12 江戸トランスポート 「伝馬制度の町」
大伝馬町/南伝馬町/小伝馬町/馬喰町/芝車町/天満/江戸湊
江戸時代の物流は、「人は陸を、物は水を」と、人間の交通手段は原則陸路、物資の流通手段は大量輸送の効く水(船)運が主体をなしたが、陸運では、町と町をつなぐ街道筋には宿場がおかれ、伝馬業務を行う宿場は、「〇〇宿問屋場」とか、「馬次(継)場」「秤場」と呼ばれた。秤場とは荷物の重さを計る場所で、この重さで人数と賃金が決められた。
「宿」に雇われた、馬を含めた道中人足(非正規の人足は雲助)は、駅伝の区間だけを往復した。また、幕末、皇女和宮が下向した際にも、人足の不足をきたしたが、こういった場合には近在の農村から補充、これを「助郷」と称した。これは季節や時間に関係なく呼び出され、而も無給、街道はこうした農村の犠牲によって、支えられていたのである。
こうした物や荷物の運送と共に情報の伝達は、その当時大部分の人間が、農耕に従事していた時代において、その役を担ったのは、行商人や出稼ぎ、土座廻りの役者、聖とよばれた非定住者たちであった。
家康は入府直後、日比谷入江周辺に住んでいた祝田、宝田、千代田の村々を組織化、道中伝馬役に任命、慶長十一年(一六〇六)江戸城拡張による立ち退きで、呉服橋内の宝田村の馬込勘解由他一名と、呉服橋御門内の宝田村は大伝馬町へ、祝田村の宮辺又四郎は小伝馬町へ、また、同じく宝田村の高野新右衛門他二名は、南伝馬町へ移転させた。
大伝馬町へ移転したのは人間や屋敷だけでなく、そこに祀られていた神社も遷座、宝田恵比寿神社の「べったら市」は、今も江戸風物詩として賑わいをみせている。伝馬業の他にも太物問屋業にも進出、問屋街の形成を担っていくことになる。こうした事から三ヶ町は、江戸惣町の筆頭として天下祭を勤めている。
江戸期を通じて大伝馬町、小伝馬町、南伝馬町の三ヶ町は、幕府の公用の人間と荷物を無料(私用は有料)で輸送する伝馬役を担い、その原資を「町入用」として家持ちから徴収、日本橋からいずれも約二里の範囲であった江戸四宿は、伝馬業務の事務所である問屋場の経費を、宿場女郎(飯盛女)の売上で賄っていたのが現状であった。
「守貞漫稿」は「江戸にて駅妓を宿場女郎と云。江戸の四口各娼家あり。品川を第一とし内藤新宿を第二、千住を三、板橋を四とす。是、妓品を云也」と記している。
江戸の伝馬役は「国役」として、馬込勘解由など六人の名主に命じられ、職務内容は ①公用の街道筋の伝馬、人足の提供、②公用の書状の逓送であり、いずれも「四宿」までとし、数の制限はなしとし、宿駅ごとに馬を乗り換え運ぶシステムを「伝馬制」といった。
御用数は宝永四年(一七〇七)、五十五項目であったものが、安永二年(一七七三)には約三倍の一四四項目に増え、人馬も寛文三年(一六六三)の五八九二匹、二九〇一人から、元和元年(一六八一)のわずか二十年弱の間に、馬は約二倍の一万一九九〇匹、人間は約三倍の一万一五二人に膨れ上がっている。江戸の町の繁栄振りが伺える数字である。
役割担当は、月前半十五日は「大伝馬町」が無償の人馬を提供、「南伝馬町」が賃伝馬を提供し、月後半になると御役が交替した。また「小伝馬町」は、江戸市中の書状の廻送や、城内消費の米や炭の運送などの御用を担った。
「大伝馬町」
江戸初期、三河出身の馬込勘解由が、高野新右衛門らと共に、家康入府を人夫、駄馬を連れ迎えた功により、「市中伝馬役」を拝名、当初呉服橋御門内にあった屋敷を、慶長十一年(一六〇一)江戸城整備の為、現在の日本橋大伝馬町に移転、町名はこれに由来する。
当初、「大伝馬町」は奥州街道の最初の宿場駅であったが、文禄三年(一五九四)荒川に千住大橋が架けられ、慶長二年(一五九七)に、千住が奥州(日光)道中の初宿と定められ、ここから町のあり方は大きく変わっていった。
大伝馬町一丁目、現在の本町三と四丁目の間の町は「木綿店」と呼ばれ、馬込勘解由が伊勢の木綿商人を江戸に招いたか、彼の配下が木綿の商いを始めたか定かではないが、いずれにしても伝馬の仕事と併用して、木綿を扱う店が増えていった。「江戸買物独案内」によると、二十一軒の問屋が営業、「家切」といわれた防火用の「うだつ」があがっていた。
木綿の生産地は伊勢、尾張、三河などで、農閑期の仕事として、小仲買いから買われた農家の木綿は、仲買いから買次へわたり、問屋へ卸される流通形態がとられ、中山道沿い、播磨、和泉といった産地別に引き受け問屋があり、東国向けに江戸積み木綿問屋があった。また、十組問屋の中で呉服類と共に、木綿を扱う問屋群を「白子組」といった。
「三河木綿」は幕府の保護もあり、大いに売上を伸ばした。丈夫な三河木綿は足袋の底地や印半纏、暖廉などに使用された。因みに足袋は足にはく下着という事になるが、この普及は明暦の大火以降だといわれ、火事のためそれまで使用していた皮が高騰したため、木綿で作ったものが普及したという。三州足袋の産地は豊田市足助町、紅葉の名所「香嵐渓」
が近くにある。
馬込勘解由は二丁目に住み、代々伝馬役、名主役、草創名主筆頭を勤めた。初代、平左衛門は遠州浜松の出身、宝田村から大伝馬町に移住、「宝田恵比寿神社」の本尊、恵比寿様は家康からの拝領とされている。
幕末まで名主を世襲、娘ゆきは関ヶ原の戦いの慶長六年(一六〇〇)、オランダ東インド会社の船に乗って遭難した、ウイリアム・アダムス(三浦按針)と結婚、洗礼名マリアは一男一女をもけたとされるが、この日本人妻が勘解由の娘であったかどうか定かではない。
「南伝馬町」
諸国道中伝馬役の高野新右衛門が、慶長十一年(一六〇六)に拝領、切絵図には通町筋の両側、現在の京橋一から三丁目にかけての両側町で、江戸期より昭和六年まで存在した。
伝馬役は毎月前半、後半と交互に担当、南伝馬町は小宮善右衛門と二家で、大伝馬町は馬込勘解由が担当した。南伝馬町内には紙類や煙草などの問屋が多く存在し、毎年六月七日から十四日は牛頭天王祭で、一と二丁目の間の道は神田明神「祇園会御旅所」となっていた。
「小伝馬町」
家康入府以前は奥州道中の宿村「六本木」であった。名主は宮辺又四郎、江戸市中の書状や、城内で使う米や薪の搬送を担当、町内には建具、長持ち、鋏類などを扱う店や、菓子屋、屑屋なども多かった。
他に「伝馬町」がつく町は、寛永十四年から十五年(一六三七~八)に起きた「島原の乱」の際に、人馬の搬送に貢献があったとされ、四谷門外に大伝馬町の馬込勘解由と佐久間善八郎の二人が七四〇間を拝領、町屋をひらいた「四谷伝馬町」があり、また元は土置き場になっていた処を寛永十三年(一六三六)、南伝馬町の高野新右衛門ら三人が拝領、町屋にして「赤坂伝馬町」と称した町があった。これらの町の書上げによると、紀州藩屋敷から弁慶濠に向かう周辺の町を元赤坂「表・裏伝馬町」と称している。
「馬喰町」
鎌倉北条の時代から、東北関東産の馬は、府中六所の宮(大国魂神社)境内で開かれており、江戸日本橋の「馬喰町」は府中の馬市の出先機関として「関ヶ原の戦い」の際にも活用された。この情況は享保年間(一七一六~三五)まで続いたが、浅草と麻布十番に馬市が開かれるにつれ、府中の馬市は宝暦、明和年間(一七五一~七一)に途絶えてしまった。因みに日本三大馬市は、福島県白河、長野県木曽福島、鳥取県大山(だいせん)である。
馬喰町は古くは海浜に続く草地で、明暦大火以前は寺町であった。奥州道中へ向かう浅草御門の手前に位置、町名の由来は牛、馬の売買、仲介を行う博労達が居住した事からで、当初は「博労町」と記されたが、正保年間(一六四四~四八)に「馬喰町」となっている。
「博労」とは、古代中国春秋時代に、馬の病気の治療や蹄鉄を作ったり、馬の目利きを得意とする「伯楽」からきた言葉で、これが「博労」次いで「馬喰」に転訛していった。慶長七年(一六〇ニ)の立札には「馬の売買、安馬たりとも馬喰町の外一切停止の事」とあり、馬市はここの専売であった事が伺える。
江戸期は一丁目から四丁目まであり、北側には追い回しの馬場とも呼んだ「初音の馬場」があった。関ヶ原の戦い前に、家康は馬揃え(閲兵式)を行い、戦いに臨んだ。ここは富田半七、高木源兵衛の両人が管理、関東郡代屋敷や浅草御門の手前にあった。
明暦大火後はここにあった寺院が移転され、「郡代屋敷」が常磐橋御門内から移転してきて、文化三年(一八〇六)には馬喰町御用屋敷となっている。郡代屋敷の関係で、「公事宿」などの旅籠が集中、「通旅籠町」も繁盛したが、JR東京駅の開業により交通環境が変化、大正の震災、昭和の戦災によって古い旅館街は姿を消していった。
「芝車町」
牛は追うもの、馬は引くものとされ、都の貴族は牛車(ぎっしゃ)に乗って移動した。江戸でも天下祭の山車をひくのは黒毛の牛、今風にいうと黒毛和牛となるであろうか。江戸時代、陸上の運輸手段は時間を稼ぐならば馬、重量をこなすならば牛、文化二年(一八〇五)に描かれた「熈代勝覧絵巻」にも、荷車を引いている牛車が登場してくる。
寛永十一年(一六三四)増上寺安国殿普請京より牛持ち(牛方)達を呼び寄せ、材木、石材の運送にあたらせた。また、寛政十三年(一八〇一)にも、牛込や市ヶ谷見附の普請に集められ、この牛方たちが寛永十六年(一六三九)高輪にあった四町余りの草原を拝領、牛車を活用した運送業者の町であったため、「車町」と呼ばれた。大部分が東海道に面した、高輪大木戸の南四丁目の間の「片側町」で、寛文二年(一六六二)町奉行支配地となっている。
延宝の切絵図では、この地は「牛町」「牛の尻」で、俗称を「芝車町」(現高輪二丁目辺)と呼んでいた。牛の数約千匹余が常駐、ここにいる牛達は、額が小さく角は後ろに長くなびいていた為、顔立ちが上品に見え「薮くぐり」と呼ばれていた。この牛達を苦しめたのが、文京区春日の「牛坂」や、港区西麻布の「牛啼坂」であったという。
文化三年(一八〇六)、芝車町から出た火事は「車町の火事」「丙寅の火事」と呼ばれる大火事となり、ここより北上して日本橋を焼き、浅草まで達した。前年の文化二年に描かれた、日本橋地下コンコースに展示されている「熈代勝覧絵巻」は、火事前年の日本橋の繁盛ぶりを描写した貴重な資料となっている。
「天満」
「天満(てんま)」という文字は、都市の内部における、伝馬業務の場所を示している。お馴染み天満宮の門前町である大阪北区を始め、姫路市や紀伊勝浦、志賀県山東町、埼玉県行田市などに、天満の地名がある。
また本来の意味での「伝馬町」の町名は、やはり東海道筋の城下町に多く、静岡、浜松、豊橋、岡崎、桑名、大垣、飯田などにみられる。
「江戸湊」
「江戸前島」がまだ鎌倉円覚寺の寺領であった頃、河岸は「江戸前島」の海岸線全部にわたって存在していた。家康入府前の、道灌の時代の物流の拠点は「日比谷入江」の奥、「髙橋」「大橋」ともよばれた「常盤橋」の近くであった。近隣の国から米、茶、竹などの農産物の他、漁獲類から漆器や薬品、銅などの鉱産物まで、全般にわたり取り扱われていた。
入府後、日比谷入江を埋立、江戸前島の東海岸線も埋立てにより、家康はここで完全に江戸前島の存在を消す。江戸初期、物流は「蔵の御門」とよばれた「和田倉門」にあった。船の役所、荷揚げ場や、「一の蔵、二の蔵、三の蔵」と呼ばれた蔵(倉庫)が置かれ、道三堀を利用した海上輸送の拠点となっていた。
古代語で「海」を意味した「ワダ(和田倉門」」は、日比谷の入江が埋め立てられ、平川が流路を変更、外濠や日本橋川が堀削されると、江戸湊は「江戸前島」の東の海岸線に移っていく。また、利根川の東遷によって、太平洋からの物流は利根川、江戸川と流れを変え、中川の番所から、小名木川に入り大川へ出、日本橋川から道三堀、和田倉門の御蔵に入っていった。
また、江戸の相次ぐ埋立により、最終的な江戸湊は、総じて隅田川右岸に発展していった。その中心をなしたのが酒問屋が集まる「新川」と、正保元年(一六四四)に築島された「佃島」の間の、隅田川右岸「江戸湊」である。
上方からの下り船(千石船)が帆を下し、「下り物」は、日本橋川や八丁堀などの掘割を利用して、江戸の河岸地へ運ばれていき、江戸の経済を担ったが、幕末、通商修好条約等により、神奈川(横浜)などに比べ、国際港としての「東京港」の開港は、開戦時の昭和十六年と大きく遅れ、アジアのハブ港としても、韓国釜山から大きく立ち遅れている。
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