呼ばれる堤を築いたともいわれている。

「宝井其角」

 「茅場町の宗匠」と呼ばれた其角は、日本橋堀江町に寛文元年(一六六一)誕生、延宝年間(一六七三~八〇)芭蕉の門に入り、芭蕉十哲の中でも第一の門弟だといわれた。当初は榎本を名乗っていたが、のちに宝井に改める。作風は芭蕉と異なり、派手で洒落風を好み。芭蕉死後、日本橋茅場町で国語調の「江戸座」をひらく。

 「梅が香や 隣は荻生 惣右衛門」

宝永四年、(一七〇七)大酒がたたって四十七歳で他界。

 「大酒に 起きてものうき 袷かな」

其角といえば、播州赤穂浪士の面々と交友が深かったが、特にその一人大高源吾とは、源吾が「子葉」という俳号を持っていた事から、同じ俳句の世界で意気が合った。討ち入り前夜、煤払いの竹を担いだ子葉に、両国橋の上でパッタリと会った其角は

 「歳の瀬や 水の流れと 人の身は」 と問いかける、応える源吾は、

 「明日待たるる その宝船」

それを聞いた其角、源吾にやっと仕官が決まったものと喜んだ。討ち入り当日、嵐雪や杉風と酒を飲みながらその話をすると、「勘違いだよ宗匠、それは仇打ちの暗示だよ」といわれ、はっと自分の不明に気づき、凱旋する源吾を追いかけ、

「我が雪と 思えば軽し 笠の上」 の問いかけに、源吾にっこり笑って、

「日の恩や たちまち砕く 厚氷」 両国橋東詰南岸にこの句碑がある。

 其角が「江戸亭」を開いた茅場町は、江戸初期の頃は「南茅場町」と呼ばれ、まだ茅が生い茂っていた草原で、屋根葺きの材料となる茅を商いとする人間が集住していたことからこの名がある。

「杉山杉風」

 父も「仙風」と号した俳人で、芭蕉十哲のうちの最古参である。屋号は鯉屋、名前は市兵衛、日本橋本小田原町で魚の問屋をしている。寛文十二年(一六七二)芭蕉が江戸へ下る際、杉風或いは父,仙風の家で草鞋を脱いだとされ、以後芭蕉に学び、また、深川の「彩荼庵」の提供など、経済的な援助も惜しまなかったという。

 「朝顔や その日その日の 花の出来」

「服部嵐雪」

 「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」

 「ふとんきて 寝たる姿や 嵐山」

芭蕉十哲の一人、湯島生れの嵐雪お馴染みの句である。其角との実力は拮抗していたという。また、師芭蕉とは共鳴せず、晩年の芭蕉とはほとんど一緒にいなかったが、師の訃報を聞き、墓所、近江国膳所の義仲寺に向かい、手向けの句を詠んでいる。

 「この下に かくねたるらん 雪仏」 

「半井卜養」

 御用医師である卜養は、明石町のウラ通りに住み、和泉国堺の人、慶長十二年生れの江戸狂歌師、俳人、歌人とマルチタレントであった。寛文六年(一六六六)、医師として幕府に仕え禄は二百俵、のち典医療頭千三百石、大和守法眼となった卜養は、この頃から狂歌も良くし「卜養狂歌集」を発刊、また、松永貞徳に俳諧を学び、江戸俳壇の草分けの一人となっている。

 「うちいずる 月は世界の鉄砲洲 たまのやうにて 雲をつんぬく」

 卜養の屋敷があった「明石町」の名の由来は,播磨明石の漁民が移住してきたとも、佃島を淡路島に見立て、この地が明石の浦に似た風景であったからとされる。江戸期は大川に面した江戸最南端の町であり、卜養の屋敷の他に、播州赤穂浅野家の上屋敷や、豊前中津藩奥平家の中屋敷があった。この辺りは明治元年築地居留地となり、明石町の町名は一時廃止されている。

「斉藤その女」

 代々下総大穴村(船橋)の名主を勤める斉藤家に生まれ、十代の頃から俳諧の世界に入り、江戸後期に活躍した女流俳人である。一茶や夏目成美に師事、寡婦となった五十代から念佛と俳諧に没頭した。近所の松ヶ丘を小穴、谷津の湧水を大穴といい、墓地も大穴の西光院にあり、夫の供養塔には次の句が刻まれている。

「極楽の 鐘をかぞえて かけつばた」

「斯波園女」

 そのめ、そのじょ、とも呼ばれた。伊勢山田に生れ、俳人でもある医師の一有と結婚、元禄三年、芭蕉に入門、芭蕉の死後、また夫が亡くなった後の宝永二年(一七〇五)、其角が主宰する江戸座をたよって江戸へ出てくる。

 江戸へ来てからは、眼科医を稼業としながら、江戸の俳人層と交流、正徳年間(一七一一~一五)深川八幡に、三十六本の櫻の苗を寄進、この櫻は「歌仙櫻」として親しまれた。享保三年(一七一八)剃髪して、智鏡尼を号するが、女心を覗かせる句も詠んでいる。

 「衣替え わざと隣の 子を抱きに」

 深川は葛西郡西葛西領のうちで、鱶河、深河とも書き、その名の由来は、深川八郎右衛門によって開発された事によるが、フカが沢山いたからともいわれる。また、深川八幡宮は宝永四年(一六二七)大川河口の砂地だった、永代島を埋め立てた土地で、新大橋の住民たちの願いで創建された、深川の総鎮守である。

「秋色女」

 本名、小川秋。名は「あき、お秋」とも呼ばれ、菊後亭と号した。寛文九年(一六六九)江戸小網町菓子屋大坂家の娘として誕生した。

 「井戸端の 櫻あぶなし 酒の酔」

上野清水観音堂のそばに、井戸端があった。その櫻が花見の酔客に折られはしないかと、心配して詠んだ句である。十三歳の時であったといわれるが、寛永寺の門主に賞められ、この句は一躍江戸市民に知れ渡る事になる。

 「井戸端の 櫻でお秋 名が高し」 「生酔が 来ぬと名がない 櫻なり」

と、云われながら成長してお秋は結婚、夫寒玉と共に其角の門人となっている。因みに実家の大坂屋では「秋色」を冠した「秋色最中、羊かん、汁粉」を販売している。

 「上野」の名の由来は、藤堂和泉守が伊賀上野より江戸へ下った際に命名されたといわれる。また、この地が小高い丘で草が生い茂っていた処から、その名がついたともいわれている。江戸初期は「上野村」、寛永二年(一六二五)、天台宗関東総本山、東叡山寛永寺創建のため収公され、山南麓に代地となり、のちに町屋を開いて上野一から二丁目となっている。以後、上野の呼称は、寛永寺を中心とする台地一帯を指す汎称として親しまれている。慶応四年五月十五日の上野戦争(彰義隊の戦い)により、多くの堂宇が焼失したが、清水観音堂は焼け残っている。

上野清水観音堂は、京の清水堂をなぞらえた舞台から、「月の松」を通して眼下に不忍池が拡がっている。見事に右廻りに円形を描いている松の枝は、広重江戸百、第六八景「上野山内月のまつ」に、その枝ぶりを披露している。

江戸純情派「チーム江戸」

ようこそ 江戸純情派「チーム江戸」へ。

0コメント

  • 1000 / 1000