13「動物たち」に因む江戸の町

飯倉狸穴/亥ノ堀/犬喰名/牛込、駒込/神田雉子町/狐坂、狸坂/庚申坂/巣鴨/

冨(鳶)沢町/虎ノ門/鳥越/初音馬場、高田馬場、采女が原/猫実/

練馬、馬込、馬橋/目白台

<飯倉狸穴>日本語のマミとはアナグマの事で、漢字では真猫と書く。アナグマを狸とあてがった結果、マミアナが「狸穴」となった。マミとは雌狸ともイタチとも言われるが、動物学上は穴熊である。狸穴は元麻布、飯倉の両方にまたがっていた地名である。寛文2年(1662)飯倉十ヶ町のひとつ、飯倉狸穴町として起立、町名の由来は、この辺りは木立が生い茂る谷に臨む地で、この様な動物が生息する土地である事から、この名称で呼ばれたとも、(御府内備考) また一方、荻生徂徠はマミを、鉱石を採掘する為の坑道=間府と解釈、享保六年(1721)頃、この辺りで砂金が採れたため、マミアナの地名の由来だとする説もあるが、いずれかは不明である。また、狸穴坂は現在のロシア大使館の西側を、南に下る坂であるが、江戸砂子では「雌狸穴、長坂のひがしなり、これも坂なれどもただ狸穴とばかり云いて坂といわず。(中略)或いは上古銅の出てし、まぶ穴という説がありいかが」と説明している。また、狸穴下に「狸蕎麦(作兵衛蕎麦)」と呼ばれる、名代の店があった。ここの蕎麦、蕎麦殻を粉に混ぜて打っている為、少々色が黒いが香りがいい。主の作兵衛さん、江戸城大奥を荒らしまわったという、古狸が討ちとられたと聞き、その古狸の霊を自分の屋敷内に社を建て慰めたといわれる。この経緯から店名がつけられたという。狸穴坂下に古狸の住む洞穴があったとされ、この辺りの話が町名の由来としては頷ける。

<亥ノ堀>元禄8年(1695)亥の年に完成した掘割。深川を流れる「大横川」の別称であり、かっては大島川、昭和39年の河川法の改正により大横川となっている。北は「竪川」西は「大川」に囲まれた十万坪という埋立地に流れていた掘割である。明治以降、はしけが行き交うほどの興隆をみせたが、昭和20年代以降、工場用水くみ上げによる地盤沈下の為ゼロm地帯となり、橋桁が相対的に沈下、航行不能となった。現在は深川不動あたりから、スカイツリーの北十間堀まで親水公園となっている。

<犬喰名>江戸の街を御犬様が闊歩していた時代があったが、犬の文字がついた地名は意外と少ない。江戸っ子たちがあの嫌な時代を思い出したくないからであろうか。鎌倉時代、豊島郡豊島荘園にあった地名で、「いぬかむみょう」と読ませる。「犬」は「大」の誤りで、大喰町だとする説もある。足立区や埼玉県川口市にある。また、昔、将軍家が狩りに出かけた際狩猟の犬に咬みつかれ、それで野犬を継ぎとめた「犬坂」はあの犬小屋があった中野村にあったが今は無い。尚、水が湧く裂け目を「井ノ目」というがこれが転訛した「犬目」、この犬目村は八王子を流れる谷戸川と、川口川が合流していた処で、江戸期の犬目村には「井戸尻」という小名があった。

<牛込/駒込>新編武蔵によれば「牛込、駒込と云うもみな牧(場)ありし所とみゆ、込は和字にて多く集まる意なり。爰も牛の多く居りし所なれば名づけし」この町の由来は、牧場があり、牛馬の飼育が行われ、牛、馬が込む=多く集まる処からきている。「牛込」は、天正18年(1690)秀吉が発した禁制には「武蔵国ゑはらの郡、ゑとの内、うしこめ七ヶ村あり」とされ、七ヶ村とは大久保、戸塚、高田、早稲田、中里、和田、戸山の各村。現在の市ヶ谷、神楽坂、百人町辺りの山の手台地で、谷地では町場が発展した地域であり、江戸期には納戸町、払方町、細工町など、牛込を冠した江戸公務員の役職に由来した町が多く存在していた。田安門から清水門までの間の掘割を「牛ヶ淵」という。昔、九段坂から牛が荷物を積んだ車と共に堀に落ちたから、この名がついたとされるが、江戸城からみて「丑」の方角にあたる為、(その北方が牛込)などの説があり、麹町区史によれば、淵の形状が牛に似ているに因むとしている。また、「牛込見附」は三十六見附のひとつで、牛込台地(現在の新宿区東部)方面の守りを固めていた。また、<駒込>の地名の由来は古く,砂子によれば日本武尊が東征の際、味方の軍勢をみて「駒込めたり」と云った事からこの名がついたと云う説、野原に駒(馬)が群がっていた、また、古代に高麗人が多く住んでおり「高麗籠(こまごめ)」が転訛してできた地名であるなど諸説ある。江戸期から昭和41年まで<駒込>を冠した町名には、中山道と日光御成道の分岐点にあった「駒込追分町」、元は駒込宿と称されていた「駒込片町」、伝通院の百姓地であった「駒込富士前町」、町名が神明社(現在の天祖神社)による「駒込神明社」、千駄木町の団子坂に位置する「駒込千駄木坂下町」、四つの寺院があった「駒込四軒寺町」、家作が七軒あった「駒込七軒町」などバライティに富んでいる。

<神田雉子町>日本の国鳥は雉、雄はケンケンと鳴く。朝鮮の雄鳥は大きな綺麗な声でチョコホイ、チョコホイと鳴く。慶長12年(1607)朝鮮使節団が来日、朝鮮の雉を持参この地に小屋を造ったのが地名の由来だとされる。「慶長見聞録」には「唐国帝王より数百人の使い江戸へ来たり。是やをもてなし給うには、雉子にまさる好物なしとして、諸国より雉鳥を求め、鳥屋を作り入置ぬ。そのほとりの橋を、雉子橋と名付けたり」としている。雉子町は現在の神田司町にあたり「雉子橋門」が、平川濠と牛が淵を結び現日本橋川をまたいている。本丸に近い事もあって警備体制が厳しく「雉子橋で けんもほろろに 叱られる」という川柳まで詠まれている。この町の名主は「江戸名所図絵」を幸雄、幸孝、幸成(月笒)の三代にわたって編纂した斉藤家である。江戸名所図絵は天保5年(1834)7年に刊行された、全七巻、二十冊、一〇八項目、町絵師長谷川雪旦の一二四図の絵も加わり、上梓されるまで30余年の歳月を費やした、江戸一級の地誌となっている。

<狐坂/狸坂><狐坂>は元麻布三丁目にある坂で、狐の名があるが、駿馬の産地サウジアラビア大使館から東へ<狸坂。の方に下る坂で、長さは約170m、高低差11m、平均勾配37度の急な坂である。麻布区史によると「狐坂、麻布宮村町十番地、長玄寺前の坂、大隅坂と称す。この辺りは狐の縄張りで古狐が毎夜化けたという」大正初期頃まではこの辺は藪下とよばれ、非常に寂しい所であったという。毎晩、古狸と化け比べを競っていたものと思われる。狸は普通のおじさんに化けるが、狐は何故か若くて美人の女性に化けたがる。狐が持っているイメージからか、狐そのものの「希望的願望」がそうさせるのであろうか、定かではない。<狸坂>は元麻布二と三丁目の間の坂、別称「まみ坂、旭坂、切通坂」と呼ぶ。これも麻布区史によると「狸坂は暗闇坂の南、一本松町との境をなす坂で、昔古狸が出没よく人をだましたという」またこの近くに大きな榎があり、この洞穴に狸の親子が住んでいたという。

<庚申坂>庚申は千支の「庚(かのえ)」と「申(さる)」が、組み合わさってできた言葉で、「千支」はそれぞれの人や物事に影響を与えるといわれ、室町時代に中国から渡来、中国の道教と日本の民間信仰が重なり出来たものとされる。江戸の頃は「庚申講」が流行り、60日毎にやってくる庚申の夜、各人の体内にいる「三尸(さんし)」という虫が、眠っている間に体から抜け出し、天の神様にその人間の悪事を報告するという、性格の悪い虫がいると信じられ、その夜は眠らず、夜っぴいて明かすという慣習があった。逆にいえばその虫のせいにし、飲む口実を作っていたのである。いつの世にも「飲ん兵衛」は、いろいろ飲む為の口実を考えるものである。猿は庚申の使いとされ、「見猿、云わ猿、聞か猿」の三猿が、庚申塚に祀られている事が多かった。この坂の下に庚申塚があったため、この名がついたとされる。文京区小日向一丁目と、春日二丁目の間の境を上る石段坂が「庚申坂」で、「切支丹坂」とも呼ばれた。寛永14年(1637)に起きた「島原の乱」鎮圧後の正保3年(1646)に、宗門改奉行井上政重の下屋敷を、改修して造られた屋敷が切支丹屋敷、山屋敷とも呼ばれた。江戸時代も後半になると隠れキリシタンの存在もうすれ、屋敷も廃絶された。また、坂の下の小川の橋は「獄門橋」と呼ばれていたが、この屋敷に由来したものかは解らない。

<巣鴨>ここはおばあちゃんの原宿、とげぬき地蔵がある「巣鴨」である。JR、都営のそれぞれの駅を下り、暫く歩くと巣鴨地蔵商店街の入口となる。この通りは旧中山道、板橋へと続く道であり、両側には幸せを約束する、赤い衣類や土産物を売る店が並び、マックにはシルバーシートがあるという、お年寄りおもてなしの町である。巣鴨は「州鴨」「須賀茂」「須賀母」とも書いたが、江戸中期からの表記では「菅面」「官茂」で、由縁は石神井川流域で「菅(すが)」が生い茂っていた事による。また。鴨が群れ住んでいたとも、近くの石神井川の州に向き合った処で、「州処面」が転訛したともいわれるが、いずれも定かではない。江戸期は、武蔵国豊島郡の東部を占める町で奉行地支配、中山道沿いに町屋が形成され、延享2年(1745)に巣鴨町が起立、北部には御菜園が作られ、大根や蕪などが栽培された事から、江戸時代を通し「大根原」と呼ばれ、菊人形でも知られていた。3丁目にとげぬき地蔵の「高台寺」、5丁目には北町奉行遠山金四郎の墓がある「本妙寺」、更に行くと都電荒川線の踏切となり、側が「巣鴨庚申塚」の駅である。また明治20年以降は、謹慎生活からとけた十五代慶喜が28年ぶりに帰京、巣鴨で生活を始めた。そこで町の名は水戸に因んで「梅林町」、巣鴨の人々はケイキさんの梅屋敷と呼んでいた。

<富(鳶)沢町>慶長年間(1596~1614)盗賊の頭であった鳶沢某が召し取られ、家康に盗賊取り締まりに協力する事を条件に助命され、生計をたてる為、古着屋の元締を命じられた。家康にしてみれば、古着を扱わせる事によって、盗品かどうか見極めさせ、そこから盗賊を洗いだそうとする目論みがあった。これが「鳶沢町」の始まりで、後に縁起をかついで、葭原が吉原になったように「富沢町」となった。現在、人形町の北東側に位置する町で問屋街の一画をなしている。

<虎ノ門>虎ノ門一帯は麻布の台地と愛宕山に囲まれた低地であり、西(窪)久保と呼ばれていた。御門は三十六見附のひとつで、四神相応の西を守護する白虎から虎ノ門と呼ばれる。門外には丸亀藩京極家が国元から勧進した「金比羅宮」があり、有馬家の「水天宮」と江戸民間信仰の双壁をなしていた。慶長19年(1614)と寛永13年(1636)に、肥前国佐賀藩鍋島家が改築、改修を行なっている。江戸時代における地名の由来は、①千里の道を行っても、千里の道を帰ってくる虎の縁起をかついだ説 ②朝鮮からきた虎の檻が大きく、門を大きくした経緯から ③この門の近くに「虎ノ尾」とよばれた桜の名木があったが、虎の尾が切られ虎ノ門となった ④四神説によると、大手門が(朱雀)南に対し、ここは北(白虎)にあたるためこの名がついた、など諸説ある。明治6年撤去され俗名として残されたが、昭和24年から公式の町名となり、現在は新橋に近くオフィス街となっている。

<鳥越>この地にある鳥越神社はかっては白鳥神社、白稚2年(651)創建、日本武尊は死んで白鳥となって、大和の平和を守るため飛び立っていったという。(古事記)また、鳥越の名は「前九年の役」により、奥州征伐のため陸奥に赴いた八幡太郎義家が、この辺りで海を渡る鳥に導かれ、無事内海を越える事が出来たという伝説に因むとされる。北国紀行には、「角田川のほとり 鳥越といえる海村あり」と記されている。江戸時代初期、鳥越神社のあるこの辺りは小高い丘陵地であった。そのため神社周辺の土は、普請工事に伴う湿地の埋立てに充てがわれ、この辺りの住民は浅草、山谷辺りに代地を与えられ、残る跡地は「浅草元鳥越町」と呼ばれていた。

<初音馬場/高田馬場/采女が原>

 「馬場」とは、旗本など幕臣の流鏑馬、乗場の訓練や、弓などの武芸の鍛練場として使われ処で、火事の多い江戸では「火除け地」としての役割も担った。今回取り上げた馬場のほかにも、府内には沢山の馬場があった。寛永12年(1635)馬場先門内の馬場で、朝鮮使節団がここで曲馬を披露した事から名づけられた「朝鮮馬場」をはじめ、国会議事堂西側にあった「永田馬場」、御成門外にあった「愛宕下馬場」、赤坂葵町の「溜池馬場」 靖国神社参道際の「三番町馬場」、湯島にあった「桜の馬場」 他に「小石川馬場」「一の橋馬場」などがあった。初音森神社由緒書によれば、「初音馬場」は天文20年(1551)社前に馬場が出来、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの時、家康が馬揃え(閲兵式)を行い、愛馬三ヶ月号に乗り出発したとある。入府後、浅草御門の建設により境内は半分となり、更に明暦の大火によって常盤橋から郡代屋敷が移転、公儀御用地となり更に縮小され、幕末の頃には名を残すだけの広場になっていた。また、神社も当時の下総国葛飾郡南本庄(墨田区千歳町)に遷宮している。幕末安政年間(1854~59)広重描く江戸百、第九景「馬喰町初音の馬場」は、火除け地としての馬場が描かれ、馬場の東側から南西方向を見た図となっている。ここに登場する染物屋は馬場の東南側に、高さ三丈二尺≒10mの火の見櫓は南西側にあった。遠景に浅草御門、その左手が柳原土手となる。町方の火消しが使う半鐘は櫓の左側にひとつ、因みに火事が鎮火すると「ジャン」とひとつだけ鳴らした。失敗を意味する「オジャン」はここからきた。高田という地名の由来は、家康側室で六男忠輝、七男松千代を産んだ茶阿局(高田殿)が、当地を庭園として拝領した事による。この町の範囲は現在の新宿、文京、豊島、中野の各区にまたがっていた。

 <高田馬場>は寛永13年(1636)三代家光が弓馬訓練施設として設営した、南北約55m×東西655mの細長い馬場である。現在の早稲田通りと茶屋通りの間にあった。江戸後期になると武芸訓練所としてよりも、句会や月見など、趣味的な行事に使用され、現在の茶屋通りはその名残である。「江戸名所図会」には、頼朝が馬揃えをした所とか、信玄が小田原北条との闘いに際し、ここで馬を調教したとも記されているが、何といってもこの地を一躍メジャーにしたのは、元禄7年(1694)堀部(当時中山)安兵衛が助太刀をした、高田馬場の決闘である。<采女が原>は数寄屋橋御門の南方、木挽町四丁目の東にあった馬場であるが、享保9年(1724)頃まで、伊予今治藩35万石松平采女正の屋敷があった事による。屋敷内には名水「采女の井戸」もあり、側を流れるのが築地川で、架かる橋を「采女橋」といった。この橋別称「矢の橋」「二の橋」とも呼ばれ、銀座より木挽橋(一の橋)を渡ると、間もなくこの橋に出会う事にこの名がある。火事によって上げ地となり、同12年現在の歌舞伎座側が馬場となり、空き地には莚掛けの見世物小屋や大道芸人、飲食店などが集まり、安政年間(1854~59)の頃には、大歓楽街となり、江戸城が近い割には辻君なども出没した。采女が原に訪れていたのは辻君だけではない。当時としては珍しい動物たちがこの地を訪れた。享保年間(1716~35)には象が、文政年間(1818~29)には、駱駝が見せ物となった。また寛政10年(1798)には、江戸湾に鯨が迷い込み、捕えられた鯨は御浜御殿で十一代家斉に御目通り、庶民の見せ物となった。洲崎の漁民達がその鯨を供養した「鯨塚」が、洲崎神社の境内にある。

<猫実>浦安は昔から津波の多い地域で、鎌倉時代、宝受神杜もその被害を受けた為、周りに堤防を築き松の木を植えたりして、そこから波が越さぬ様対策を講じた。「根を越さぬ」から「猫実」の名がついたといわれる。広重は江戸百、第一一五景「堀江ねこざね」で、水量豊かな浦安の村を描いている。現在の十九町名のうち、古くから存続している町名は、堀江、当代島とこの猫実、他は全て有水面からの埋立て地である。このように町全体が低地にあるため、昭和24年に日本を襲ったキティ台風18号は死者135人に及んだ。これらの被害により、長年続いた「行徳の塩田」は決定的打撃を受け、廃業に至った。

 

<練馬/馬込/馬橋>練馬の地名を全国版にしたのは大根である。この名の由来は馬を集め訓練したことから「ねりうま」から練馬、またこの辺りは関東ローム層の地形の為、赤土を練った所、練り場が練馬に転訛したとされる。更にこの地がまだ沼沢地であった頃、根沼が練馬に転訛したなど諸説がある。因みに練馬区は昭和22年板橋区から独立、東京都は23区となっている。<馬込>は駒込、馬籠とも書いた。江戸期の本や文章は、「馬」を「むま」と表記している書が多い。一般に「まごめ」とか「まごと」とは狭い道路を越えるという意味に使われ、高低差が激しい処を指す場合が多く、俗に「九十九谷」「十三谷」とよばれる、狭い山道が多かったという。(大田区史) 馬込という地名の由来は、古代の牧場があったとか、鎌倉時代の武将梶原景時の愛馬「摺墨」がここで生まれたとか諸説ある。名前からして、毛並みが漆黒で精悍な馬であった様子が伺われる。一方、青梅街道から五日市街道へと分かれる、起点の地追分が「馬橋」であり、このふたつの街道の機能を結ぶのが「馬の橋」であった。青梅街道からは石灰、五日市街道からは木炭が送られてきた。杉並区高円寺梅里あたりは、尾根が東から西に通っており、北斜面は桃園川、南斜面には善福寺川が流れていた。

 <目白台>昭和も中頃、今太閤と呼ばれた政治家の邸があったところである。この高台に五色不動のひとつ目白不動、長谷寺があったからとも、三代家光が目黒に対し目白にしたとか、この地の名馬を白駒、馬白(めじろ)と呼んだことから、などなどと地名となった諸説がある。他に神奈川の目白山、埼玉の毛呂山目白台は、目白(鳥)が群がっていた事が由来とされ、こちらの方が納得性がある。

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