15 江戸 「数え唄」 の町

番町/赤坂一ッ木町/二丁町/三河台、三ノ輪、三軒茶屋/四日市/

五本木、五日市、五っ目の渡し/六本木、六道の筋/七面坂/

八重州河岸、八ッ辻、八雲/九品仏/麻布十番/十二杜/百間長屋/

千束、洗足/万町、萬橋/深川洲崎十万坪

♪一掛け二掛けて三掛けて 四掛けて五掛けて橋を掛け 橋の欄干手を腰に、 西南戦争で戦死した、西郷隆盛の墓参りの数え唄である。言葉は地方によって多少異なるが内容そのものは一諸である。女の子たちは、この唄を唄いながら、毬つきやお手玉をして遊んだ。

最近は言葉遊びを交えた「一本でも人参、二足でもサンダル」といった風に、大人たちでも、声を大きくして歌いたくなる様な、童謡も流行っている。因みにお江戸日本橋を、数え唄風になぞってみると、一は一石橋、二は日本橋、三は三井越後屋で、四は白木屋、四日市、五っ旅の五街道、六っ室町、七っオランダ長崎屋、八っやっぱり八ッ見の橋で、九っここは石町時の鐘、十でとうとう十軒店、とくる。語呂は悪いが、歩くにはマップを見ながらの手順が必要である。さて、そろそろ江戸の町を一番から手繰って見る事にする。

「番町」

 江戸期は樹木がうっそうとして茂り、古い武家屋敷が連なる地域であっため、「番町七不思議」など怪談も生れた。表札もなく、同じ様な屋敷も並んでいたため、「番町の番町知らず」といわれ、非常に解りにくい土地であった。川柳にも「番町を肴の下がる程尋ね」 早い話が、注文主の屋敷の場所が解らず、桶の中の魚が痛んで商売にならねぇ、と棒振りのお兄さんの、焦りを詠んでいる句である。

 そこで他所から来る者には、麹町の金吾堂や麹町の金麟堂などが、切絵図を出版して好評を得たが、浮世絵などの絵画の類は、番町は絵にならなかったものとみえ、殆どが見いだせない。

 町名の由来は、家康入府の頃にはこの辺り起伏が少なく、甲州道中から仮想敵国が攻めてくるのを防ぐため、番方(武官)の屋敷を配した事による。番方は戦さが始まれば、先陣を受け持つ部隊である。

番町は江戸城の西に位置、牛込御門、市ヶ谷御門、四谷御門の内側、つまり御外曲輪の内側、東西十六町、南北七から八町の地域の汎称である。江戸砂子には、寛永年間(一六二四~四四)直参旗本大番組に与えられた武家屋敷であった。

表、ウラ、袋、新道などが入り組み、大番、書院番、小姓組番、新番、小十人組番の五っで編成された、旗本の戦闘集団の同じ様な屋敷が、約五百軒以上軒を並べ、町屋と称しながら町屋ではなく、いずれも武家地であった。明治二年に消滅、現在は千代田区番町一から六番町がある。

 

「赤坂一ッ木町」

 「一ッ木」は「一木」とも書かれた、昔奥州街道沿いに沿った十地で、麹町台地の角、赤坂溜池の辺りに位置していた。地名の由来は、人馬の引き継ぎをしていた為、古くは「人継村」と呼んだ、また火川神社に一本の銀杏の木があった為、この名がついたとも云う。家康入府の際、伊賀者百四十人の給地とされた土地である。延宝三年(一六七五)氷川神社を勧請した際、神木とされていた銀杏の大木に因んで「一ッ木村」としたと云われるが他説もある。

 日本橋川に架かる橋に「一ッ橋」がある。江戸入府の頃は大きな丸木が、一本かけられていたといわれ、一ッ橋御門が造営され、江戸中期以降は一橋家が屋敷を構え、御門外は護持院ヶ原で、日除地と大名屋敷があった所である。

 また、麻布には「麻布一本松町」があった。寛文年間(一六六一~七三)麻布村から独立して一町となり、そこに一本松とよばれた老松があった為、この名がついたといわれる。

 この松については、天慶二年(九三九)将門が、この地の民家に宿を取った際に、この松の枝に装束を掛けておいたとされる説や、京の宮様が死後、墓印に植えた松だとする説と諸説ある。いずれにしても、明和二年(一七七二)の火事が原因で枯死、現在の松は戦後に植えられたものである。

「二丁町」

 寛永年間(一六二四~四三)堺町に中村座、葺屋町に市村座の櫓が上がり、人形芝居も興行(うたれ)され、この町は二丁町、芝居町と呼ばれていた。また、この辺りには人形を作る店、売る店、修理する店、その職人といった風に、人形に携わる店や人が集まっていた為、「人形町」と俗称で呼ばれていたが、正式に日本橋人形町となるのは、昭和八年になってからである。

 この町の東隣には、「明暦の大火」まで「元吉原」があり、江戸橋を越えると「日本橋魚河岸」が控えていた。朝昼晩に三千両の舞台があった。因みに厳密にいうと、晩の千両は吉原が浅草田圃に移転して、「新吉原」になってからの話である。

 芝居町は「天保の改革」で吉原同様、浅草暮踏町へ移転させられたが、明治に入り水天宮が遷座、明治座が開演されるなどして、江戸の頃の活気を取り戻したが、日本橋に大型店舗が開店するなど、消費構造の変化により、職住接近の町となっている。

「三河台/三ノ輪/三軒茶屋」

「三河台」は、家康故郷に因む三河は江戸にもある。赤坂御門の南、六本木通りの、北側一帯を占める高台の武家地である。この台地の北は赤坂氷川神社で、寛政年間(一七八九~一八〇一)以前は、薬草植付場や馬場などがあった。

「三河町」は、神田橋御門の東にあり、鎌倉河岸から北へ長く伸びていた町で、家康が入府の際、三河の商人たちに土地を与えた所である。

「三ノ輪」は、都内でも珍しい路面電車「都電荒川線」の始発、終着の駅となっており、この駅名は三ノ輪橋、メトロ日比谷線は三ノ輪である。この都電三ノ輪橋辺りに、江戸の頃、鶴の餌やり場があり、「鶴御城」といわれ、狩りの時は観音寺で休息、その折に当地の名産「三河菜」が献上されていたという。古代この地は、海に突き出た岬のような所であり、その形をした「谷戸」のへこんだ所という意味で、「箕輪」の文字もある。日本橋から出発した日光道中は、千住の宿場に出会う中間辺りが「三ノ輪」、この辺りは朝鮮貿易の窓口となった、対馬藩宗家の下屋敷などが立ち並び、北側の三河島は植木職人が集住していた。

「三軒茶屋」は、矢倉沢往還道(大山街道)が、旧道と新道に分岐する地点に、しがらき、田中屋(後の石橋楼には坂本龍馬が訪れている)、角屋の三軒の茶屋があった事による。いやこれは三軒ではなく、遊歴雑記によれば、家数は七、八軒あり酒店、茶屋などが街道の両脇にあったという。現在は世田谷通りと国道246号線(玉川通り)の分岐点にあたる。

「三軒」がつく地名は、この他に「麻布三軒家町」がある。

「四日市」

 日本橋北詰東岸は魚河岸、日本橋川を挟んでその対岸が「四日市」である。ここでは毎月四のつく日に「市」が開かれ、主に野菜や乾魚が売られていた。江戸ではこの他、楓川沿いに作られた「新肴場(新場)」、元からの芝に「雑魚場」があった。

 明暦の大火前の、日本橋川右岸にあった元四日市は、江戸初期相模の曽我小左衛門が、小田原から町屋を移した事から始まる。大火後、万町と共に霊岸島に移転、霊岸島四日市町を起立、跡地は江戸橋広小路として火除け地となった。

延焼防止のため、川沿いに下から石を積み上げ、その上に屋根をのせた、高さ四間、長さ二町の「土手蔵」が造られ、四日市河岸、木更津河岸、花(切り花)河岸がおかれていた。また、ここは「四日市 百八軒の床見世に 数をあわせた珠見世あり」と床見世が多かった。

他に四のつく町には、「四っ木」がある。この由来は、四本の大木があったから、西光寺の聖徳太子像が四本の木から造られていた、頼朝がこの辺を通過した時四っ過ぎであったからとも諸説ある。町田市の四っ木橋は、二本の大木をふたつに割って、四本橋にしたといういわれがある。また、「四軒町」は、雑司ヶ谷鬼子母神の南側に位置、元は伝通院領の百姓地、由来は四軒の町屋があったからだとされている。

 更に赤羽橋から三田通りを、田町方面に行く道筋を、江戸時代は「三田四国町」といった。いかにも言葉遊びのような、町の名前であるが、この由来は、阿波徳島藩蜂須賀家、高知土佐藩山内家、讃岐高松藩生駒家、伊予松山藩松平家などの四国大名の中屋敷や、因幡、薩摩、三河、阿波など、四ヶ国の家臣の屋敷があっためこの名がついたとされる。江戸時代は俗名地名、明治五年に正式地名、同三十九年、芝二から五丁目のそれぞれ一部に編入され消滅している。

「五本木/五日市/五っ目の渡し」

 「五本木」の地名の由来は、上目黒村に「五本木」という組があり、年貢徴収、将軍鷹狩りの準備や手助けをした、共同体(戦時中の隣組のようなもの)があった。この辺りの鎌倉街道沿いに、馬を繋ぐ五本の松の老木があったからだともされる。五本木組の鎮守が、十日森神社というのも面白い。

 「五日市」は、小田原北条の時代以来、五の日に定期的に市が開かれていた。江戸期は多摩郡小宮領で、ここの産物は炭と黄八丈で、炭の取引は慶応元年には年二十万俵に達し、江戸消費の大半を賄っていた。杉並区梅里の馬橋で青梅街道から別れ、西多摩地方の薪や炭を江戸へ送るために利用された「五日市街道」や、五日市と八王子の道筋も五日市街道、五日市往還とも呼ばれていた。

 「五っ目の渡し」は、別称羅漢の渡しといわれた。竪川(本所川)に四っ目まで橋があり、五っ目は寛永年間(一六二四~四三)頃に架けられたが、利用者が少ないのでこれを廃橋とし、舟渡しとなったといわれる。羅漢の名は、瑞聖寺の五百羅漢から起ったもので、浮世絵師歌川国貞はこの渡しの株をもっていたため、号は「五渡亭」と呼ばれていた。

 他に「五反田」は、江戸期の大﨑村検地帳に、「五反田」という地名があり、田圃の面積に由来する地名である。

「六本木/六道の筋」

 六のつく地名には面白い地名が多い。「六郷」(大田区)は、多摩川河口部の北岸に位置するが、このゆわれは ①多摩川上流の六郷の流れが合流して六郷川となった ②下流の八幡塚、古川、雑色などの六郷を総称した名称である ③八幡社が寄進いた十地を当初六供郷と唱えていたが、のちに六郷となった など諸説ある。

「六石坂」(北区)、「六軒堀」(江東区)「六町」(足立区)「六天坂」(新宿区)、「六角坂」(文京区)、「六軒町」(港区)、同じ町名が千代田区、台東区にもある。他には、舟売り女(舟まんじゅう)を乗せていた船頭の土地を、大岡忠相が収公、小間使い領屋敷とした「六人屋敷」(江東区)、他にも同じ江東区に「六万坪町」、築地の西部にも、「六万坪町」があった。

「六本木」は、江戸の頃は、寺や武家屋敷に囲まれた、小さな土地であった。平家の落人たちがこの地で力果て、この地で土となったが、それを悼んで村人建が、五本の木の横に一本の木を植えたのが、地名の由来とされる。また、この辺りには、上杉、朽木、高木、青木、片桐、一柳など、六家の木に因む苗字の武家屋敷があったからだともいわれる。

 また、家康入府以前の日本橋小伝馬町付近は、奥州道中の馬継場で名称は「六本木」、猟師(漁民)たちが住んでいた港区六本木も、小田原北条の時代は東海道の駅であり、日本橋の六本木につながっていた。

 「六道の辻」は、六辻町ともいわれ、神宮外苑の絵画館と、噴水の間辺りにあったとされ、江戸期の俗称地名であり、京の東山区や、仙台、横浜にも同じ地名がある。江戸の名の由来は、四谷、千駄ヶ谷、鮫河橋、権田原、青山御炉路町への往来と、百人組屋敷(青山甲賀町)への小道を合わせて、六筋の道が合わさる所であった事による。因みに、「六道の辻」には、「冥土の入口」という意味もある。/

「七面坂」

麻布十番二丁目の小さな坂で、その由来は、坂の上にあった本善寺の七面天女堂に因むといわれ、また、台東区谷中と西日暮里の御殿坂上からの坂も、側にある延命院の七面杜に因なんで「七面坂」という。

また、他に七に因む町に「池之端七軒町」がある。この町は上野池の端にあった町で、不忍池のほとりにあり、茶屋などが多くあったが、三代家光の時代に、武家方や寺社方と一諸に、町人七人がこの地を買い受けた事によるという。

また、寛永年間(一六二四~四三)の頃、牛込御門外から多聞寺など、七つの寺が移転してきて、その名がついた「七軒寺町」がある。この町は現在の、新宿区弁天町辺りである。他に「七曲り」港区、「七囲坂」新宿区、「七生村」日野市などがある。

「八重洲河岸/八ッ辻/八雲」

「八重洲河岸」は,「和田倉門の外の御堀端をいふ。天正年間(一五七三~九二)以前はこの地、波打ち際にて、猟師者の住家のみなりしとぞ。その後日比谷町といひて肴店多き町屋となりしに、慶長の頃(一五九六~一六一五)ヤンヤウスハチクワンといえる異国人に、この地を賜ふとぞ。その後八重洲(江戸雀)、八重数(江戸名所咄)、弥与三(紫の一本)、冶容子(江戸砂子)、弥養子、(事路合考)とも書くとあれ」(江戸名所図会)

和田倉門、馬場先門、日比谷御門までの俚俗「八重洲河岸」、日比谷入江の海岸線は、家康入府の頃は、江戸の内海の波打ち際であった。慶長六年(一六〇〇)関ヶ原の戦いがあった年、豊後の国、国東半島の根本臼杵湾に、オランダの東インド会社のリーフデ号が漂着、ヤンヨーステンとウイリアムアダムス(三浦按針)の二人が、家康から航海術、砲術などの必要性を認められ、それぞれ江戸に屋敷を与えられ、家康に外交面軍事面から協力した。

その後、日比谷町の住民達は、芝口や八丁堀へ移転、漁民たちは新肴町へ、材木の町は本材木町へ、弥左衛門町は新両替町に移転し、柳町は元吉原の江戸町に吸収されていく。

「八ッ辻」 筋違御門は、江戸城外郭を守る外曲輪のひとつであり、日本橋や神田から、上野方面へ抜ける重要な道路であった。この橋を渡り冠木門をくぐると「八ッ辻」「八ッ小路」「八辻ケ原」と呼ばれた広場にでた。

この広場は明暦、天和の大火の後、火除け地を兼ねた広小路となっており、「筋違の見附の内を云。此広小路へは八方より入ル小路あり」と記され、昌平橋、芋洗坂(淡路坂)、駿河台、三河町筋、連雀町、須田町、柳原土手、筋違御門(御成道、中山道)へというのが「八ッ辻」の理由である。この辻があったのは現在、埼玉県に移転してしまった交通博物館(旧万世橋駅)辺りで、享保六年(一七二一)の定書きによると、開門は卯の刻(午前六時)、閉門は酉の刻(午後六時)であった。

「八雲」は、幾重にも重なり合った雲を指し、「八雲さす」は、出雲にかかる枕詞であり、出雲国を象徴する言葉である。古事記上巻「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに、八重垣作る その八重垣を」と詠んだ、日本初の和歌とされ、素さ鳴尊の古歌が語源とされる。

 目黒区八雲は、江戸時代荏原郡衾村であった為、町名をつける際「衾町」にする予定であったが、衾の字が当用漢字に該当しない為、この和歌を由来とした、八雲学校(現八雲小学校)の名を取って、八雲町としたという経緯がある。

 因みに衾村の鎮守は、氷川神社で祭神は素さ鳴尊、妻は奇稲田姫(くしなだひめ)。神社の前は明治七年に創立された、目黒区立最古の八雲小学校である。

「九品仏」

 東急大井町線九品仏駅を降りると、都会では今時珍しい踏切がある。その踏切を渡って左へ曲がると目指す「九品仏寺」がある。このお寺の正式名称は「九品山唯在念佛院浄真寺」 延宝六年(一六七八)、奥沢城跡に創建された、浄土宗の御寺である。

 九品仏という珍しい名称のそもそもは、仏様を安置してある三仏堂に、それぞれ三体の阿弥陀如来像が安置され、合計九体の阿弥陀様が祀られている。浄土宗においては、極楽浄土の階層は、九つあると考えられ、これらを「九品」と表現、九体の阿弥陀如来が、それぞれの「品」を救ってくれるという、教えからきたものである。

 境内は四季を通して自然に恵まれ、推定樹令八百年余の銀杏は、秋の黄葉を楽しませている。因みに自由ヶ丘はこの沿線でも乗降客の多い駅であるが、開業当時の駅名は「九品仏駅前」であった。

「麻布十番」

 「麻布」は阿佐布、麻生、浅府とも書く。この名の由来は、調布や川崎の麻生と同じく、

この地で麻を栽培、府中に献上していたからだという。「十番」のおこりは、延宝三年(一六七五)、幕府が古川の改修工事をした時、十番目の工区であったとか、元禄十一年(一六九八)白金御殿を建築する際に、一から十番までの土運びの人足が編成され、ここ麻布は十番目にあたっていた事に由来するという。(御府内備考)また、元禄初年に新堀改修工事の時の、傍示杭が残っていたからともいわれる。

 江戸初期の麻布は、鷹狩りの場所であり、起伏が多く雑林が密集していた。この頃は桜田、谷町、六本木、雑色などの七ヶ村を含む地域で、現在の港区よりも広大な地域であり、現在の港区になる前は、赤坂区、芝区、麻布区の三区、麻布区は東は増上寺、西は天現寺、南は白金、北は赤坂に接していた。

「こいつは麻布で気が知れぬ」という川柳があるが、麻布は鷹揚として気の知れぬ、訳の解らない土地柄だという意味で、確かな約束が出来ず、事柄の云い訳に使われるケースが多い。何処ぞに呼びだされ、「記憶に御座いません」とシラをきる面々も、麻布にゆかりのある人間かと云ったら麻布の土地っ子に叱られる。

 この言葉の由来は、他愛もない江戸小咄的な事柄が多いが、①麻布領内には目黒、白金、赤坂、青山と五色の地名があるが、何故か黄色のつく地名がない、つまり黄(気)がない、気が知れぬ、訳が解らない、いい加減であると云う方程式になる。

 また、六阿弥陀仏とともに、江戸っ子に人気のあった五色不動の目黄も、何処か不明で黄(気)が知れぬとなる。更に六本木でも、六本の木が、何処に植えられれているか解らない。そこで駄目押しの「木(気)」が知れぬとなった。

 以上はこじつけか、江戸っ子特有の洒落の産物かになる訳であるが、こういった話が江戸では堂々と、幅をきかせていた。要はそれぞれがそれぞれの頭の中で、納得すれば良かったのである。

現代の様に、一人の評論家がもっともらしい理論、理屈を述べると、多くの一般大衆がそれに倣うのとは違っていた。それぞれがそれぞれの意見、考え方、生き方をもっていた。外されない為の、中間意識を持つ「気」は、なかったのである。

「十二社」

 紀州熊野にある、十二の王子権現を勧請した事による。「杜」を「そう」と呼ぶのは、総社という意味で、十二王子をまとめたという意味をもつ。上州や播州にも同じ地名がある。

 甲州道中と青梅街道が分れる地点が新宿追分、その青梅街道をしばらく進むと、真桑瓜が名物の成子坂にでる。その坂下が幕末になって火薬製造に使われた、大きな水車があった淀橋、そこから神田川沿いに、左へ折れた処が熊野神社である。

室町時代の初期、中野長者が紀州熊野三山から、十二所権現を招き祀ったのが始りとされる。また「十二杜の池」は、中野長者の娘が入水、大蛇に変身したという伝説をもつ。江戸期になって、この池の遊水をもとに、灌漑用水が設けられている。現、西新宿二丁目辺りのこの地は、昔は角筈村と呼ばれた。

「百間長屋」

 水戸徳川家上屋敷(小石川)の、南側にあった表長屋の俗称。ここは寛永六年(一六二九)、藩祖頼房が、総坪数一万坪程を拝領した土地で、頼房は屋敷内の庭園に、神田川の水を引き入れ、その子光圀が父子二代で回遊式の「後楽園」を築いた。この名の由来は、明朝の遺臣朱舜水の意見を聞き、宋の学者范文正の「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」からとったものである。

他に「百」に因んだ地名として、麻布桜田町の俗称地名「百姓町」、昔桜田から移転し百姓地に町屋を作ったのでこの名前がある。目黒川流域の田圃は、北品川宿の「字百反耕地」といい、この傍の坂を「百反坂」と呼んだ。また、江戸初期、家康入府の際警護にあたった、伊賀組の鉄砲百人同心屋敷がおかれた「百人町」は、維新以後払い下げられ、百人組が副業に育てていたツツジも衰退し、宅地化されていった。

「千束/洗足」

 「千束」とは、浅草寺の裏西北地域の、千僧供料の寺領における免田であり、千束の稲が租税から免除された、千僧具が転訛したものが「千束」のいわれのひとつとされるが、江戸期は豊島郡狭田(はけた)領のうちで、浅草寺は千束分の稲田を寺領とした。

 貞享二年(一六八五)頃から町場化が進み、花川戸、浅草材木町辺りを「内千束」と呼び、日本堤外の橋場、今戸、三ノ輪、山谷辺りを「外千束」と呼んでいた。

一方、現大田区の千束には大池があり、水源地として灌漑用水に利用され、仏教用語でいう千僧供料の寺領の免田であったため、稲千束分が免除されていた事による。千束が「洗足」と呼ばれる様になるのは、弘安五年(一二八二)日蓮上人が身延山を降り、湯治のため常陸国へ向かう途中、現在の大田区南千束にある、池上宗申の館に立ち寄り、大池で足を洗った事から、千束が洗足となったといわれる。

上人はこの地で治療のため、二十数日間逗溜したが回復せず入寂、六十一歳。建てられたのが池上本門寺である。幕末になって、海舟と隆盛が、「江戸無血開城」を議論したのがこの御寺である。海舟は没後、品川の海を望んだこの地で、夫人とともに眠っている。

「万町/萬橋」

 「万町」は、日本橋南詰東岸、元四日市町と、通り一丁目新道の間にあった町で、現日本橋一丁目のうち。その由来は、入府の際、小田原から万商いの町人を移転、町を起立したことによる。買物独案内によると、町内には茶、傘、乾物、醤油、線香などを扱う問屋が多く、通町筋にそっていたため、大いに繁盛したという。

 ここからほど近い、東堀留川に架かっていた橋の名が「萬(よろず)橋」。堀江町一から二丁目の間から、新材木町に架かっていた橋で、旧名堺橋、和国橋。和国の由縁は、橋の東詰に餅菓子屋があった事による。この菓子屋のそばに、二十三屋という化粧屋があり、瀬川菊之丞の名を借りた白粉「実路考」を売っていた。今は日本橋小網町辺である。

「深川洲崎十万坪」

 広重の江戸百、第一〇九景の浮世絵は、洲崎の上空から大きな鷹が、羽を拡げて遠く筑波山をにらんでいる。幕府は巨大化する江戸のごみ処理に頭を痛め、明暦元年(一六五五)深川東の永代村を、ごみ廃棄場に指定、寛文二年(一六六二)永代島に、ごみ船が通うようになり、元禄(一六八八~一七〇三)の頃からこれが本格化する。

それでも膨らむ人口の増加により、ごみも増加しまかないきれず、洲崎の三十八万坪余がそれにあてがわれ埋立てられた。もともと深川は上水設備の行き届かない地域であり、特にその海岸地帯にあたる洲崎の地域は、人間が生活する環境ではなかった。ただ、広大な荒れ地の状態が続いたことにより、無法化し犯罪も多く発生、小説「鬼平犯科帳」でも、講談「姐妃のお百」でも、ここが舞台となっている。

反面、洲崎は江戸の海に突き出ていたため、初日の出や月見、汐干狩り、水遊びから舟遊びなど、江戸っ子の行楽スポットになっていたが、寛政三年(一七九一)に大型台風が襲来、高潮で多数の死傷者が出るなどの甚大な被害を被った。

このため幕府は以後、この付近一帯を空地とし、住民の居住を禁止した。また、記憶を風化させないため波除碑を建立、当時の洲崎弁天社は洲崎神社となり、現在も木場六丁目に祀られている。

江戸純情派「チーム江戸」

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