19 日本人は薬好き 「薬」 に強くなる町

経堂/京橋比丘尼橋/本町薬種問屋/薬研堀

 仏教の教えによると人間の身体は土、水、火、風の四大からなり、それぞれに百一ずつの疫病をもつという。これに四大を掛けると四百四病となる。この四百四病に収まらない疾病が、恋の病と金欠病と仮病となる。仮病は江戸の頃、大晦日借金取りから逃げる庶民と、嫌な客に呼ばれた遊女が、よくなる病気であった。

 「病人に まやしもの(仮病)のある 大三十日(大晦日)」

 また、古代中国の考え方として、心、肺、肝、腎、脾の五蔵腑に、それぞれ八十一の病があって、これに臓器の五っを掛けると四百五病、これから「死」を除くと四百四病となる。和漢の数字がぴったりと一致する。

 江戸の頃は医者も高いし、薬も高いという事で、一番手l取り早くしかも安価で、病(やまい)に対する庶民の心を掴んだのが、神社仏閣の「御札(おふだ)」であった。これを長屋の引き戸の上に貼っておき、悪い病が家に入り込まない様に、万が一入っても、すぐ出て行くようにと願った。

「お染風邪」が流行った頃、よく見られたのが「久松留守」の御札、「あなたの好きな久松さんは、うちにはいませんから、他所へいってください」 家族の願いと、江戸っ子特有の言葉の遊びが込められているおまじないであった。

 それも頼りなくなると、薬の登場である。それらは室町時代、寺院の施薬として行われたものが、街道筋の薬屋などでも売られ、薬種問屋が生れ、土産物としても売られ、全国に広まっていった。元禄年間(一六八八~一七〇三)全国から薬種が、江戸市内の薬種問屋に入荷され、その数三五四種もあったという。その効能は「万病によし」など漠然としていたが、解熱と食当りが中心であった。

 江戸期の妙薬は、和中散、万金丹、奇応散、実母散など、また、死病といわれた病は、赤痢、腸チフス、コレラ(ころり)、肺結核、麻疹(はしか)、流行性感冒(インフルエンザ)、痘瘡(天然痘)などであったが、幕末になって種痘が開発されるまで、この他は有効な手立て(治療方法)はなく、明治になって禁止されるまで、神仏に頼る以外方法がなかったのである。

因みに、江戸時代有名人の死因は何かとみてみると、歴代将軍は悪性腫瘍、脚気(江戸わずらい)など、井原西鶴、大田南畝は脳卒中、山東京伝、宝井馬琴は心筋梗塞、芭蕉は赤痢、広重はコレラ、めでたく天寿を全うした老衰には、新井白石、上田秋成らがいた。

現代では、ちょいとくしゃみをしても、それ医者だぁ薬だぁと大騒ぎし、どうしようもなくなると、苦しい時の神だのみとなるが、江戸の頃は現代とは逆に、神仏の恃みから始って、いつも信じられている民間療法から、投薬、医者へと、お金がかかる段階を上っていった。貧乏人の知恵である。

「経堂」

 御殿(典)医、松原土佐安弥右衛門は、自分の屋敷地に福昌寺(御殿医寺)を建立、ここの蔵書(医学書)を僧たちが、仏教の経本と間違えた事により、この御寺は「経堂」と呼ばれる様になったという。また、経本を納めた石室を埋め、その上に小さな堂を建立、経堂と呼ばれる様になったともいう。

 江戸時代は荏原郡経堂在家村、昭和四十二年以降は「きょうどう」それ以前は「きょうとう」と呼ばれていた。

「京橋比丘尼橋」

 比丘(男僧)、比丘尼(女僧)とは、仏教用語で「具足戒」という、修行上の地位を与えられた者の事である。広重の江戸百、第一八景「びくにはし雪中」の比丘尼橋は、京橋川があった八重洲二丁目と、銀座二丁目の西境にあった橋で、城辺橋とも呼ばれ、この橋の向こうに外堀が流れ、その向こうは大名小路であった。

 ももんじの語源は「百獣(ももじゅう)」絵の中の看板、山くじらは猪肉のことである。その効用は「癩癇を直し、肌膚を補い、五臓を益する」と謳われ、病気治癒のための「薬喰」として獣肉を食べた。

安永七年(一七九八)頃の、猪や鹿の肉を吸い物にした物は、一椀十六文、屋台の蕎麦と同じ値段であったが、天保年間(一八三〇~四三)になると、一人鍋の小で五十文、一文=¥二十五と想定すると、現在の居酒屋で出してくる値段とさほど変わらない。

 薬喰とは、栄養補給のための食事をいうが、江戸時代は仏教の教えがあるため、大ぴらには食べられなかった。それでも病気などの場合は許されていた。人々は猪の肉を「ぼたん」鹿は「もみじ」馬は「さくら」などと、隠語を使ってしっかりと食べていた。

「薬喰い 人目も草も 枯れてから」 「今度から 貸してやるなと 鍋をすて」

寒い江戸の夜をなぐさめるのは、地酒の熱燗と肉鍋であった。

「本町薬種問屋」

 江戸期は東洋医学が中心で、家康自ら薬研で漢方薬を調合、自らの健康にそなえていた。植物、動物、鉱物などから、薬効のあるものを研究、新薬開発を行う学問を「本草学」という。これらの生薬、薬種は、まだ精製や調合をしていない薬品の事で、これらを調合して、それぞれの症状にあった薬を開発していた。日本橋本町の薬種問屋を歩くと、いろいろな生薬の匂いが立ちこめていた。

 中国の「神農本草経」には、一年と同じく三六五種の、天然生薬(人間の鍼灸に使う穴も三六五穴)が載せられているが、明の時代の「本草細目」には、一八九〇種もの生薬が収載され、この本が家康に渡ったとされる。

これらを踏まえ、江戸期の治療には、漢方薬が多く使われていた。八代吉宗の時代から薬草国産政策がとられ、享保年間(一七一六~三五)あたりから、薬草の資源調査がされ、その結果、幕府経営の薬園が八ヶ所、各藩に三十一ヶ所設けられている。

 その中でも吉宗が力を入れた物に、朝鮮(高麗)人参がある。薬用としての人参は朝鮮では国営産業で、万能薬で高価であった。吉宗はこの種を輸入し、各藩に配り栽培させた。安かろう悪かろうの逆説で、高かろう良かろう、と高い価格故の効能のよさが信じられた。現在の高価なサプリメントや、化粧品と同じ心理である。高い支払をした見返りに、その効能に高い期待をかけるだけの話である。一寸(約三cm)ほどの人参が一両もした。

 「孝行な 娘わが身を 煎じさせ」

また、出羽山形の「紅花」も口紅、頬紅としての目的の他に、傷口の殺菌用として(現在のH2O2)も使用された。

江戸本町は江戸の町の中で、初めに造られた町という意味をもち、家康入府前は福田村若しくは洲崎と呼ばれていた。天正十八年(一五九〇)町地として開発され、寛永年間(一六二四~四三)には、商人地となっている。

常盤橋から本町、浅草御門に至る「本町通」は、江戸から明治初年に至るまで、江戸、東京の目抜き通りであったが、現在本町は、江戸橋から北へ昭和通り沿いに一から四丁目と振られている。

江戸期は一丁目から三丁目までは、樽屋、奈良屋、喜多村の三人の町年寄の屋敷がおかれ、二丁目には「江戸の水」でお馴染みの式亭三馬の本町庵、三丁目には薬問屋の鰯屋があり、同じ屋号の店が三軒もあった。

本町は堺や京の薬種商が、集団で居住する薬の町として発展、和薬の真偽の吟味を目的とした「和薬種改所」が、享保七年(一七二二)伊勢町裏河岸に設けられ、和薬の吟味(検査)を始め、二十五人の薬種商に、地方からの和薬の直荷請が出来るなどの特権を与えた。

江戸鹿子によると、貞享四年(一六八七)、江戸には三十六軒の薬種問屋、七十二人の医者がいたが、享保六年、町人五十万に対し、生薬と薬種の店が百四軒、化成期になると二五七軒に膨れ上がっている。

また、江戸中期頃まで、薬種はほとんどが輸入品で偽物等も多く、おまけに金銀などの流出にもつながったため、八代吉宗は薬種の国産化を目指し、薬園の開発、本草学の編纂等に勤めた。因みに本草学の草部は、人参以下七十七種類が掲載されている。

薬種問屋にとっては、薬種はあくまでも商品であり、その薬効を研究するのは医者、薬種を分類するのは本草学者で相方武士、商の階級である薬種問屋は「薬の知識」などという、医療を担う意識はさほどもたない時代であったが、少々の薬の知識を持ち合わせた人間は、医師の免許のいらない江戸の時代、医者として通用した。

「にわか医者 三丁目で みた男」 となる。

尚、問屋は薬の他に、漢方医学に使うメス、顕微鏡、ルーペ等も扱い、また、砂糖も薬という捉え方をされていた時代であったため、享保年間(一八〇一~〇四)までは、薬種問屋が砂糖店をかねていた。

「薬研堀」

 両国広小路の南方は、俗に矢ノ倉と呼ばれ、軍用の矢を格納する倉があった為とか、正保二年(一六四五)幕府が米蔵を建設、それを矢ノ倉と呼んだのが通称になったとかいわれる。米蔵は元禄十一年(一六九八)に火災で焼失し、取り払われ築地に移転、周囲の堀も、明和八年(一七七一)隅田川(大川)河口近くを一部残し埋立られ、残された堀を俗に「薬研堀」と呼んだ。この堀割は川から米沢町へ入り、矢ノ倉(米蔵)の周囲を巡っていた。現在の東日本橋二丁目の隅田川沿いにあった。

 薬研とは、薬種をⅤ字型になっている受け皿に入れ、円盤状の先端の縁で、細かく砕く器具である。薬研堀の地名は、この堀が通常堀の底地が凹地になっているのに対し、ここの堀はⅤ字型になっている事からきた名称とも、この堀の周辺には、医療関係の人間が大勢住んでいた事などによるともいわれている。

こうした医療関係の人間とは別に、米沢町の煎餅屋の娘「高島屋おひさ」は、自分の家が営む水茶店に勤める傍ら、十七歳の頃、歌麿の浮世絵のモデルとなり、浅草「難波屋のおきた」らとともに、寛政の三美人として活躍した。

 祀られている「薬研堀不動尊」は、目黒、目白と並んで江戸三大不動のひとつ、開創四百年余、毎年暮に開かれる「歳の市」は、深川八幡にはじまって浅草、神田明神、芝神明、湯島天神をまわって師走の二十七、八、九の三日間開かれ、おさめの市と呼ばれた。

 「見おろせば 気の薬なり薬研堀 月は白湯にて かげは水にて」

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