20 江戸「落語」の舞台をゆく

明烏/紺屋高尾/小言幸兵衛/三方一両損/芝浜/粗忽長屋/

時蕎麦/長屋の花見/野晒/船徳/文七元結/宮戸川/目黒の秋刀魚/

百川/宿屋の富

「道の七分は武士 三分は町人 落語家の歩く道はなし」とさえいわれた江戸時代、貞享年間から元禄年間(一六八四~一七〇三)に始まるとされる「江戸落語」は、三笑亭可楽によって,寄席芸能として確立されたといわれる。

 派手な演出を控え、扇子と手拭のみでいろいろな表現を行う、「素噺」のあっさりしたのが持ち味で、江戸っ子の気風を反映した、伝統的な話芸の一種である。最後に「落ち」がつくから「落としばなし」、略して「はなし」「語」とも「噺」とも表記する。

「江戸っ子」という文字の初見は、明和八年(一七七一)にみられる。「江戸っ子の わら

んじをはく らんがしさ」 「わらんじ」とは草履、「らんがしさ」とは、やかましいという意味の江戸弁である。江戸っ子は歩きながらしゃべりまくる、騒がしい人間だという事であろうか。

 「寄席」とは、「人寄せ場」がはしょられた言葉で、当初は人の集まる場所に、掛小屋をかけて軍記物や昔話、滑稽噺などをやっていたが、次第に民家などを借り、百人=一束(そく)も入いれば一杯になったという。

化政期(一八〇四~二九)に興盛をきわめ、末期には百二十五軒、「天保改革」を経て安政年間(一八五四~五九)には、三九二軒にふくれあがっている。身分は昭和になって、前座、ふたつ目、真打ちとなったが、江戸の頃は六段階、出世も大変な時代であった。

小道具は扇子と手拭と、相場は決まっているが、木戸賃は三十六文から四十八文、かけ蕎麦三杯分の値段である。これに加えて下足代が四文、座布団、煙草盆用の火鉢はオプション。その当時の職人の手間が四千文から五千文、一文=二十五円で換算すると、木戸賃大人千と二百円、大人二人と子供(半額として)で三人一家族〆て三千円、ちょいと高いラーメンを食べに行く感覚で、寄席に通うことができた。

お馴染み落語の世界は、九尺二間の長屋が舞台、通常「げじげじ長屋」とか「なめくじ長屋」とかの愛称でよばれる。登場人物常連さんは、八っぁん「八五郎」に、熊さん「熊五郎」。八のキャラは軽率な行為と、あけすけのおしゃべりで「ガラッ八」と呼ばれ、好奇心が強く、御隠居さんや大家を質問責めにしている。一方、熊はむこうみずの乱暴者で、酒好きだが、反面子煩悩でもある。

 この二人に色を添えるのが与太郎」、不要太郎が転訛した名だとされる。年齢推定二十歳前後、少々頭脳の発達が、世間並みとはいかないと設定されているが、母親と同居、親孝行者で長屋では人気者である。「与太」とは国語辞典によるとウソ、でたらめの意味であるが、落語に登場する与太郎は典型的な善人である。

 加えて亭主より常識人の「長屋のカミさん」に、うんちくをしゃべり出すととまらない「長屋の御隠居さん」や、こまっしゃくれた「金坊」、「若旦那」と呼ばれ、朝から遊ぶことばかり考えている放蕩息子など、どちらさんもキャラの強い人間が揃っていた。

「明烏」

 真面目な息子をもつ父親に、「何とかならねぇかい」と頼まれた遊び人の二人が、若旦那の時次郎に、お稲荷さんの参詣だと上手くのせて、吉原の「大門」をくぐらせる。「吉原は夜勝手に帰ると、袋叩きにあいますからね」とおどされ、若旦那しぶしぶ泊まるはめになる。遊び人を自称する二人は、まるっきり敵娼が来ない「空床」と、宵の口に顔を見せただけの「三日月振」となる。

一方、若旦那は浦里に大もて、「女郎買い 振られた奴が 起こし番」てな具合で、迎えにきた二人が、まだ居つづける若旦那に「じゃお先に」と帰ろうとすると、「勝手に帰ると大門で袋叩きにされるよ」と、逆におどされるオチがつく。廓噺の代表作であり、入門テキスト版になっている。

「元吉原」や「新吉原」に、出入り出来きた唯一の門が「大門」であった。新吉原の大門は、身繕いをする衣紋坂を下り、五十間道を通って廓に入る入り口にあった。江戸期は鉄鋲を打った黒塗りの冠木門であり、周囲を「おはぐろどぶ」と呼ばれた溝や、高い塀に囲まれていた。(裏門は非常用)大門内には、出張武士と町内役人の番小屋が並んで置かれ、出入り人の監視と、郭内の治安を守っていた。

「紺屋高尾」

 神田紺屋町の染物職人の久蔵、花魁道中の三浦屋の高尾を見て、一目惚れしてしまう。それから久蔵、何としてもまた高尾に会いたくて、三年間貯めた給金十両を持って再会を果たす。その話を聞いた高尾は、涙をながして感動、「わちきをこんなに好きになってくれた人はいない、年季明けの来年三月十五日まで待ってくんなまし、その時は女房に」

「傾城に 誠なしとは 誰(た)がいうた」 

一諸になった二人は、夫婦で染物屋を開き、「駄染め」を考案、その速さと粋な色合いが人気となって、通称「かめのぞき」といわれる浅葱色の手拭は、吉原へ通う人々の間でよく売れたという。

 この噺は、宝永から正徳年間(一七〇四~一五)の、江戸新吉原が舞台、五代目とも六代目ともいわれる「高尾太夫」と、紺屋の職人が主人公の、実話をもとにした地話で、落ちがなく話の筋で聞かせる噺である。あえてオチ(サゲ)は「あの二人死ぬまで一緒だろ、染物屋だから愛(藍)しあうほど深ぇ仲だからな」 別題は、「かめのぞき」「紺屋の思い染め」「駄染高尾」。落語の世界では、遊女は三浦屋の高尾のように、誠実な女性が多かった。

「小言幸兵衛」

 世話好きだが口やかましい麻布古川の家主、田中幸兵衛さんの一日の噺である。口やかましい人の代名詞にもなっている幸兵衛、家を借りに来る人間にああでもねぇ、こうでもねぇと難癖をつけては貸さない。ここから江戸庶民の生活ぶりが覗けるから面白い。

 現在では、少子高齢化が進んで、部屋を借りる世代が少なくなった。加えて男も女も、適齢期になっても、世帯ももたない、子供も産まない傾向にあるから、家を必要とせず、結局一番安価で我儘の通せる、親の家に居座る事になる。

江戸の頃も、庶民の人口約五十万人、その人間達の約八割弱が、九尺二間の長屋に、住んでいた訳であるから、そんなに住環境に恵まれていた訳ではない。ないが住む方もそんなに要望はなかった。なるべく安く、なるべく変な隣人がいない部屋を望んだ。にも拘わらず「ああだ、こうだはうるさいよ」となる。麻布といえばその名の通り、昔は狸のでた土地柄、幸兵衛さん強気の商売をしていた。

 「麻布古川町」は、元禄十一年(一六九八)に、白銀御用地として上地され、三田村の古川沿いに代地をうけて町を起立、この町は古川(新堀川)と赤羽川がつながる新堀端にあり、幸兵衛の長屋はここにあった。

内藤新宿に発し、宮益坂から天現寺橋迄二、六㌔が「渋谷川」、その下流部分四、四㌔が「古川」であり、更に古川は金杉橋から「赤羽川」と名を変えながら、芝浦に注いでいた。現在では日本橋川のように、ほとんどが高速道路に覆われ、日陰の川となっている。かっては渋谷川上流部分は「春の小川」の舞台であり、水車が廻る田園地帯であった。また、古川下流部分は舟運で栄えていた。

「うぐいすを たづねたづねて 阿佐布まで」 芭蕉 

「三方一両損」

 神田白壁町(神田鍛冶町二~三丁目)に住む、左官の金太郎が柳原土手辺りで拾った三両の財布を、書付にある神田竪大工町(内神田三丁目)に住む、大工吉五郎に届ける。ここでああでもねぇ、こうでもねぇと、すったもんだの挙句「大岡裁き」となる。

 この噺の典拠は「板倉政要」卷十七の十四、「聖人公事捌」である。京洛外に住む人間が三条小橋で金子三分を拾うという事からはじまる美談としてまとめられている。当時の落首には「米「高間」、壱升弐合を粥に炊き、大岡喰わぬたった越前」とあり、これを流用したものである。高間とは日本橋本船町にあった幕府御用の米問屋、享保十八年(一七三桟一月二十五日、米買い占めのため、麹町など十数丁の町民により打ちこわしにあっている。

落語では、忠相が一両補填して合計四両、これを二人で分けて二両ずつにして一件落着。本来素直に受け取れば三両になった吉五郎も、「要らないよと」いわれ「おおそうかい」と帰れば三両懐に入った筈の金太郎も、面倒な話を持ちこまれ一両出す羽目になった忠相も一両損、それぞれ三人とも、一両ずつ損をしたという、江戸っ子の意地とつっぱりがもたらした人情噺である。この噺のオチは、裁判が決着して忠相が二人に膳を出す。忠相「余り大喰いすると体に悪いぞ」吉五郎「多かぁ(大岡)は喰わねぇ」金太郎「たった一膳(越前)」上手く落としている。

南町奉行所は有楽町マリオン裏とJRの間辺りにあった。柳原土手は和泉橋から隅田川まで、神田川右岸に築かれた土手で、長録二年(一四六八)道灌が、江戸の鬼門除けとして、柳を植えさせたのが始りで、また、享保年間(一七一六~三六)吉宗が、昔の柳が枯れたため、植え替えさせたともいわれている。

土手には古着屋が並び、店が閉じた夕方からは、夜鷹の職場となった。

「客ふたつ つぶして夜鷹 みっつ喰い」 

二八蕎麦一杯の値段は、二×八=十六文である。寛政六年(一七九四)松平定信は、土手沿いの家を取り払い火除け地とし、災害に備えた籾蔵を建てている。

「芝浜」

 芝の生えていた海岸を意味する説と、海苔を獲るための小枝を「柴」あるいは「ヒビ」といい、これに海が陸地に入り込む処の浦が結びついて、芝浜とする説もある。江戸湾の浅瀬を芝浦といった。ここの「雑魚場」は土地の口承によれば浜辺の網干し場一帯の他、赤羽橋、横新町を指し、天正十八年(一五九〇)家康が入府の際、船が浅瀬に乗りあげたのを見て、芝、金杉の漁民が救助した。そこで家康は江戸城に魚を納める事を条件に漁業の特権を与えたといわれる。この話は天正十年(一五八二)にも佃の漁民たちと同じ様な事があり、後に同じ結果となっている。家康が特権を与えた御菜の浦は、この他に品川沖、大井御林場、羽田浦、生麦浦、新宿浦、神奈川浦が加わり「御菜八ヶ浦」と呼ばれた。

芝浦は中世の頃からの海運拠点で、後北条の水運の拠点があった処である。江戸時代初期は「雑魚場」として栄え、ここで獲れた魚は「芝肴」「芝魚」といわれ、旨いと評判で将軍家にも献上されたが、家康入府の頃は寒村であった.朝市がたったのは、赤羽橋だけで、文政十二年(一八二九)「御府内備考」によれば、この辺りは「一寸(ちょろ)河岸」と呼ばれ、毎朝ほんのちょっと市がたった。

 江戸名所図会は、「芝浦は本芝町の東の海浜をいふ。芝口新橋より南、田町の辺りまでの惣名である。上古は芝を竹柴の郷といいしも後世、上略して柴とのみ呼び来れり。また文字も芝と書き改めたりぞ、また、この辺店多く河原の北には、毎朝肴市立ちて、繁昌の地なせり」としている。東海道芝橋(港区芝四丁目)辺りから、三田の薩摩屋敷辺りまでの、網干場の海岸を指し、明治になって埋め立てられる前までは、芝の辺りが江戸の海の海岸線であった。幕末には沿岸の人口増や、黒船による台場の建設によって、江戸の海(湾内)の汚宣が進み漁獲量は減少した。

 この噺は三遊亭円朝が「よっぱらい、芝浜、財布」の三題噺として創作したもので、腕はよいが大酒飲みで怠け者(人情噺の定番主役)の勝五郎、珍しく朝早く出かけた魚河岸で、大金の入った財布を拾う。中を覗いて勝五郎喜んだ。これで一生、酒飲んで暮らせる。

その晩は仲間を集めてどんちゃん騒ぎ、翌朝女房に聞くと「お前さん夢でも見たんじゃないの」 十両も盗めば首がとぶ時代、女房はこっそり番屋に届けておいたのである。亭主ガックリきたが、ここがえれぇとこ、ガラッと改心酒を断ち、三年後には店を構え、使用人までおいた。

大晦日の晩、女房告白「お前さんごめんよ、あの金は確かにあたしが預かり、あんたに内緒で番所に届けておいたのよ」、それが落とし主不明で時効、拾い主に返されて来たのである。「御祝に少し飲むかい」 勝五郎「そだね、一杯だけ飲むか」 口にまで持ってて 「よそ、また夢になるといけねぇ」。

 因みに、最近開業した「高輪ゲートウエイ駅」、駅名公募で「芝浜駅」は第三位であった。そこでネット上では「夢になっちゃたね、芝浜だけに」。

「粗忽長屋」

 「粗忽」とは、そそかしい、おっちょこちょい、慌て者をさす言葉である。八五郎が浅草観音様の近くで、行き倒れになっている男を見つけ、てっきり同じ長屋の熊五郎だと思う。これが先ず第一の粗忽である。第二の粗忽はすぐ始まる。呼ばれた本人の熊は浅草へ走って行く。生きてる本人が、死んでいると言われ、現場へ駆けつけていく。

「死んでいるのは確かに俺だが、抱いている俺は誰だろう?」完全に倒錯している。第三の粗忽である。非常に主観性の強い二人は、自分の判断の信じ込み、思い込みが強く、そこから全ての噺が狂って始まっている。オチは間抜けオチ。

 「浅草寺」は江戸の多くの寺の中でも、時代を通して最も参詣人が多い人気のある寺院である。江戸浅草の繁栄のひとつに、「明暦の大火」を契機として、人形町から浅草寺裏の浅草田圃へ移転してきた、不夜城「新吉原」がある。川向こうの両国、本所より、陸続きの浅草田圃を選んだのは正解であった。客は柳橋から猪牙舟に乗り、日本橋から駕籠で馬道をとばして、山谷堀に向かい、ここから日本堤、大門へと駆け抜けた。

 ふたつめは「天保改革」によって、これも人形町と木挽町から、猿若町(暮踏町)へ移転させられた「江戸三座」である。これで江戸浅草は、信仰、芸能、悪所と三拍子が揃った。観音様への御参りと称し、そそくさと歌舞伎を見物、新吉原へと繰り出した。現在でも、観音様をダシに何処へ行くかは、その行動パターンが代わっても、ノウハウは変わらない。

「時蕎麦」

 登場人物は蕎麦屋の主と、かけ蕎麦を食べにきた職人である。かけ蕎麦を食べて払う時刻が、九つ(午前〇時)である事がこの噺の前提条件となる。ここでうんちく、江戸の頃の時刻は不定時法で、明け方が明け六で、現在の午前六時頃、暮の六っは午後六時頃、春と秋の彼岸は、昼と夜が同じ時間の為、問題ないが、夏、冬の時間配分が難しくなってくる。

このため、夏の昼間は同じ一刻でも長く、逆に冬は短くなる。また、午前、午後零時が九っの鐘、それから八っ、七っと下がり、四っは午前、午後とも十時となり、次はそれぞれ.午前、午後とも零時となる、さぁこれを踏まえての噺となる。勿論蕎麦の代金は十六文である。

 さて、九っ過ぎに食べに来た客が銭を払う段になって、「亭主銭を払うから手ぇ出しな」

ひとつ、ふたつと払っていき七文辺りで「処で今何刻だい?」「へえ九っで」「ほい、十、十一と」間の数(銭)をはしょて一、二文ピンハネして帰る技(一種の詐欺行為)である。

これを見ていた別の職人、じゃ俺もと四つ頃に食べた後「五文、六文と、処で亭主今何刻だい?」「へい四っで」「ほい五、六と」二度払いして帰っていく、間抜けオチの噺である。

 江戸の蕎麦屋の老舗といえば「更科」「砂場」と「薮」があった。薮は麦皮を取らずに、そのまま挽いた蕎麦粉で作り、緑色して香りが良く、旨い蕎麦の代名詞になっているが、この名称は江戸中期よりの登場となる。

 雑司ヶ谷の鬼子母神辺りに薮があり、その中に旨い蕎麦を食べさせる一軒の農家があった。「爺が蕎麦」とか「薮之内」とか呼ばれ、ここが薮蕎麦の元祖だといわれている。また、団子坂にあっ「蔦屋」は、此の店に竹やぶの繁った庭があり、藪下と呼ばれたことから、後に店名を薮そばにしている。

 もうひとつ「神田須田町」にも薮蕎麦がある。寛永江戸図には、すた丁、洲に開かれた田を意味する。二丁目は水菓子の問屋が多く、「朝市のたつ青梅のす田町は 好きにさえ口もかはかず」と狂歌に詠まれた。明治以降は多町と併せ神田市場となっている。

「長屋の花見」

 「長屋中 歯をくいしばる 花見かな」の世界である。沢庵が玉子焼きに、大根が蒲鉾に、茶がらのたったお茶が「おちゃけ」に、変身させての長屋中での、大イベント花見大会の噺である。上方の本題は「貧乏花見」で、意味がはっきりしている。どう考えてもお茶が日本酒にはならないが、それでも長屋の人々が、お互いの親睦とコミニケーションを図るため、予算を切り詰めて、兎に角やろうとする意気込みは天晴れである。

現代の町会であれ何かのグループであれ、この様な環境で参加しようとする人間はいない。花より団子の世界が定着してしまい、団子が主(あるじ)、桜は添え物。見てもくれない桜は意地になり、咲いたらすぐに散ってしまうか、逆意地はって、これでもかと咲き続ける「乳母桜」もある。

 江戸の頃、櫻の近郊名所は上野山に墨堤、飛鳥山。上野は寛永寺がある為、宴会、夜桜禁止。墨堤は堤のため大勢の場所とりが難しい。で、かってこの地の豪族豊島氏が、飛鳥明神を祀った事からこの名がついた、飛鳥山へ繰り出す事になる。飛鳥山は享保五年(一七二〇)に八代吉宗が、故郷の紀州吉野山から、千二百七十本ばかりの吉野桜を移植、山は一気に桜の山となった。

 その後飛鳥山は王子権現に寄進され、上野山と異なり出店、屋台なども許されたため、花より団子の江戸庶民の、恰好の花見スポットとなった。こう考えていくと八や熊のいる長屋中の朝からの花見宴会場は、深川、大川端より、少々遠いが飛鳥山が妥当かと思われる。

「野晒」

 別題「手向の酒」、上方落語では「骨釣(こつつり)」。元々は中国明の時代に書かれた、笑話本の一編から作られた噺である。

同じ長屋の浪人の処へ、昨夜美女が訪ねてきた事を目撃した八五郎は、早速浪人に訪ねる。浪人しぶしぶ、実は昨日向島へ魚釣りに出かけた処、野晒を見つけたので、手向けの酒をかけてやり、「月浮かぶ 水も手向けの 隅田川」 と詠んで供養して帰ったら、夜になってその主が御礼に現れた、という次第であるという。

 八五郎早速、釣り道具を借りて向島へ赴く。やっと野晒を見付けて供養し、長屋の場所までよく教えて戻った。さてその夜訪ねてきたのは幇間(たいこもち)、八五郎「しまったぁ 酒をかけたのは馬の骨だったぁ」 当時の太鼓の皮は馬の皮を使っていた。

「向島」は、「墨東地区」とも「隅田堤」「葛西堤」ともいわれ、「牛嶋」「柳島」「寺嶋」といった地が点在、西岸(浅草側)からみると「川向こうの島」=「向島」という意味合いで、地域的特定は難しい場所である。

また、町が計画的に作られた本所、深川とは対照的に、自然発生的に発展してきた地域で、道も畦道的に曲がりくねり、行き止まりも多いが、随所に古木が生え、軒下には鉢植えの花が置かれている、のどかな地域である。

「船徳」

 元々は「お初徳兵衛浮名の桟橋」という、近松門左衛門「曽根崎心中」の名を借り、人情噺を落語化したものである。放蕩がすぎ勘当された若旦那の徳兵衛は、船頭の見習となるが、腕はいまいちであった。

四万六千日の縁日がきて、仕方なく客を乗せ、浅草まで何とかこぎ出すが、岸に着けられない。業をにやし水の中を歩くお客さんに「すんません、もう一人船頭を雇って下さい」がオチとなるが、この他に櫓を流してしまい、客におんぶしてもらい岸へ着くとか、徳兵衛を質屋の若旦那に仕立て、客も流したでオチとなる噺もある。

 浅草寺の夏の風物詩「四万六千日」は、毎年七月の九、十の二日間開かれる、浅草観音菩薩の多くの功徳が得られる特異日である。四万六千日は人の命の限界とされる百二十六年分に相当、従って一生分の功徳が得られる日であり、また、四万六千という数字は米一升分の米粒に相当するという。故にこの日に御参りすると一生分の御利益があるとされる。当初は「千日詣り」と呼ばれていたが、享保年間(一七一六~三六)頃から、四万六千日となっている。

また境内で売られる「ほおずき」は、当初、茶道で使う茶筅(ちゃせん)が売られていたが、次第に赤いとうもろこしへ、更に明治初期になって、芝愛宕町で売られていた、癪封じに効能があるとされるほおずきが、浅草寺に移ってきた。

「文七元結」

 左官の長兵衛さん、腕はよいが博打好き、吉原に娘のお久を身売りして、五十両を借り受ける。その帰り吾妻橋の上で、金を無くし身投げをしようとしている、奉公人の文七に、その五十両を与えてしまう。

実はこの金、文七が先方に置き忘れただけ。これを聞いた文七の主人は、御礼に吉原からお久を連れ帰り、長兵衛さんに届ける。それが縁で、文七とお久は結ばれ、麹町に髪を束ねる元結の店を開くという、ほのぼのとした噺である。麹町については第十八章を参照。

「宮戸川」

 「宮戸川」は隅田川のことで、江戸時代は待乳山、山谷辺りから駒形辺りまで、浅草寺(宮)が見えるあたりまでの川を宮戸川と呼んだ。この噺、話が長いため前半、後半で構成されているが、後半の内容が凄惨なため、口演される機会は少ない。前半で終る場合は「こちらから先は本が破れて」とかで 粋なサゲで終わらせている。

 遊びで遅くなった小網町の若旦那半七と、これまた稽古の後、おしゃべりがすぎて、遅くなった近所のお花、二人とも家から閉め出しをくう。仕方がないので、二人で半七の、新川のおじさんの処へ出かける破目になる。江戸っ子で早とちりで、早合点が持前のおじさん、二人が好きあって逃げてきたものとすっかり思い込み、二階のひとつしかない部屋に案内、おまけにそのはしご階段まではずしてしまう。

困った半七に対し、前から好きだったお花にとっては、この機会は最大のチャンス、女はいざとなると開きなおるが、反面男はいつまでも煮え切らない。通常、この場面、ステージが二人の人生に長く後をひく。一歩前に出るか留まるか、前に出た人間が、その後の二人をリードする。たまに人生半ばで、立場が逆転する場合もある。

 この噺の舞台「小網町」は古くは「入江が岡」と呼ばれた。日本橋川を挟んで右岸が茅場町や八丁堀、左岸が小網町で、旧石神井川の河口にあたりで、江戸の海が広がっていた。江戸湊から日本橋川を使って、奥の河岸地に物資が搬送され、小網町は物流の拠点として発展していった。江戸初期、佃の漁民達は白魚を家康へ献上、その帰りに小網町一丁目に網を一張かけておいたそうである。これがこの町名の由来との説もある。

 現在は丁番をもたない単独町名であるが、江戸時代は一から三丁目、江戸橋から人形町へ通りには、宝永元年(一七〇四)創業の、黒文字を使った楊枝専門店の「さるや」があり、この店の前の通りが、通称「照降通り」全天候型の下駄、傘などを扱っていた。その先は元吉原ゆかりの「親父橋」が、東堀留川に架かっていた。

「目黒の秋刀魚」

 目黒の名を筍と共に、いっきにメジャーにした殿様と秋刀魚の噺である。ある晴れた日に、家来を連れて目黒筋の鷹狩りに出かけた殿様、昼食は何処かで食べるつもりで、目黒不動に御参りし、御不動様の水を飲んで戻ろうとした。

帰り際いつものジジが切り盛りする、「爺々が茶屋」にさしかかると、なにやら旨そうな臭い、早速家来の制止も構わず二、三匹平げてしまう。秋の脂がのった、丸々太った秋刀魚に、下したての大根下しをたっぷりのせ、地元の下らない、濃口醤油をかけた秋刀魚が、不味い訳がない。殿様、秋刀魚の味にぞっこん惚れ込んでしまった。

 帰ってから早速、城内の食事係に秋刀魚を焼かせても、ジジが焼いた味とは大分どころか、すっかりちがう。蒸して脂を抜き内臓をとり、はたまた喉にささらないよう小骨までとって、いじりまわされた秋刀魚はサンマではない、強いて言えば、秋刀魚もどきのフレークである。ここで、「秋刀魚は目黒に限る」の名言がでた。

 文化二年(一八〇五)「目黒筋御狩場絵図」によれば、狩り場は現在の世田谷区全域から、駒場、麻布、品川、大田区西馬込あたりまでと広い地域で、江戸近郊六ヶ所に設けられた、将軍家専用の鷹狩り場のひとつである。

「目黒鷹番」は、目黒筋の鷹場の監視にあたる鷹場番所が、単に「鷹場」あるいは「鷹場前」という呼称が転訛したとする説もあるが、狩り場の番人小屋があった処である。鷹狩りを楽しんだ殿様は、目黒不動で一服、爺が経営する「茶屋坂」へのコースをとる。茶屋坂は江戸から目黒へ入る道のひとつで、現在は目黒区中目黒二丁目と、同三田二丁目の間の茶屋通となっている。

江戸の頃は大きな松が生えた、芝の原のくねくねした坂で、富士の眺めが良かったという。広重の江戸百、第五四景「目黒爺々が茶屋」にも、端正な富士が描かれている。利用された「爺々が茶屋」は、代々彦四郎の名を継ぎ、三代家光、八代吉宗、十代家治も利用したとされ、江戸期この坂の途中にあるトンネルの上には、三百余年、三田用水が流れていた。

 では名物となった秋刀魚の経路を探ってみると、海に面していない目黒は、筍と芋が名産で秋刀魚は獲れない。ではどうしたかというと、当時の行商人が目黒の農産物を背負い、芝の雑魚場辺りで物を売り、その代金で秋刀魚など魚介類を仕入れ、茶屋や近郊の農家に捌いていたものと思われる。

 毎年九月の第一、第二日曜日、JR目黒駅を中心とした秋刀魚の焼き立て祭りは、目黒区側は宮城県気仙沼産の「目黒SUNまつり」、品川区側は岩手県宮古産の「目黒さんま祭」、それぞれ五千匹余の秋刀魚を炭火で焼いて、無料で食べさせてくれる祭りである。

「百川」

 この噺は「百川」の宣伝用に作られた噺とも、ここで起きた実話だともいわれるが、百川に働きにきた田舎者の百兵衛さんが、気の短い江戸っ子達をきりきりまいにさせる噺である。この噺の構図は、よく落語で使われる定番である。

 塩河岸近くの浮世小路にある、百川茂左衛門の店「百川」は、安永、天明年間(一七七二~八八)は、佐柄木町の「山藤」、向島の「葛西太郎」、中州の「四季庵」など、化政期(一八〇四~二九)には、山谷の「八百善」、深川八幡前の「平清」、柳橋の「万八楼」などと同じく高級料理店であり、卓袱料理から料亭へ、明治初年まであった懐石料理の店である。

「懐石」は温石を懐にして腹を温めるという意味で、料理は天正中期、千利休によりその形が定まった、禅林風の簡素を旨とした料理である。南方録には「小座敷の料理で、汁一つ、菜二つ三つ、酒も軽くすべし」と記されている。

日本料理は「一汁三菜」が基調で、その心得は、汁は三口飲んで初めて満足する味付けを可とする。刺身は包丁の切れ味を尊び、盛りつけは奇数の七、五、三とする、などとある。

嘉永六年(一八五三)ペリー来航、乗組員たちをテーブルでつつく卓袱料理でもてなしたが、「日本料理は質素である」との評価で、評判はイマイチであった。因みに卓袱とは、テーブルクロスを指し、料理はテーブルでつつく中華風料理を指す。

 江戸の食文化の歴史のひとつ、独身者や出稼ぎ人の食べ歩きや買い喰いなどは、安永年間(一七七二~八〇)に始まったとされ、料理茶屋の最初は、深川洲崎にあった「升屋」であり、江戸中期頃は大名の隠居や、江戸留守居役、大商人たちに利用され繁栄を極めたが、田沼時代以降、定信の「寛政の改革」によって次第に凋落していった。

「宿屋の富」

 「高津の富」「千両富」の別称がある。田舎から金の算段にきた男が、馬喰町の木賃宿に泊まり、ああだぁ、こうだぁとありもしない事をいって宿賃を払わない。挙句のはて宿屋の主人に、一分で富くじを買わされてしまう。これがなんと突止めの百番札、「子之千三百六十五番」千両籤を引き当ててしまう。

 江戸の三富は「目黒不動」「湯島天神」「谷中感応寺」、浅草寺や回向院でも、富くじ興業を開いていたが、以上の関係機関はいずれも天台宗、寛永寺系である。この噺の舞台となる「椙森神社」は、江戸期は「杉森」、明治になってから「椙森」、日本橋堀留にある。烏森、柳森と共に江戸三森のひとつで、現在も本社右脇に「富塚」の碑がある。

約千年前の平安末期、藤原秀郷(俵藤太)が、平将門の乱を平定した事の御礼に創建、室町末期には道灌も信仰したといわれる。日本橋七福神のひとつで、商売繁盛、家内安全の御利益がある恵比寿様が祀られ、毎年十月十九、二十日には宝田恵比寿神社とともに、恵比寿講「べったら市」が開かれ、神社の沿道には裸電球の屋台が建ち並ぶ。

富くじの本来の目的は、寺の修復や増築で、問題の富くじ一枚の値段は平均一分(一両の四分の一)、発行枚数五千から一万枚、これだけで千二百五拾両から二千五百両の事業規模となる。突き止め(最高賞金)は(噺では千両となっているが)普通は百両であるから、買う方のお客としては、歩留まりがすこぶる悪い。

それでも夢を描いて買った。尤も一枚の値段が一両=十万円と単純想定しても、四分の一の二万五千円、庶民の間では無理な為、初鰹同様仲間が数人軍資金を持ち寄って購入、毎月十六日の抽選日を楽しみに、束の間の夢をみたのは、年末ジヤンボに列をなす、現代の庶民と全く変わらない。


江戸純情派「チーム江戸」

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