14 庭園都市江戸 「花や樹木」 に因む町
麻布桜田町/浮間ヶ原/亀戸、蒲田梅屋敷/小梅村/杉並善福寺/染井村/
橘町、立花/花園、花畑、花町/堀切菖蒲園/本所菊川/牡丹屋敷/御園村/
向島百花園/桃園/弥生町
江戸端唄にこんなのがある。「柳で世を面白う、うけて暮すが命の葉、梅にしたがい桜になびく、其の日其の日の凬次第、虚言(うそ)も実(まこと)も義理もなし」何とものびのびと、世の中の流れに合わせて、自己の生活を確立している人の様が、みえてくる唄である。
桜を愛した北面の武士、佐藤経清(西行)が詠んだ和歌に「願わくば 花のもとにて 春死なん その如月の望月の頃」がある。一目千本の吉野山の奥山に、西行が結んだ庵がある。反対に「死なば十月中十日」という言葉もある。新暦になおすと十一月頃、天候もいいし、稲の刈り入れも終わって、お悔やみの人々にも迷惑がかからない時期である。
花に対する思い、死に対する思いも人様々である。そこには花が、特に桜に対しての思い入れ、ある意味では荘厳なもの、人間が犯してはならない規律を見るからであろうか。
しかし、現代俳句を確立したと云われる正岡子規はこう言っている「我 神仏を頼まず」
花といえば万葉の頃は「梅」、平安になって古今和歌集には桜がもてはやされた。桜も現代の様に染井吉野ではなく、もっぱら朝日に匂う山桜であった。文政十年(一八二七)に刊行された「江戸名所花暦」は、広重や雪旦の絵になぞられた、江戸の花名所の行楽ガイドブックである。この本は、春は梅、鶯、桜に始まって、夏は蛍に納涼、蓮。秋は萩、月、虫。冬は枯野、松、雪見など四季折々の「花鳥風月」を、四十三項目に分類して紹介している。
「麻布桜田町」
文治五年(一一八九)、頼朝が奥州藤原家討伐にむかう途中、霞山稲荷(霞ヶ関)に神領を与え、田の畔道に目印として植えた桜が育ち、「桜田」と呼ばれる様になったという。慶長七年(一六〇ニ)、この地は御用地として収公され、麻生之原に替地となり、町名を桜田町とした。
「桜田に過ぎたるものが二つあり、火の見半鐘に箕輪の重兵衛」
昭和四十二年消滅。現在は元麻布三、西麻布三、六本木六丁目となっている。
この他に「桜」に因む地名には、「幸橋御門」外の、堀端通りにあった「桜田七ヶ町」、世田谷城の御所桜が由来となっている「桜」、玉川上水沿いの桜並木に由来する「桜上水」、同じく上水の桜堤に因む「桜台」などがある。
広重描く江戸百、第三〇景「外桜田弁慶橋糀町」の左側の赤い門は、近江彦根藩井伊家の上屋敷、現在は憲政会館と国会議事堂の前庭となっているが、万延元年(一八六〇)の「桜田門外の変」は、旧暦三月三日の「桃の節句」、ここから堀沿いに下った堀端で起きた。
半蔵門から右に三宅坂を眺めながら、警視庁から桜田門に下る緩やかな坂は、土手に蓮華や蒲公英(タンポポ)、大根の花を思わせる紫花菜など、四季折々の可愛らしい花々が咲き、この堀端に「桜の井」「柳の井」跡がある。その水面の向こうの石垣は、見事な曲線を描いて江戸城を囲んでいる、江戸城屈指のビュウポイントである。
「浮間ヶ原」
江戸から明治にかけ、浮間で荒川は大きく蛇行、昭和三年、荒川が直線化された際、川の名残として浮間ヶ原が残った。荒川に突き出た浮島にみえた事からこの名がついたという。それまで川の左岸(埼玉県)だった浮間は、左岸(東京都)になり、昭和四十二年、都立浮間公園となっている。現在は北区浮間、南は新河岸川、北は荒川に接している。赤羽から浮間橋を渡った辺り一帯が「浮間ヶ原」で、荒川の左岸(川口市、戸田市)に位置し、かっては桜草の群生地であったが、その後の荒川放水路による改修で、旧岩淵町と陸続きとなり環境が変化し桜草は激減したが、現在ではさいたま市桜区に「田島ヶ原サクラソウ自生地」が健在している。
桜草は湿地帯で群生する多年草で、最近まで道端や河川敷で自生していたが、現在では準絶滅危惧種となっている。江戸中期頃から、武士の間で栽培が盛んとなり、文化文政の頃(一八〇四~ニ九)には、品評会が開かれる程になっている。
日本では三百種余だといわれる品種のうち、その半数が江戸期に品種改良されたものだという。駅路の鈴、墨田の花、駒止、漁火、赤(白)蜻蛉、など粋な名前で出品されていた。因みに外国産の品種をプリムラと呼ぶ。
「亀戸、蒲田梅屋敷」
「江戸名所花暦」の梅の名所第一番が「亀戸梅屋敷」である。この屋敷は、広さ約三千六百坪、三百株余りの梅の木が植栽されていた、清香庵喜右衛の屋敷である。数多い梅の木の中でも際立っていたのが「臥竜梅」とよばれた名木で、高さ一丈(約三m)程であるが、根元が太く枝は地を這い、さながら地上に身をくねらす龍の姿如くであったという。それを目当てに立春の頃、北十間川や竪川を利用して観梅にやってきた。この臥竜梅、名付け親は光国で、数十丈にわたり枝が地中に入ったり出たりしていたと云う。また、吉宗はその姿を生命の循環に例え、「世継の梅」と命名している。
「白雲の 竜をつつむや 梅の花」 嵐雪
清香庵は本所亀戸天満宮より、三丁程東の方にあったが、安政二年(一八五五)の大地震により倒壊、また、臥竜梅も明治四十三年の水害のため枯れてしまった。広重江戸百、第九二景の「亀戸梅屋舗」は、第一二景「大はしあたけの夕立」とならんで傑作のひとつとされ、ゴッホもこの構図にほれこみ模写している。
亀戸は梅と共に「藤の花」でも名をはせ、太鼓橋から眺める、「亀戸天神」境内百株を超す藤の花に、江戸っ子たちはレジャー気分で訪れ、京の雅を思わせる色と香に酔いしれた。藤はマメ科フジ属のつる性落葉木、つるは右巻、左巻がある。花は棚から二十から八十cmまで垂れる。本州や四国、九州の温暖な平地を好み、江戸ではここが随一の名所となっている。
亀戸天神は、九州大宰府天満宮の神官菅原信祐が、天保三年(一八三二)道真ゆかりの「飛梅」の枝で彫刻した天神像を、亀戸村の詞に祀ったのがはじまりとされる。明暦大火以降、幕府から土地をもらい受けた信祐は天満宮を造営、以後江戸っ子達に親しまれてきた。
梅屋敷の臥竜梅の花見と、天神様の参詣と藤の花見の帰りは、中之郷業平橋産の蜆汁と、船橋屋の葛餅が、江戸っ子を待っていた。
もうひとつの「蒲田梅屋敷」は、落語「三文銭」の舞台であるが、ここは江戸の頃、旅人相手に食あたりや暑気当りに効く「和中散」を商っていた、山本久三郎が住んでいた蒲田の屋敷に、梅などを植えたのが始りとされ、それを人々は「蒲田の梅屋敷」と呼んだ。
現在の名称は「聖跡蒲田梅屋敷公園」(蒲田の地名由来については田のつく地名の項に掲載)、尚、昭和二十二年に誕生した大田区は大森区と蒲田区が合併、それぞれ「大」と「田」を仲良く合わせた区名となっている。
「小梅村」
向島小梅村の「向島」は、浅草側からみた向こう地、隅田川左岸一帯を指す俗称であり、寺嶋や牛嶋など、嶋や州を総称する地域であった。江戸時代はこのあたりの総鎮守杜「牛嶋神社」がある牛嶋が向島、その南側源森川の向こうが、本所一帯を指す地名であった。概略的に捉えるならば、小梅村は向島地区で、現在の向島一から三丁目と押上一から二丁目、寺嶋村は東向島となる。
行政的区分になると、本所は江戸時代初期には本所村、元禄期は南北本所町、現在の両国、石原、本所、東駒形の地域は、早くから開かれ町屋が形成され、本所と深川は計画された町で本所町奉行(のち江戸町奉行)の支配地、向島は代官支配と、まだ田圃や畑の世界であった。
牛嶋神社の境内に「小梅稲荷」があり、この辺りは「小梅村」と可愛らしい名前がついていた。広重作江戸百、第九五景「小梅堤」はかっての「本所上水」であり、その後上水の役目を終え灌漑用水として、この辺りの農業用水としての役目を果していた。この絵の左手は水戸徳川家の下屋敷(小梅屋敷)、現在の隅田公園となっている。
小梅村の由来は、三囲神社創建時に、弘法大師が御神体を彫っている間に、酒器の中に梅の実が入り、それがこの牛嶋の地に根付いたからだとされる。天正日記には「小ムメ」、地元の古老たちは「こんめ」と呼んでいたが、正保年間(一六四四~四七)には「小梅村」が定着した。
「杉並善福寺」
文政九年(一八二六)の書物によると「善福寺、万福寺として二寺があったが、池の水があふれて、堂宇が破損され修復されなかった」とされる。現在の御寺は「曹洞宗福寺院山善福寺」本尊は阿弥陀如来立像、この善福寺境内にある「遅野井の滝」を源流とする善福寺川は総延長十一,三㌔、荒川水系神田川注ぐ一級河川である。現在の中野区弥生町と杉並区和田の間をながれている。江戸期には天保の飢饉を契機に、灌漑用水として新堀用水が造られ大正時代まで運用されていた。
蓮は不忍池と水元公園、善福寺池が名所であり、インド原産の多年生の水生植物で、地下茎を蓮根(はすね)といい、同じ仲間に睡蓮がある。蓮の花と睡蓮の花を指して「蓮華」。この形は仏像の台座に使われ、仏教では西方浄土の極楽は、神聖な蓮の池と信じられているためである。インド、スリランカ、ベトナム等、仏教国では国花となっている。
日本では古代ハスが話題となり、弥生時代後期の種子が開いた「大賀ハス」 中尊寺金色堂須弥檀から発見された「中尊寺ハス」 およそ一世紀から三世紀前の種子が発芽した「行田ハス」などがある。日本での古名は「はちす」、花理の形状が蜂の巣に似ているためで、「はす」はその転訛である。水芙蓉、不語仏、水の花などの異称がある。
「染井村」
染飯、蘇迷とも記された「染井村」は、江戸期幕府の庇護のもと、江戸における最大の花卉や樹木の栽培地、供給地となった。地名の由来はこの村の辺りに、「染井」とよばれた井戸があったからだと云われている。(江戸名所図会)
寛永十八年(一六四一)は武州豊嶋之郡染井村、元禄年間(一六八八~一七〇四)には、駒込村枝郷染井村と称された。尚、「ソメイヨシノ」は、エドヒガンサクラを父撞として、オオシマサクラを母種として交配されたものであるが、染井の植木職人が人工交配をしたものか、自然交配か、あるいは何処かで自生したのかは定かでない。
「橘町/立花」
「橘町」は常盤橋御門から、浅草橋御門へ向かう本町通りの南側に位置、築地本願寺が明暦の大火以前、「浅草御坊」と呼ばれ、浅草横山町にあった頃の門前町である。タチバナを売る家が多く立花町としたが、後に橘町とした経緯がある。「寛文江戸図」では、松平越前守の屋敷地、天和年間(一六八一~八三)頃は町屋となっている。
墨田区「立花」は、町内にある吾嬬神社の祭神の弟橘媛、その「橘」の字をやさしくして地名とした。また、「嬬」の字が、妻でなく側室的な意味あいがある為ともいわれるが、地元小学校は吾嬬小学校、「吾妻橋」は吾嬬神社への参道にあたるため、この名が命名された。
因みに小学校唱歌でお馴染みの、「こいのぼり」に登場してくる橘という木は、ミカン科の常緑小高木で、柑橘類の一種、四姓(源平藤橘)のひとつであり、花は文様や家紋のデザインにも多く使用され、江戸時代は井伊家や黒田家などが使用、藤紋、片喰(かたばみ)紋、葛紋と共に、江戸十大家紋のひとつになっている。
「花畑/花園/花町」
「花畑」の「花」は、山や丘が突出した所を指し、「畑」は又、俣が変化した字を指す。花畑は綾瀬川など、みっつの川の俣(合流点)に発達した町で、南北朝時代の正平七年(一三五二)の古文書に、「武蔵国足立郡花俣郷」として登場、古くは「ハナマタ」と呼ばれていた。江戸の頃は、幕府直轄領で石高千三百石の「花又村」。現在の花畑七丁目には。酉の市がたつ大鷲神社が祀られている。
「花園」は、三光院稲荷とも華園稲荷とも呼ばれ、そのいわれは尾張家の女中、花園が信仰した稲荷であるからとも、吉野(花の園)から勧請されたからとも、この稲荷の社地が、尾張藩下屋敷の花畑であったからと諸説ある。甲州道中、新宿追分の側にあり、ここも毎年酉の市がたつ。
「花町」は神田旅籠町一から二丁目にあった町屋で、「門跡前花町」ともいわれた。ここは東本願寺の門前町で、香花の商いをしていた事からこの名がついたといわれる。明暦の大火で本所に代地を貰い、貞享元年(一六八四)再び収公されたが、代替地がなかった為、金、一五四両余りで退転、元禄六年(一六九三)本所竪川辺に移り、「本所花町」を唱えるようになった。この町名は元禄期から昭和五年まで存続、現在は墨田区緑四丁目辺りとなっている。
「堀切菖蒲園」
美人を例える言葉に「いずれ菖蒲か杜若」という表現があるが、こういう表現もある。「たてば芍薬 すわれば牡丹 歩く姿は百合の花」 いずれにも今回の主役、花菖蒲は出てこない。
葛飾郡堀切村はもともと綾瀬川東岸に沿った低湿地で、花菖蒲の栽培に適した地であった。地名の由来については不明であるが、ある時期に城がありこの事から「堀切」と名付けられたともいわれる。江戸期は葛飾郡西葛西領のうちで幕府領、助郷は日光道中、千住宿と水戸桜道、新宿。
この設立話には二説あり、 ①室町時代に堀切村の地頭が家来に命じ、陸奥の国郡山辺から花菖蒲を取り寄せ栽培した ②文化年間(一八〇四~一七)、堀切村の小高伊左衛門が切花用にいろいろな品種を集収し、自邸の庭に植えたのが始りとされる。伊左衛門は二代にわたって菖蒲園を育てあげ、天保年間(一八三〇~四三)には江戸っ子の行楽スポットとなり、名園と評される様になっていった。
「アヤメ」と「ショウブ」は、漢字で書くとどちらも「菖蒲」と書く。花菖蒲は野生のノアヤメが原種でアヤメ科の植物。端午の節句に入る菖蒲湯はサトイモ科、花菖蒲はアヤメ科に入る為、やはり美人の流れを汲んだ花となる。
これらの花々紛らわしいので、花の形状から少し分類してみると、「花菖蒲(ハナショ+ウブ)」は、花弁の根元の処に黄色い目の模様があり、茎は菖蒲に似ている。「菖蒲(アヤメ)」は、花弁の根元の処に網目状の模様があり、細い葉が縦にならび文目(あやめ)模様となっている。また「杜若(カキツバタ)」は、花弁の元は白い目型の模様があり、衣の染料などに使われた事から「書付花」とも書く。
「時鳥 なくや五尺の あやめ草」 芭蕉
堀切菖蒲園は現在、葛飾区立の公園となっており、二百種六千株余、五月下旬から六月上旬の花の見頃時期は、今も都内人気のスポットである。
「本所菊川」
新大橋通りと三つ目通りが交差する処であり、現在の菊川三丁目に、鬼平でお馴染みの長谷川平蔵宣以が、明和元年(一七六四)頃居住、のちに北町奉行遠山金四郎景元の下屋敷となっている。本所での平蔵は「本所の銕」と呼ばれ、放蕩のかぎりをつくしたといわれている。
江戸期は本所南横堀と呼ばれ、紅葉山大掃除之者の拝領屋敷があったが、天和三年(一六八三)青山に代地を与えられ、こちらは青山六軒町となっている。元禄九年(一六九六)町屋となり、側を流れていた小さな「菊川」に因み町名とした。
「牡丹屋敷」
牛込玉咲町(現神楽坂一丁目)にあった、「牡丹屋敷」は八代吉宗の頃、紀州出身の岡本彦右衛門がここへ屋敷を拝領、牡丹の花を栽培して、将軍に献上した事に始まる。宝暦年間(一七五一~六三)に、家伝の「熱湯散」を作っていたが、咎めをうけて居地収公となり、宝暦十二年、土地は三分割され、御年寄飛鳥井、同花園、御表使三坂に下される。明治の頃は牛込玉咲町を名乗っていた。
深川の「牡丹町」は、江戸期に埋め立てられた、大島川の南の地域で、天明年間(一七八一~八九)築造された、阿波徳島藩の別邸「雀林荘」があり、江戸名園のひとつとなっていた。町名の由来は、付近に牡丹を栽培する農家が多かった事による。
牡丹と芍薬は両方ともボタン科の植物、牡丹は落葉低木の木であるが、芍薬は球根から多くの茎がでる多年草である。またその呼び方も牡丹は「花王、花神」といかにも風格があるが、芍薬の方は「花相」、「相」とは古代中国の皇帝を補佐し、行政の最高責任者、宰相、相国を意味する。牡丹が王なら、芍薬は№2となる。
「御園村」
荏原郡六郷村のうちで、多摩川河口の北側にあった村で、花園があったため、この名が生まれた。村の北から東へ呑川と六郷用水が流れていた。幕府領、村高は一八六石余であったが、元禄検地の頃は、音羽護国寺、芝増上寺御霊屋、浅草大護院など、三寺院の入会地となっている。
「向島百花園」
天明年間(一七八一~八八)奥州仙台から来て、江戸日本橋の住吉町に骨董屋を開いていた平八は、改名して北野屋平衛、略して「北平」といった。この北平、浅草側から見ると臥牛に似ていた処からこの名がついた牛嶋のあたり、言いかえると、待乳の渡しといわれた「竹屋の渡し(言問橋辺り)」を渡った辺りの、本所中之郷村に隠棲した。更に名を菊屋宇兵衛と改名、「菊宇」は「菊塢」即ち、「川っぷちの土手」を意味する。三千坪程の元武家屋敷を買い求め庭園を造る事になる。
加藤千蔭、大田南畝、大窪詩仏、川上不白等の紹介で、諸大名に骨董品を売買するかたわら造園にも力を注ぎ、文化人たちに一株の梅の株を頼んだ処、三六〇本もの株が集まった。詩仏、蜀山人、千蔭などは毎日のように訪れては、勝手な事をいいながら、これまた勝手に風変わりな野趣あふれる庭園を造り上げていった。時代は文化文政(一八〇四~二九)江戸町民文化が、最も花ひらいた頃である。
蜀山人は「花屋敷」の看板を揚げ、詩仏は左右の柱に「春夏秋冬花不断 東西南北客争来」と御得意の漢詩を書き、千蔭は「お茶きこしめせ 梅子もさぶらうぞ」と書いた掛け行燈をぶら下げた。こういった次第で、たちまちのうちに江戸っ子たちの口端にのぼり、江戸から程良い距離の植物園に人気が集まった。
菊塢は天保二(一八三一)七〇歳で病没。時世の句は「隅田川 梅のもとに我死なば 春咲く花の こやしともなれ」 といかにも風流を愛した菊塢らしい歌である。この歌は勿論、西行の「願わくば 花のもとにて春死なん」をパロディ化したものである。
現在でも七百余株の草花が所狭しと植えられ、なかでも秋になると宮城野、筑波の萩のトンネルや、「紫の ゆかりやすみれ 江戸うまれ」 などの三十基もの句碑は訪れた人々をもてなしている。明治四四年、大洪水で押し流され、昭和十三年東京都に寄進。戦時中は畑や防空壕になっていたが、昭和二十年、三月十〇日の東京大空襲では一面の焼け野原となってしまった。
戦後昭和二十四年、復興された庭園には、梅雨時になると鎌倉の明月院や長谷寺と並んで、紫陽花も見事に花を咲かせる。梅雨時にさし木によって繁殖するこの花は、花の色が変わる事から、八仙花、七変化ともいわれ、万葉集では「味狭藍」「集真藍」とも書かれ、これが転訛した「あづさい」が語源だといわれる。また、植物学者や愛妻家でも知られたシーボルトは、紫陽花の新種に自分の妻の「おタキさん」の名をつけ「オタクサ」としている。
「桃園」
江戸期は多摩郡野方領のうちで、江戸幕府の犬小屋があった町である。現在の中野区中野、野方、新井、杉並区高円寺辺りとなる。当初は喜多見や大久保に犬小屋が作られたが、次第に野犬が増加したため、四谷と中野村に増設、延べ十六万坪、収容犬数三万九千匹余の規模に及んだ。この犬小屋は、中野御用屋敷、中野御囲と呼ばれ、宝永六年(一七〇九)まで続く。
享保年間(一七一六~三五)高円寺、桃園観音堂から桃の木を移植、八代吉宗が「桃園」と命名、約六万七千坪の江戸市民の憩いの場所となったが、後にウズラの狩り場となり、樹木は次第に枯れ消滅している。
桃はバラ科モモ属、原産は中国で薬用として珍重された。英名はピーチ。花は三月下旬から四月上旬が見頃、一般的には桜より早く咲き、夏に実がなり、七mまで成長するものもある。江戸期は鑑賞用として栽培され、その名の由来は、沢山の実がなる為「百=モモ」、実が赤い事から「燃え実=モエミ」など諸説ある。また、よく世間に知られている果実を「真実」というが、この「マミ」が転訛してモモになったという説もある。春まだ浅き頃、中央本線に乗ると、甲府の手前辺りから、南アルプスの白い頂きを背景に、淡い桃の花が咲き乱れ、まさに「桃源郷」の世界が展開する。
「弥生町」
文京区東大の東側に「弥生町」という小さな町がある。江戸期は水戸家と安志藩の屋敷がおかれ、地名の由来は、忍ヶ岡(上野の山)の桜が好きであった水戸家の昭武が、土地に伝わる「向ヶ岡」の桜の歌からとり、桜は三月に咲く、三月は暦の上で「弥生」という方程式を導き「弥生町」と名付けた。
ここには幕末、日本の行方に大きな影響を及ぼした水戸学の祖、朱舜水の碑がある。朱舜水は、光圀が最も信頼をよせた、中国、明から亡命した儒学者である。また、明治二十七年、東大構内貝塚で新しい形式の土器が発見され、この土地の当時の地名「本郷区向ヶ岡弥生町」と、三月に発見された事から「弥生式土器」と命名された。
他に植物に関連した地名に、元和六年(一六二〇)江戸城内堀に架けられた橋が、竹を編んで渡したものであった事に因む「竹橋」がある。「竹橋御門」は見附のひとつで、清水濠東側にあたる内郭門である。古くは在竹橋、すの子門、柳内方之通行門ともいった。家康の孫、秀忠の娘、秀頼の妻であった、千姫の吉田御殿はこの中にあった。その先は北の丸である。現在町名はなく、メトロの駅名にとどまる。
また、竹に因む地名として、「東雲=篠の目」がある。篠竹を材料として作られた明かりとり(照明器具)を意味、転じて夜明け前の薄明から、夜明けに至る曙の意味合いをもつ地名で、あけぼのになると「春はあけぼの」から「晴海」となる。
他に多摩川と平井村とに挟まれた、現、秋川市に漆や綿花、和紙の原材料となる楮(こうぞ)などを栽培していた「草花村」、 信濃の国真田信之からの松代藩の下屋敷があった
深川に、常緑樹松に因む「常盤町」がある。
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