16 江戸 「漢字検定」 の町

秋葉原/余戸/軍畑/不入斗/笛吹、人里/穏田/象潟/鬼子母神/

古千谷、舎人/小日向/鹿浜、鹿骨/石神井/碑文谷/分倍河原/

美土代町/和布刈/代々木/六月/「伊興、小作、切欠、給田、是政、東雲」

 江戸地名の中で、最も難解な地名はあるアンケートによると「軍畑」である。「軍」を「いくさ」と読めるのは、歴史小説が好きな人である。第二位は「九品仏」、この「品」が簡単なようでいて難解なのである。大体が「くひんぶつ」「くしなぶつ」と読む。「品」を「ほん」と解釈する人は、仏教に含蓄がある人とみられる。 

 古代中国「黄河文明」の中で、発生した文字が「漢字」であり、今日知られている最古の文字は、「殷」で使われた甲骨文字だといわれている。漢字は四大文明の中で、現代でも使用されている、唯一の文字体系であり、後漢の時代になって、楷書、行書、草書が成立、文字体は、ほぼ固定化されていった。また、史上最も文字数が多く、その数十万余数である。

 現代では日本語、中国語、朝鮮語の記述に、約十五億人が使用、約五〇億人が使用しているとされるラテン語文字に次いで、世界二番目に使用者が多い文字が漢字である。

 日本に漢字が伝来したのは四世紀、七世紀頃には日本でも使いこなせる様になっていたとされる。また、現代使用されている「平仮名」は、漢字の音を借りて「万葉仮名」が生れ、のちに草書化されたものであり、「片仮名」は九世紀頃から、漢字を訓読みにする際に漢字を省略、発展していったものである。

 「日本漢字能力検定」略して「漢検」は、単に漢字を読める、書けるといった知識のみに留まらず、その漢字のもつ意味を充分に理解し、いかに文章の中で、適切に使われているかをも目的としている。

 

「秋葉原」

 「あきばがはら」「あきばっはら」とも読まれた「秋葉原」は、現在「アキバ」の方が通りがいい。江戸の頃、神田川北側は米や材木、薪などが集散する「佐久間河岸」であった。火事が起きるたびに、この河岸の材木、薪によって被害が増幅されたため、人はここを「悪魔河岸」と呼んだ。

 明治二年、十町、約九千坪が焼失する大火事が発生、度重なる火事により東京府は、森の石松でお馴染みの、遠州(静岡県)森町の秋葉大権現を分霊した。紅葉山の火防の神様をここに移して祀ったため、ここをアキバの原と呼ぶ様になった。

 昭和七年、秋葉原駅開業、地元神田っ子は「アキバノハラ」を主張したが、鉄道省はアナウンスが一文字長いためか「アキハバラ」を主張、結果「秋葉原」、昔から古老たちは、若者たちより早く、「原」をはしょって自分の町を主張、「アキバ」と呼んだ。

神田佐久間町の秋葉の原は、二から三町四方の空き地で、貸し自転車屋や輕技やサーカスなども時々興業された。(明治世相百話)跡地は現在のJR駅とその周辺となっている。

「余戸」

「あまるべ」「あまりべ」「ようご」「ようど」とも読む。古代律令制度の下における行政組織として、国、郡、里(郷)があり、区画のひとつとして五十戸を「一里」として編成、その一里に満たない集落を「余戸」と呼んでいた。また僻地の寒村なども「余戸」と呼ばれ、武蔵の国では二十一郡中十一郡が余戸で、豊島郡、足立郡にみられた。

余戸は「よど」とも読み、新宿区の淀橋辺りも、その遺名としている説もある。人名にも読めない方が多い。例えば「四月一日」さん。江戸期、旧四月一日は衣替えの日、従ってこの方の本名は「綿貫(わたぬき)さん」と呼ぶ。 

「軍畑」

 永禄四年(一五六一)滝山城の三田氏を、小田原の北条氏照が攻めた「辛垣(からかい)の戦い」は、多摩川を挟んで激戦となった。多くの死傷者を出した、その史実に因む地名で、「軍畑(いくさばた)」は、軍場(いくさば)が転訛した地名であるとされる。

 辛垣山は標高四百五〇m、この山頂に三田氏が城を築き、秩父を結ぶ旧鎌倉街道筋にあった。越後の上杉氏が関東に進出してきたため、これと結んだ三田氏は北条と敵対、孤立して滅亡していった。

JR中央線立川で、青梅線に乗りかえ、ひとつ目の駅が「軍畑」である。近くに戦死者や鎧を埋めたとされる鎧塚があり、現在、城山は江戸期以降、石灰の採石場として利用されたため、はっきりとした城の遺構が解らない状態にある。

「不入斗」

 「いりやまず」「いりやませ」と読ませる。関東地方に多い地名で、横須賀、富津、市原などでみられ、「ふにゅうと」と読ませると、静岡県袋井市にその名がみられる。

この地名の由来は ①「村にするにたらざる地を不入斗と云。後に村となりて、不入計村と云」 ②「計」の草書体が、「斗」に似ているために、計が斗になった。計算が合わないという意味合いがある。 ③かっては「不入読」と書き、荘園時代に「不入」の権利があったからだとされる。

いずれの説も難解であるが、要約すると「神田(しんでん、みた)」で、寺社や荘園領などで、貢納の免税地であった事を示す地名であり、「不入権」説が有力視されている。大田区大字「不入斗」村は、新井宿村と合併、入新井村となっている。現在の大森本町、大森北辺りである。

「笛吹/人里」

 「笛吹」は「うずしき」と読み、土地の人は「うそふき」という。甲斐(山梨県上野原)と武蔵(檜原村南西部)の国境に笛吹峠がある。この「笛吹」という土地は、南北山に囲まれ、中央を秋川渓谷が流れている。「檜原村」は江戸時代、笛吹組と猿屋敷村が合併して出来た村であり、明治十一年になると今度は、檜原村人里に編入される。

 「人里(へんぼり)」の名の由縁は、国境を守る事を「辺防」というが、この辺防の町=辺防の里が転訛して「人里」となったと考えられる。人里は檜原村の字名であり、江戸期の和田組などが合併して起立、明治十一年笛吹と合併、二十二年檜原村の大字となっている。

「穏田」

 「隠田」とは農民が年貢の徴収を免れる為に,密かに耕作した水田をいう。忍田、恩田ともいい、隠池、隠没田とは同義語である。江戸期から明治まであった村で「おんでん」と読み、東京府南豊島郡千駄ヶ谷村に存在した大字である。この名の由来は北条、若しくは関東管領上杉の家臣に、恩田という者の屋敷があったからとか、いやここは田制の年貢を免れるための、「カクシ田」があったからだとする説がある。江戸時代の「穏田村」は、東は善光寺門前(青山百人町)、西は上渋谷村、南は宮益坂、北は百姓地。現在の渋谷区神宮前、渋谷、神南にあたる。

 天正十九年(一五九一)伊賀者に給与、文政年間(一八一八~二九)には小普請組、御手先組、伊賀者の屋敷があり、村の中央には隠田川が流れ、干ばつにも枯れないといわれた「柴の井」があった。現在穏田の名は、穏田神社(神宮前五丁目、旧穏田二丁目)に名を残している。

「象潟」

 「象潟や 雨に西施が ねぶの花」 芭蕉

芭蕉が「おくのほそ道」で訪れた象潟(きさがた)は、百十五年後の文化元年(一八〇四)の大地震のため、地盤が約二百四十cm隆起、潟も島も埋没、今は碧い水田と松が繁る小島が、それを物語っている。

延宝五年(一六七七)本荘藩主であった六郷氏(二万石)が、浅草に屋敷を構えた際に、領内の「象潟九十九島」に因んで、屋敷付近の町名に「浅草象潟町」と名付けた。羽後(秋田県)本荘藩六郷家の屋敷は、浅草寺と新吉原の間にあり約六百坪、江戸の頃は浅草寺の境内の警備を担当、火事には家臣達が駆けつけたり、三社の祭礼には六郷家の馬を提供したりして地元に貢献、地域密着型の藩であった。

 昭和四十一年まで、象潟一から三丁目まであったが、現在、町名は消滅している。しかし、町会名として象一町会など三町会が残っている。三町会は台東区内唯一の三業地であり、料亭、待合、置屋の三つが揃っている花柳界の町で、見番には料亭と芸者さんたちが加入している。また、秋田県にかほ市象潟町との交流は現在も続き、平成五年、姉妹都市となっている。

「鬼子母神」

 大田蜀山人が書いたとされる、「なさけ有馬の水天宮、おそれ入谷の鬼子母神」 その入谷の鬼子母神は真源寺に祀られている。また、都電荒川線雑司ヶ谷駅を降りると、「法明寺鬼子母神堂」がある。両寺の「鬼」と云う字には上の角がない字となっている。

 今や安産と子育ての神様であるが、もとはインドの夜叉神の娘で、人間の子供をさらっては食べてしまうという、極悪非道な神であった。ある時、お釈迦様が彼女の末の子を隠してしまった。嘆き悲しむ彼女をこんこんとお釈迦様は諭した。以来、鬼子母神は子の母として、子供の守り神になったと云う。この仏教説話のもとづいて、鬼のツノをとって「オニ」の字をあてている。鬼子母神の像は、片手に子供を抱き、片手に柘榴(ざくろ)の実を握っている。柘榴は人間の味がするという。

また、鬼子母神は子沢山で千人の子がいたという、そこで詠まれた川柳が

「洗濯に 井戸をかへほす 鬼子母神」「観音の 千手うらやむ 鬼子母神」 

安産と育児の神様、雑司ヶ谷鬼子母神の社殿は、新編武蔵風土記稿によれば、祀られる鬼子母神像は永禄四年(一五六一)に掘りだされ、寛文四年(一六六四)広島藩浅野家の奥方が寄進したもので、ここの土産は風車や、麦わらで作ったみみずく、角兵衛獅子など素朴な物である。

 昔、高田四ッ家町に住む嫁が、姑に貧しい為に親孝行できないでいたが、ある日鬼子母神に詣でると閃いた。それは麦わらで作った角兵衛獅子、これなら材料費がかからず私でも作れる。愛らしく作って門前で売り出した。これが大評判となり、姑孝行が出来たと云う。

現代ではあまり聞こえてこない話が伝わる。嫁と姑が仲良いのは微笑ましい。その舞台を成功させるのは、やはり若手役者(嫁)の、キャラの明るさと優しさがものをいう。双方の亭主は、だまって酒を飲んでいればいい。

 

「古千谷/舎人」

 江戸期から明治二十二年までの村名で、足立郡舎人領のうちの「古千谷(こぢや)」であり、「東谷」とも書いた。新編武蔵風土記稿によれば「往昔 東屋ト書タル」とある。東屋を分析していくと、東、東風は「コチ」、屋は屋敷、家で「ヤ」で、東の集落「古千谷」、要約すると「舎人」の東の方「東風(こち)」にある谷となる。

 古千谷の北部に位置している「舎人」は、皇族や貴族に仕え、警備や雑用に従事していた者達に因む地名である。都内二十三区のなかでも、最北端に位置する町で、日暮里からの舎人ライナーが開通するまでは、陸の孤島といわれ、路線バスで東武線竹の塚が最寄りの駅であった。

 古千谷と舎人の間を流れているのが「見沼代用水」である。「見沼代用水」とは、八代吉宗が「享保の改革」の一環として、享保三年(一七二八)幕府役人井沢弥惣兵衛をもって、新田開発の為に普請した灌漑用農業用水を云う。沼や池を貯水していた「見沼用水」に代わるものである。作業者延べ九十万人、総額約二万両、その結果新田として千百七十五町歩(約千百六十ha)、毎年五千万石弱の年貢米が、幕府の米蔵に収められた。

 現代の埼玉県行田の利根川から取水され、県東部から足立区舎人を経て荒川に注ぐ、利根川用水中最大のもので、総延長約九十六㌔、灌漑面積約一万七千ha、受益農家約二万五千戸、更に東京都の水道へ八十万t余を給水している。尚、荒川放水路(現、荒川)によって分断された足立区内の用水は、下流部分では排水路として利用されている。因みに見沼代用水は、埼玉、東京の「葛西用水路」、愛知県「明治用水」と並び、日本三大農業用水となっている。

「小日向」

 行政上は「こひなた」地元の人間は「こびなた」と濁る、江戸っ子のはしくれがここにもいる。江戸期は豊島郡狭田(はけた)領、神田川(平川)の北岸沿いに、川越街道が通っていたとされ、交通の要衝であった。また、江戸初期は増上寺領小日向村として、代官や町年寄の支配となっていたが、明暦年間(一六五五~五八)以降、順次町人地となっている。

地名の由来は、中世、江戸氏の傍流に小日向氏がいた。その一族が断絶後、「古日向」と呼ばれる様になった。また、日向の国(宮崎県)にあった大慈寺が、家康入府とともに当地に移転、その後、町の火伏せ祈願のため大塚に再移転。故にこの跡地が「古日向」になった可能性もあるとしている。

 「小日向」という台地は、「切支丹坂」「薬缶坂」など坂が多い町である。切支丹坂の上には、宗門改役の井上筑後守の下屋敷があり、牢と取調所が置かれ、切支丹屋敷と呼ばれていた。古くは小日向村の畑地である。

「小日向台地」と「小石川台地」の間が「茗荷谷」、ここの坂は同じキリシタンの町、長﨑が大通りに向かって規則正しく下っているのに対し、何の脈絡もなしに登り下がりを繰り返している坂が多いから、歩いてみるのも面白い。

「鹿浜/鹿骨」

 「鹿浜」は荒川下流の北岸に位置、「しかはま、ししはま」とも読む。「鹿」を「しし」と読ませるのは、鹿を神格化し、誇張した表現をする言葉である。江戸期、鹿浜は足立郡淵江領のうちで、当初は幕府領であったが、その後、東叡山寛永寺の寺領、助郷は日光道中千住宿である。

一方、「鹿骨」は江戸川西岸に位置し、「ししぼね」と読む。室町時代からみえる地名で、葛飾郡東葛西領の内で幕府領であった。助郷は日光道中、千住宿から分かれた水戸佐倉道の新宿(にいじゅく)である。

「石神井」

 「しゃくじい、しゃくじ」と読み、「社宮司、三宮司」とも書く。川の水源は、三宝池、石神井池である。昔、村人が井戸を掘った処、霊石を出土、これを石神として祀ったのが、地名の由来とされる。神社の神体も石棒である。この石神信仰は、信州諏訪が発祥の地で、古代から中世にかけての土地の神々への信仰ではないかと思われている。(柳田国男、地名の研究)江戸期は豊島郡野方領のうちであった。

「碑文谷」

 「ひもんや」と読み、法華寺の文書では、「ひものや」とも読む。また、「日門谷」とも書く。江戸期は荏原郡馬込領のうちで、九品仏川と海老川が合流する呑川の中流部分に位置していた。呑川は荏原台地より湧出、農業用水に使用されてきたが、水量が不安定な為、慶長十一年(一六〇六)灌漑用水として、「六郷用水」が開設されている。この地の由来は、近くを通る鎌倉街道の傍らに梵字で書いた古碑があったことによる。

「分倍河原」

 京王線の駅名は「ぶばいかわら」、地名は分梅(ぶんばい)町、地名の由来はいくつかあって、六所の神を分配して祀る、六所分配宮に由来したとも、国府(府中)の背後、つまり「府(ふ)」の「背(はい)にあったからとも、多摩川の重なる氾濫で収穫量が少ない土地であった為、田を倍にして与えたことなどによる。

 鎌倉最末期の元弘三年(一三三三)、十四代執権北条高時の弟泰時の幕府軍と、後醍醐天皇に従う新田義貞軍がここを戦場とした。義貞は南朝の総大将として活躍、五月十五、十六日、「分倍河原の戦い」に勝利、二十一日稲村ケ崎を突破、由比ヶ浜から鎌倉に突入、

二十ニ日鎌倉幕府を滅亡させる。この戦いは、千早城の楠木正成、六波羅探題の足利尊氏の三者一体の戦いであった。

「美土代町」

 「美土」は神田、田圃を作る事を「代」を掻くという。伊勢神宮に奉納する、稲の初穂を作る田という意味になる。従って、神田も美土代も同じ意味合いになる。江戸の頃、この町には丹前風呂の店があった。丹前とは堀丹後守屋敷前という意味と、町人の綿入れ半纏の意味もあった。ここで働いていた湯女勝山は、新吉原にトレードされ、花魁道中の外八文字や勝山髷を考案、歌舞伎役者と同様、当時のカリスマファッションリーダーであった。

 

「和布刈」

 江戸っ子と地元の人間には「めかり」と読める。何故、遠くの江戸の人間が読めるかというと、天下祭りと呼ばれた神田の祭り、四番目の山車は、神田旅籠町の受け持ち、謡曲に因む「和布刈龍神」で、馴染みだったことによる。

 西暦二百年に創建された、「速門社(はやとのみや)」とも呼ばれる和布刈神社(早鞆明神)は、十四代仲哀天皇の妃、神功皇后が朝鮮半島に出兵した「三韓征伐」の折に立ち寄ったことがきっかけになり、現在の社は明和四年(一七六一)小倉藩主、小笠原忠純の再建によるものである。

若布刈神事は、旧暦元旦の未明、三人の神職が松明、手桶、鎌を持って神社前の関門海峡に入り、新和布を獲って神前に供える行事で、階段下の海中灯籠は、対馬国国主宗氏が三年に一度の出仕の際、航行の安全を祈願して寄進したものである。尚、文治元年(一一八五)、この海峡で繰り広げられたのが、源平最後の戦い「檀の浦の戦い」であった。

「代々木」

 甲州道中南方の山野の村称を、「よよぎ、よいき」と呼び、東は千駄ヶ谷から上淀橋、西は下北沢から幡ヶ谷、南は中渋谷、上目黒、北は角筈から中野まで占め、江戸期は「代々木野」とも呼ばれた、集落が半分程もない地域であった。

 この地の由来は、ここにあった近江彦根藩井伊家の下屋敷に老樅の大木があり、代々保存に努めたからとも、(幕末にはこの木に登って黒船を監視したとも云われている)、また、この地はサイカチの木が多く、村民がこの木の生産に従事してきたから等の説がある。

 江戸期は品川宿や内藤新宿の助郷村で、桃や杉の葉を出荷、この他にも鷹の餌となる秋虫も上納していた。

「六月」

 前九年、後三年の役で、源頼義、義家父子が天喜四年(一〇五八)奥州征伐の際、炎天下の旧暦六月、野武士の戦いで苦戦を強いられた処で、父子は八幡宮を建て。死者を弔い、村を六月村と改めた。現在は足立区の町名となっている。区内にある「炎天寺」の境内には、一茶の句碑が建てられ 「蝉なくや 六月村の 炎天寺」 と詠んでいる。

 因みに「六月一日」さんという苗字がある。この時期は瓜の実が割れるので、「うりわり」さんと呼ばれる。実際にはいないという。尚、「四月一日さん」は、江戸期衣替えの時期にあたっていた為、「わたぬき」さんと呼ばれる。

「伊興、小作、切欠、給田、笄橋、是政、東雲」

 「伊興(いこう)」は六月と同じく足立区に存在する、鎌倉時代からの古い地名で、奥の方の「井戸、水」を意味、「移古宇」とも書いた。

古い時代の製品や、古人の作品などを「小作(おずく)」というが、地名では羽村市、船橋市にある。個人名では、「こさく」さんとなる。

「切欠」は、きっかけ、きりかきと読ませる。物の一部が切り取られ、欠けている様子を表している。東京都あきる野市にこの地名があるが、個人名になると「きりけつ」さん、全国で二世帯あるという。

「給田」には、きゅうでん、きゅうだ、たいだ、ためだと色々読み方がある。古代は貧民の救済地だとされ、後に家来に職務の報酬として与えた田や畑(地行地)を指し、また、荘園の領主から任された土地を「給田」と呼んだ。京王線の駅名は「飛田給(とびたきゅう)」

「笄橋(こうがいはし)」は、港区富士見坂下の笄川に架かっていた橋で、香具橋、鈎匙橋、国府橋とも書かれる。大正末期、川の埋立てにより消滅。

西武多摩川線に「是政(これまさ)」という駅がある。この名の由来は、北条氏照の家臣、井田是政が小田原の戦いの後、この地で村を開いた事に起因する。

「東運」の語源は、「篠の目(明け方)」からくる。古代の家の窓の明かり取りは、篠竹を材料として作られ、この編まれた網目状の目を篠の目といった。これが転訛して、夜明け前の東の空が、次第に茜色に染まっていく様を「東雲」という。同義語に、あけぼの、あかつきがある。枕草子、「春はあけぼの」の世界である。


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