18 行ってみたい 「食べ物」 に因む町
浅草安倍川町/浅草馬道/甘酒横丁/稲荷河岸、稲荷町、稲荷坂/鰻坂/
御杓文字横丁/神田台所町/麹町/五百羅漢さざゐ堂/千駄木団子坂/
南品川鮫洲海岸
「浅草安倍川町」
寛永十三年(一六三六)、主に小間使いや日用品の運搬役をする、御小人衆の拝領屋敷となり、元禄九年(一六九六)代官支配となり「浅草安倍川町」を称した。安倍川町のそもそもは御小人、川村大四郎の先祖が、鎮守の孫三稲荷とともに、駿府安倍川から移住してきた事による。
この町は墓の多い町で、誓教寺には北斎の墓と、辞世の句「ひと魂で 行く気晴らしや
夏の原」の碑がある。東本願寺の西方にあった町で、昭和十一年消滅、現在の元浅草二から四丁目あたりとなる。
駿府の安倍川に因んだ、「あべ川餅」は、別名きなこ餅。本来はつきたての餅に黄粉(大豆の粉)をまぶして、その上から白砂糖をかけて食べる。家康が慶長年間、笹山金山に出向いた時、金山の金の粉にまぶしたとされる「金な粉」と称していた餅を食べ、あべ川餅と命名したといわれ、以後江戸中期頃から、安倍川の渡しの茶店で名物となった。
「浅草馬道」
浅草寺と日光道中の間、隅田川に沿って北の千束へ伸びている道であり、南北の「馬道町」があった。そのいわれは ①浅草寺境内の馬道に因む ②文化元年(一八〇四)まで南部藩駒市が開かれていた ③平安末期まで馬牧(牧場)があった ④伝法院の僧たちが馬術の修練のため、馬場へ行く道であった ⑤新吉原への客が馬に乗って通った道である などのも諸説あるが、馬道は人形町の元吉原が、浅草田圃へ移転する前よりあった為 ⑤の説は疑問視されている。
「浅草馬道」には、浅草寺境内の掃除や雑役を担当する者達の、居住が認められていた処で、彼らは茶店を出して、楊枝や線香などを売っていた。楊枝とは、現在では指先で摘むほどの長さであるが、当時は長さ四寸から六寸もあり、総(ふさ)がついているものもあって、現在の歯ブラシのようなものであった。
今でもそうであるが、いや今が江戸の商法を真似してるが、売上向上を目指して、何処の店でも美人の店員をおいた。浮世絵にも描かれた、明和の三美女は、奥山楊枝見世の「柳屋お藤」、浅草二十軒長屋の「蔦屋のおよし」、谷中笠森稲荷の「鍵屋のお仙」などで、お仙などは「♪向こう横町のお稲荷さんに 一銭あげてさぁと拝んでお仙の茶屋へ」と唄われたほどの人気者であった。
一人一杯のお茶代が二十四文から五十文、二八蕎麦が三杯も食べられた。化政期(一八〇四~三〇)になり、十両もあれば親子四人楽に生活出来た時代、彼女たちの年収は、三十から五十両にもなったという。天保の改革により、岡場所とともに水茶屋の茶汲み女も禁止となり、それぞれ結婚など第二の職場に転職していった。
「顔を見た 代を置いてく 二十軒」 「二十軒 後ろの方に 連れて行き」
などの川柳が詠まれている。
「甘酒横丁」
冬の寒い日にふうふういいながら、麹と摺った生姜の匂いが入り混じった、甘酒を飲むのは格別である。「甘酒横丁」の名の由来は、横丁に入る右角に尾張屋という、夏にはカキ氷、冬になると甘酒を売る店があった事による。
「甘酒は 照る六月に 煮商ひ」 現代では何のためらいもなく、甘酒は冬のものと思っている人達が多いが、江戸の頃は夏の暑い日、汗をかきながら、ふうふう熱い甘酒をさましながら、飲むのが当たり前であった。
発酵飲料である甘酒を飲む事によって、夏の疲れた胃をいやし、汗をかくことで発汗作用を促し、そのあとの爽やかさを求めた。逆もまた真也、理にかなった消夏法であった。おろし生姜を少し加えると、さっぱり感とともに、じんわり体の芯まで温まった。
江戸の棒振り甘酒売りは、甘酒の入った真鍮の釜を、火種の箱にかけ、六十度位に温めながら、江戸市中を売り歩いた。昔から「味は親切である」という。それぞれに一工夫して、暖かい物は暖かく、冷たい物は冷やして提供、お客の満足度を充たした。
現代の家庭でも同じ事がいえるが、ちゃんと見計らって出してくれる、女房殿の気持ちをないがしろにして、いつまでもパソコンしている亭主殿は頂けない。こう云う方は、回転を利かせる外食産業でも歓迎されない。
「甘酒は 冬のもんだと 誰がいうた」
「稲荷河岸/稲荷町/稲荷坂」
和銅四年(七一一)の午の日、伊勢外宮から伏見の里へ、祀られたのが「稲荷」である。稲荷は「稲生(いななり)」の音変化であり、「いなり」「とうかん」とも読み、五穀を司どる食べ物の女神「倉稲魂神(うたのみたまのみこと)」の事で、同時に稲荷を祀った神社を指す。また、狐の好物とされる油揚げや、稲荷寿司を指したり、旅芸人がどさまわりにたてる、細長い旗を指す場合もある。
五穀豊穣、商売繁盛の神様であり、毎年二月の最初の午の日に、「初午」が開かれる、お稲荷さんの社の本宮は、京の伏見稲荷大社、本殿を御参りして右に廻ると、赤い鳥居のトンネルが続いている。この間から顔を覗かせたポーズは、皆な色っぽく、瓜実顔に撮れるのも、お稲荷さまの御利益である。
江戸の頃、稲荷神社はその辺りの横丁から、九尺二間の長屋の共有地にいたる迄祀られ、その数全国で二万近くあったとされる。江戸に多きものとして、「伊勢屋 稲荷に 犬の糞」と詠まれ、「い」が重なって、江戸っ子には語呂あわせがいい言葉であった。こうした事情で江戸の町には稲荷に因む地名が沢山ある。
「稲荷河岸」は、筋違橋から下流の和泉橋までの、神田川南岸(柳原土手のうち)の俗称で、柳森稲荷があった事による地名である。また、永代橋の西詰の両脇にもあった河岸で、明治になって永代橋が下流に架け替えられた大川端町の左右にも、渡海稲荷河岸があった事を、明治三十年、京橋區全図は記している。
「稲荷町」は、江戸期は俗に稲荷町といっていたが、明治五年、下谷神社と改称された為、町の名称も東上野三丁目となっている。現在メトロ銀座線に駅名として残る。因みに稲荷町には別の意味あいがあり、歌舞伎の世界では、通行人とか見物客、ぬいぐるみの足の役をこなす、序列で最下級の役者たちを指した。これは、彼らの控小屋が、楽屋内の出入り近くに祀った、稲荷神社のすぐそばにあったことに由来している。
「稲荷坂」は港区赤坂七丁目にある、臨済宗円通寺境内の稲荷社に因む坂で、坂上の稲荷から南へ下る坂である。この坂上に江戸城掃除役の町があり「掃除坂」とも呼ばれた。他に赤坂四丁目の末広稲荷社に因む坂。王子稲荷の東脇にある坂、目黒区蛇崩川の諏訪小橋へ下る坂、橋の西方に烏森稲荷があった。八王子千人同心の小池覚裕が建てた稲荷に因む坂。世田谷の上野毛稲荷前を下る坂で、都内でも屈指の急坂である。昔の多摩川「野毛の渡し」から、この坂を上ると「柿の木坂」を経て、白金台に通じる「二子街道」へ出る。また稲荷坂を東南に出ると「中原街道」に出るので、この坂上は「立場」になっていたと云う。などが、「稲荷坂」と呼ばれた。
「稲荷橋」は、八丁堀(桜川)の最下流に架かっていた橋で、「鉄砲洲稲荷」は橋の南詰にあった。また、鳥越川にも架かっていたのも「稲荷橋」である。
「稲荷山」は、三田二丁目にあった島原藩邸内の丘の上に稲荷を祀り、ここを庶民の参詣を許した事でこの名称がついた。他に、芝烏森稲荷前にあった「稲荷小路」は江戸期の俗称である。同じく芝横新町にあった「稲荷堂」、北品川の鎮守お稲荷(現品川神社)の門前町にあった「お稲荷門前」など、お稲荷さんに因む地名は、江戸に沢山あった。まさに、伊勢屋、稲荷に犬の糞であった。
「鰻坂」
市谷砂土原三丁目から払方町へ曲折している坂で、巾約二間、長さ約二十間程、御府内備考には「俚俗鰻坂唱エシ候ハ 坂道入曲リ登リ云々」と記されている。
市谷鷹匠町は、この辺りでは最も高い処にあり、この為坂が多い。「浄瑠璃坂」から北へ下るのが「鼠坂」、西に「芥坂」、東へ下っている坂が「鰻坂」である。
「御杓文字横丁」
江戸期の俗称地名で、高輪南町から二本榎へでる道を指した。この辺りに釈神社の釈地横丁と、石神社の石神(しゃくじん)神社があり、両方の「しゃく」をとって、土地の人間が「おしゃもじ横丁」と唱える様になったという。(江戸名所図絵)
「神田台所町」
江戸時代、神田川を境に、左岸(北側)にあたる町を外神田と呼んだ。江戸に多い火事によって、神田の町の代地として、この土地に多くの人間が移転してきた。この事から従来の神田に対し、「外」の俗称がつけられた。現在の神田相生町、佐久間町など、秋葉原駅周辺の町が外にあたる。
外神田二丁目に「神田台所町」という名称の町があった。この町は明暦大火の後に御台所方、御賄方などの、武家が拝領した屋敷地であり、寛文十二年(一六七二)、御家人層の人々の生計のための町屋が開かれ、神田明神下御台所町と同御賄手伝屋敷が、明治二年合併して起立した町が、神田台所町である。
目黒の脂がのった、熱い秋刀魚が食べたい殿様に、小骨を取り脂を抜き、ペースト状の冷めた秋刀魚を差し上げたのも、この町の人達であろうか。
「麹町」
半蔵門から四谷見附までの細長い街である。半蔵門から西へのびる甲州道中沿いに、町人地が一から十三丁目まで形成され、十丁目までが四谷見附東側(内側)、十一から十三丁目は、四谷見附造営の時に、外堀を挟んだ西側に移転した。
三丁目には助惣焼(どら焼きの店)、六丁目には切絵図版の尾張屋と、九丁目には同業の近江屋があり、八丁目には慶長年間(一五九六~一六一四)遊女屋があったが、こちらは元吉原に移転した。因みに山王祭りは、四谷見附を経て半蔵門から城内に入り、上覧をはたした後、竹橋に抜けるコースである。
「麹町」の由来は ①甲州道中につながる府中への「国府方」が、麹町の古名だといわれる説や、②この辺りは土壌がやわらかい為、手堀で作った地下室「むろ」で、麹を育成した町である、との説もある。
「こうじ」の名は「醸す(かもす)の名詞形「かもし」の転訛した言葉である。また「麹」という文字は、中国から伝わった文字で、一方「糀」という文字は、江戸期にあった和製漢字で、「米糀」の事をさす。
米、麦、大豆などの穀物に、食品発酵に有効な微生物(カビ)を繁殖させたものが「コウジカビ」である。このカビの分解酵素の作用を利用して、日本酒、味噌、醤油などの発酵食品が製造される。灘の下り酒に対して、江戸の地酒も負けてはいなかった。
「五百羅漢さざゐ堂」
江戸っ子は「さざえ」とはいえなく「さざい」という。さざえは栄螺と書き、巻貝の一種で、腹足綱古リュウテン科に分類される、巻貝の一種だという。身を取りだして、バター焼き、さざえ飯、刺身、甘辛煮と、レシピはいろいろあるが、やはりそのまま、塩ゆでか炭火で焼いて、くるりとひねり出すと、コリコリとした風味が味わえる。最後のしっぽの苦い部分が、のん兵衛にはたまらないアテとなる。
元禄八年(一六九五)、本所五ッ目(現江東区大島)に、創建された「羅漢寺栄螺堂」は、松雲禅師が五代綱吉の母桂昌院の援助を受けて建てたお寺で、明治四十一年、目黒区下目黒に移転、現存する三百体の羅漢像を拝観出来る。仏教の礼方である「右繞三匝」にもとづいて、右廻りに三回匝(めぐ)る「三匝堂(さんそうどう)」が正式名称である。
内部は螺旋構造の回廊になっており、そこを右廻りに廻っていくと、五百もの羅漢様や、観音様に会える仕組みになっており、巡礼した事と同じ御利益を頂いた。京の仏師、松雲元慶が彫った羅漢像は、一人一人が妙に人間臭い顔をしており、参詣する人々にとって、今は亡き人々の顔に出会った気持ちになり、いい供養となった。
「千駄木団子坂」
千駄木二丁目と三丁目の間、煉瓦作りのイタリア料理の店を、千駄木御林跡の側に上る坂で、長さ約百八十m、高低差約十mと、少し北へ張り出している坂が「団子坂」であり、下ると不忍通に出た。
この坂上に上ると、江戸の海がよく見渡せたので「潮見坂」とも、坂下に七面神社があったので「七面坂」とも呼ばれた。また本来の「団子坂」のいわれは ①「此の坂の傍らに、昔より団子をひさぐ茶店ある故の名なり」としている。また、②この坂に団子のような石が沢山あったとか、③坂が急なので団子のように転んだとか 諸説ある。
江戸の頃は植木屋、盆栽屋が多く、幕末の嘉永年間(一八四八~五三)から明治にかけ、染井村の植木屋が、毎年秋にこの坂で菊人形の小屋掛けし、季節の花を愛でながらという趣向で、「紫泉亭」という料亭を開いた。(文京区教育委員会) 広重江戸百第二十七景「千駄木団子坂花屋敷」の、右上に描かれている家がその紫泉亭である。
明治の文豪、森鴎外はこの坂の上南側に「観潮楼」を構え、二度目の奥さんと、大正十一年六十歳で亡くなるまで三十年暮した。郵便物は団子坂、森林太郎で届いたという。ここでの歌会には、上田敏、佐々木信綱、与謝野鉄幹、晶子夫妻らが出席した。鴎外がここで書いた、「雁」の主人公お玉が住んでいたのが、近くの「無縁坂」である。また他に、この団子坂を題材にしている作品に、夏目漱石の「三四郎」 二葉亭四迷の「浮雲」がある。
「南品川鮫洲海岸」
浅草海苔は「大森、品川などの海に産せり、これを浅草海苔と称するは、往古かしこの海に産せしゆえに、その旧称失われずして、かく呼びに来たれり。(略)諸国に送りて、これを産業にするもの夥し、実に江戸の名産なり」と紹介されている。
天正年間(一五七三~九一)浅草周辺の海で、採られ売られていた海苔は、消費量の増大により、その採取場を葛西から品川、大森と代わっていき、原材料地の品川でも、万治年間(一六五八~六〇)「品川海苔」のブランドで売り出された。
鮫洲は「御菜八ヶ村」という、特権的に位置づけられた猟師町のひとつで、南品川宿の南端から立会川までの細長い地域で、東は江戸の海、西に海晏寺があった。建長三年(一二五二)品川沖に大きな鮫が浮き、その腹から観音像が出、それを祀ったことからこの地名となった。
海苔の食性は飛鳥、奈良時代に始り、仏教伝来による殺生が禁じられた時代、海苔は貴人たちの貴重な食材となっていく。江戸になり、常に新鮮な食材の重要が高まり、品川や大森の漁民たちは、ヒビ(ビビンダ)と呼ばれる、木の枝や笹竹を浅瀬に建て、そのヒビについた海苔を獲り、浅草の問屋が買い集め、食材や土産物として、日本全国に売られていった。
浅草海苔はウラケノリ科アマノリ属に分類され、単に「ノリ」「アマノリ」とよばれる地方名でもある。摘まれた海苔はよく洗われ、細かく刻みペースト状にして、十九×二十一cmの漉き型にすくいとり、天日に干す。
この干す順序を間違えると、商品は台無しになる。先ず、「すのこ」の裏の方を天日にあてがい水分を取り、隅々の形を整える。そのあと表に返して、太陽の栄養分をしっかり吸収させて製品とする。浅草紙と同じ製法である。
この海苔、北海道西南部、太平洋沿岸、瀬戸内沿岸などで養殖されてきたが、現在では絶滅危惧種であり、代わって黒くてツヤのある「ナラワスサビ」が、年間百億枚が生産されている。
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