17 江戸の 「音」 が聞こえる町


音無川、滝野川/神楽坂/砧/猿楽町、猿若町/三味線堀/松濤/浄瑠璃坂/

松濤/等々力/成子坂/目黒太鼓橋

 「音」は科学的な言葉で表現すると、空気中の振動であり、その振動数が20Hzから2万Hzの範囲にあって、人間の五感のひとつ「聴覚」で知覚できるものを「音」という場合が多いとされる。しかし、人間が音として,耳に聞こえる範囲は,ごく一部分でしかない。他の動物達の聴覚は,自分の生命を護る武器であるため、人間の能力をはるかに超えたものをもっている。

 また、人間様は音に対しては,すこぶる勝手な生き物であり、自分の好きな音、例えば、潮騒、そよぐ凬の音、虫の音、自己主張、他人の悪口なんかは、いくらうるさくても意に介さない。反面、自分への悪口、都合の悪い言葉に対してはうるさく感じる。特に他人様から聞こえる苦言、異論に対しては、自然と聴覚の機能が低下、拒否反応を起こすという。人間とは不思議な生き物である。

「音無川/滝野川」

 嘉永二年版切絵図には、「板橋下手に石神井川と記し、下滝野川に至り音無し川と云う」と付記されている。石神井川は、現在、王子から直進、隅田川に注いでいるが、江戸期は王子で九〇度右折、根岸、三ノ輪、不忍池、お玉ヶ池に至り、灌漑用水として利用され、堀留、小網町辺りで、江戸の海に注いでいた。

王子権現辺りは、渓谷美と紅葉の名称で、春の櫻とともに、江戸っ子の人気を集め、明治になり子規も 「下駄洗ふ 音無川や 五月晴」と詠んでいる。 

 「滝野川」は、石神井川が王子辺りで浸蝕された岩にぶつかり、水音が滝のように轟いたためこの名があり「瀧の川」とも書き、「荒れ川」とも呼ばれた暴れ川であった。新編武蔵風土記稿によると「東の方日光道中、南の方中山道に掛かれり」とある。

鎌倉時代からの古い地名で、豊島郡に属し、治承四年(一一八〇)、頼朝が隅田川石浜から浮橋を渡り、滝野川松橋に陣を張ったとされる。村の南は巣鴨村、北は王子村であった。

 王子という地名は、道灌が江戸城を築く、およそ三百年程前の時代、江戸氏と豊島氏が勢力を争っていた頃に、熊野権現の若一王子を勧請、王子権現を祀った事による。荒川の流域が広かった頃、その岸に鎮座していた岸稲荷は王子稲荷となり、関八州三十三ヶ国の稲荷の総元締となった。

旧暦二月の初午の日には「火伏の凧の市」が開かれ、江戸っ子達の御守りとなっている。こうして熊野権現を勧請して、王子権現が祀られた事から、紀州の熊野本宮大社をならって、近くを流れる石神井川を「音無川」と呼ぶ事になったといわれる。

「神楽坂」

 牛込御門から北の台地に登る坂を「神楽坂」といい、この坂と大久保通りとの交差点を「坂上」、外堀通りとの交差点を「坂下」という。現在は全国でも珍しい「逆転式一方通行」を実施している。交通事情の緩和のため、午前中を坂上から坂下へ、午後からは坂下から坂上への車の一方通行、昔某政治家が国会へ出席の為、そうしたとの説もある。

それはさておき、この地名のいわれは、①高田穴八幡の御旅所がここにあり、神輿が通る際には、祭礼の神楽が聞こえたからだといわれ、また、②若宮八幡の神楽が、ここまで聞こえてきたからだともいわれる。江戸期は御手先組や根来人衆などの、御家人の組屋敷や寺社地であったが、明治中頃より盛り場となり、文学、演劇など芸術活動も盛んになった。

「砧」

「砧(きぬた)」の語源は、古代、朝廷に貢ぐ「調」の布を「砧」で叩き、多摩川でさらした事に因む地名である。また、叩く道具である砧を受ける、木や石の台を「衣板(きぬいた)」というが、それが転訛して「砧」となった。更に、布を打つ行為やその打つ音を、「砧」という等諸説がある。

大正七年、渋沢栄一によって開発された田園調布は、それ以前は「調布村」と呼ばれ、そこに自生する麻や荢(からむし)の皮を、多摩川の水でさらし、砧で打って繊維状にして、布を織り府中に献上した。織った布をやわらくしたり、つやを出したりする為に、叩く道具=砧を必要とした。

明治二十年、喜多見、宇奈根などの村を合併して砧村とし、大正三年から、現在の田園都市線の前身、青蛙と呼ばれた「玉電砧線」が、多摩川の砂利運搬を目的として、砧から二子玉川まで開通した。

「猿楽町/猿若町」

猿楽は「さるごう」「さるがう」とも読む。能と狂言で構成されている、現在の能楽のかっての呼び名が「猿楽」である。その起源は大陸伝来の「散楽」に由来するといわれるが、「申楽」を日本本来の芸能と融合しながら、歌舞劇として発展させていったのが、世阿弥の父、勧阿弥であった。室町時代末期から江戸時代になって、武家社会の文化資本として、典礼用の正式な音楽(式楽)の位置を、かためていくことになる。

「神田猿楽町」に、能の四流のひとつ勧世太夫の屋敷が、慶長年間(一五九六~一六一四)にあったが、万治二年(一六五九)神田川の掘割の際に移転、猿に因み「えてがわちょう」ともいわれた。現在の神田猿楽町、神田神保町辺である。

「渋谷猿楽町」は、古墳時代の別名、斥候塚ともいわれた「猿楽塚」に由来、大小ふたつの塚があり、その間を鎌倉街道が通っていた。この塚に登ると景色がよく、自分の苦労を忘れた事から「去我苦塚」とも呼ばれた。また、「浅草猿楽町」は、越後猿屋村から出てきた、猿引きが多く住んでいたことによる。

歌舞伎にまつわる「猿若町」は、江戸歌舞伎の創始者といわれる、中村(猿若)勧三郎に因み、天保の改革により、江戸三座が人形町や木挽町から移転させられた、浅草寺裏の土地がここである。猿若1丁目に中村座、二丁目が市村座、三丁目には森田座が櫓を上げ、明治氏初年頃迄興業を続けた。現在の浅草六丁目にあたる。

「三味線堀」

 「下谷では弾く 市谷で語る也」下谷で弾くのは三味線であり、市谷で語られるのは浄瑠璃である。上野不忍池から出た忍川が、流れ込んでいた姫ヶ池が、正保年間(一六四四~四六)埋立てられ、忍川の末流のようになり、その形が三味線(三絃琴)のような形になっていたので、この名がついたといわれる。

東西八間、南北七十八間の幅をもち、深さは二から三尺ほどあったが、付近の下水がここに流れ込み、鳥越川となって御蔵前片町を経て、隅田川に注いでいた。堀には舟付き場があり、下肥、木材、野菜、砂利などを輸送する舟が隅田川から往来していた。嘉永二年版の切絵図によると、下谷の出羽国久保田藩佐竹家上屋敷の南に位置していたが、市街化の整備や陸上交通の発達によって、昭和初年頃、埋立てにより消滅している。

「浄瑠璃坂」

 江戸時代この坂上に、人形芝居の小屋があったため、この名がついたとされるが、またこの坂の近くに「薬師如来」を本尊とする光円寺があり、本尊の薬師如来は、仏の世界では東方浄瑠璃世界の主だと云う。この説に基づいて名がつけられたともされる。

現在のJR市ヶ谷駅から外堀を渡ると、尾張徳川家の上屋敷、その北側に道灌が文明十一年(一四七九)、江戸築城の際西方の守りの為、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を勧請した「市谷(亀ヶ岡)八幡宮」がある。

さらに八幡宮を北へ進むと、急坂の左内坂と逢坂があり、緩やかな「浄瑠璃坂」がある。「忠臣蔵」の主人公、大石内蔵助が討ち入りに際し、大いに参考としたとされる浄瑠璃坂の仇打ち事件は、寛文十二年(一六七二)二月二日の深夜、出羽国奥平家の家臣同士、相方あわせて百二十人に及ぶ大規模な事件であった。

「松濤」

江戸時代には紀州徳川家の下屋敷であった。明治になって、佐賀の鍋島家が狭山の茶園、松濤園を作ったことにより、「松濤」の町が誕生した。松濤とは茶道の雅名で、茶の湯がたぎる事をいう。また、松の梢をわたる凬の音を、波の音にたとえていう言葉でもある。

「等々力」

 「ととろ木」「兎々呂城」とも書く。この名の由来は、谷沢川の不動滝の音によるという俗説があるが、天正十八年(一五九〇)、兎々呂城出丸にあった、満願寺を深沢の里に移転、それから等々力村の名が生じたともいわれる。

 江戸時代は荏原郡等々力村、のちに周辺の用賀、瀬田、上・下野毛など七ヶ村を合併、玉川村の一部となっている。近くに「野毛大塚古墳」や、五世紀から七世紀にかけての「等々力渓谷横穴墓群」がある。現在、等々力渓谷は都の指定名勝となっている。

「成子坂」

鳴子は農作物を鳥から守るために、音を出して鳥を追いはらう板の道具であるが、この辺りの半農半商の住民たちは、鳴子酒屋があったように、店へ客をよぶ手段として、この音が出る鳴子を使った為に、この名がある。また、この坂の途中に、成子地蔵が祀られていたため、別名を「地蔵坂」とも呼ばれていた。

青梅街道が神田川に向かって下る辺りが「成子坂」、本来は「鳴子坂」。昔は松や柏の葉が茂る寂しい坂で、南方は鎌倉街道であった。「成(鳴)子坂」は内藤新宿の先で、ここの名物は真桑瓜で、この瓜を「なるこ瓜」と呼んだ。

そもそも真桑瓜は、幕府が美濃国真桑村(大垣の北方)の農民達を江戸に呼び、府中の是政村に住まわせ、瓜の栽培を奨励した事による。神田川が近い為、適度の湿気が瓜の栽培に適していたという。

 

「目黒太鼓橋」

 江戸最初の唐式石拱橋。「この橋行人坂下にあり目黒川に架す、享保の末、木食願主にてかけたり。長さ八間三尺、巾二間、その形円なる故にこの名がある」としている。

単拱式の石造りアーチ橋は、江戸名所図絵によると「柱を用いず両岸より石を畳出して橋とす。故に横面より是を望めば、太鼓の胴にさも似たり、故に世俗しかなづく」とある。つい最近まで洪水が常習であった目黒川にとっては、橋脚の無い(障害物の無い)橋は、お互いにとって、優しい仕組みの橋であった。

 しかし大正九年の豪雨によって流出、目黒不動滝、和泉寺詣でのため、日本橋の商人達が集まって、金を出し合い復興されたが、現在もその名前の碑が残っている。

江戸純情派「チーム江戸」

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