11 木と紙と土の町江戸「木扁」がつく町
木場の流れ/道三河岸/鎌倉河岸/本材木町/木挽町/大鋸町/新材木町/浅草材木町/神田佐久間河岸/元木場、深川佐賀町/本木場、深川材木町/新木場
江戸の町は木と紙と土で作られた町である。ひとたび火の手が上がると、それは即大火事につながった。従って常に建築材料である木材や竹の需要が多く、その需要を満たすための材木置き場=木場が江戸の町各所に置かれ、町そのものが火事の発生元であり、拡大させる要因となっていた。「木場」とは、木材の切り出し場に由来する地名で、それに因む地名は日本各地にある。これらの地名は、海や川沿いに面している所が多く、伐りだした木材を沿岸の海、近くの川を利用して集散したために、自ずとその集積地が木場になった由縁である。また「材木」とは、切り出した樹木を、建築材料などにしたものをいい、板や板の形をした様なものを指し、①建築用材、②薪用材やほた、(木扁に骨をつけて「ほた」と読むが、これはマッチライターなどない江戸時代、火立て時に使われた) ③小枝に分類された。
<木場の流れ>江戸材木商人は、①家康入府前から近郊の農村で、薪や竹などを扱っていた土着の者達、②江戸城築城によって各地から集まってきた者達、③さらに後に移住してきた者達に分かれる。また、それらの者達が成立させた、「木場=材木町」と呼ばれる町によっても、流れがまた分かれる。ひとつは家康が最初に着手開削した「道三堀」沿岸が、城建設の材木揚げ場となり、諸国から集まってきた者達が、作りあげた町が出来上がった。後に道三堀は外濠工事のため城郭内となる。これにより寛永年間(一六二四~四五)「江戸前島」の東海岸線、楓川西沿岸に移転させられる。これが後に「本材木河岸」と呼ばれる本材木町(現日本橋一~三丁目東側)で、北から材木町一から九丁目が起立された。さらに三十間堀の東沿岸の木挽町にあたる「三十間堀材木町」「茅場町材木町」へと派生、広域な商圏をもつ様になっていく。もうひとつは土着、先住の者達が、古くから流れていた「平川」の付け替え部分にあった「鎌倉河岸」の物揚場が、元和年間(一六一五~二三)平川から神田川への流路変更により、神田川流路に移転したのが「神田材木町」で、左衛門橋から美倉橋、和泉橋辺りまでである。ここからさらに派生していったのが、旧石神井川の河口部であった「東堀留川河岸」に誕生した「新材木町」である。こちらは関東地廻り品を得意とした。
寛永十八年(一六四一)「桶町の大火」発生。これをうけて幕府は、五ヶ町の材木置き場を隅田川の川向こう「永代島、深川佐賀町」に設置し、移転する事を命じた。ここが「元木場」といわれる「深川木場」の始りとなる所である。江戸の都市化に大きな役割を果たしたのは、深川における木場の造成である。火事が多かった江戸では、木場は建築資材置き場として、掘割に木材を浮かべ貯蔵していたが、実は水面だけでは足りず、木材に重り石をつけて、水中に何層も備蓄していたという。永代橋が創架された元禄十一年(一六九九)には、佐賀町の東「猿江の六万坪」(現木場公園)に、幕府直営の貯木場を設置、そこへの移転を命じている。更に翌年の十二月、猿江の六万坪が御用地として召し上げられた為、この南側の掘割もない芥地(ごみ捨て場)=新たに埋め立てられた造成地に、再度の移転を命じている。元禄十四年(一七〇一)、築地二十四町のひとつに、十五名の材木問屋が払い下げを受け、同十六年、此の地を「深川材木町」と命名、新たに十ヶ所に材木置き場を設けた。「文久版深川絵図」によると、富岡八幡の東方、海よりに木置場と記され、土手を築き、縦長三十五条、横長二十三条各六本の掘割がめぐらされ、橋を架け東は横川、南は平野川に通じていた。昭和四十八年に東京湾岸の「新木場」に移転するまで、約三百年続いた「深川木場」である。此の地で材木商として名をはせた人物に、紀国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門などが挙げられる。また、角乗りなどに代表される、気風と威勢を重んじる「深川風」という地域文化を開花させた。昭和四十七年東京都の「木場地区再開発構想」により、深川木場の跡地は、面積七十五Khaの「都立木場公園」と、都民の憩いの場となっている。東京湾埋立てにより、昭和四十八年、深川木場から更に東、東京湾岸沿いの東京湾に注ぐ、荒川河口右岸に移転、江東区新木場一から四丁目と、若州を含めた地域が「新木場」となる。因みに江東区は、深川区と城東区が昭和二十二年合併して誕生した区で、上等(城東)が高等(江東)に格上げされた、めでたい区である。
<道三河岸>家康入府の頃、材木徒世の者軒をならべてありしが、後年かの地武家のやしきとなりけるうえ、御城の外、東の方へ移される。いまの本材木町これなりと」江戸名所図会。和田倉門東詰に辰ノ口、それより東北に一石橋へ向かって道三堀があり、その両岸を「道三河岸」といった。「府志科」は名称の由来として、昔医員、今幕府典楽療医師曲直瀬道三の邸ありしより名づけたり」とされる。この堀には銭瓶橋、道三橋が架かっていたが、この道三橋、将軍が道三を呼び出した処、距離の割には少々時間がかかりすぎた。「何故か?」「橋がなかった為ぐるりと堀を廻りました故に」そこでこの橋が架けられたとか。如何に奥医師が将軍の命を預かるとはいえ、公費を一人の人間の為に使用する事は、如何に江戸時代とはいえ「如何なものか」となる。現代でも一人の政治家の意見によって、新幹線の路線が決められたり、辺鄙な処に新駅が出来たりと、色々考えると不思議な事が多い。代議士先生も道三を学んでいる。
<鎌倉河岸>鎌倉河岸は入府以前、日本橋川の前身である平川の河口部であり、中世以前から河岸、湊としての機能を果たしていた。江戸城造営の際、鎌倉から取り寄せた石材を陸揚げ、江戸本丸に最も近い荷揚げ場であった為、多くの物資が交易され、問屋街の形成につながった。また、江戸図面を作成した大工棟梁、甲良宗広の屋敷町でもあった。慶長年間(一五九六~一六一四)道三堀と同じ様に、駿河の弥勒町から移転してきた遊女屋十五軒が置かれていたと云われる。江戸期は龍閑橋から神田橋の河岸地、現行は千代田区内神田一から二丁目である。慶長元年(一五九六)創業の「豊嶋屋」は下り酒を取り扱い、それによる空き樽を味噌、醤油屋に転売、その利益で酒を原価で売る事に成功、豆腐の田楽をアテに売り上げを伸ばした。また、三月弥生の桃の節句に備え、白酒は江戸市民の人気の的、毎年二月末になると、一方通行と前売り券を発行して混雑を緩和、白酒を捌いたという。
<本材木町>江戸橋の南詰、海賊橋から新場橋、弾正橋をめぐり、京橋川、白魚橋までの楓川北岸に沿ってあった南北に細長い町で、一丁目から八丁目まであり、日本橋東堀留川に「新材木町」や「神田材木町」ができると「本材木町」と呼ばれる様になる。江戸初期、駿河遠江より集められた材木商が、道三河岸や八重洲河岸に居住、その後江戸城修復の為この地に移転、そのまま材木商になる者が多かった。この楓川と外堀の間の地域は、材木関係の町が多く、上、下、北、富が上につく「槇町」、五丁目の西側には「大鋸町」、他に「正木町」「桶町」「元、南大工町」などがあった。塗物、藍玉などの問屋が軒をならべ、延宝二年(一六七四)に、二丁目から三丁目に開設された魚市場は、日本橋魚河岸に対し「新肴場」、略して新場と呼ばれた。
「木挽町」
江戸初期、埋め立てられた「三十間堀川」の東岸一帯の町で、一から七丁目が起立するのは、慶長十七年(一六一二)以降とされる。現丁目に合わせると昭和通りに沿った西側の地域で、銀座一から八丁目の九番から十三番辺りの細長い町である。海賊橋から白魚橋まで楓川西岸に続く「本材木町」の町を、「京橋川」を越して対角線に位置していた町が「木挽町」である。木挽とは樵によって伐採された木材を、用途に応じて適当な長さ、巾、厚味に製材する仕事であり、ここに集まる職人集団の町が「木挽町」である。木曽や紀州などからの原木が、海路を経て材木町に貯木され、この町に運ばれ製材され、さらに「檜町」などで最終製品となっていく流れは現代のそれと一致、時間的、移動的ロスを省く合理的システムであった。
<大鋸町>「金」が居ないので貧乏となり、「金」が居る大鋸町が裕福とは言い切れないが、鋸で製材する業者、またはその製造、修理、販売の職人達が集住する町が「大鋸町」「おが」「おおが」とも読む。「紅葉川」沿岸に位置していたが、この紅葉川は城内の紅葉山に由来し、海へ繋がるのは,同じもみじでも「楓川」といった。縦挽き鋸である大鋸は、木材の根元から梢の方向に、つまり長手の方に挽き割るもので、その切断面は柾目となる。北斎描く「富嶽三十六景、遠江山中」でその様子がよく描かれている。斜めに渡した板を、職人が挽いているのが大鋸である。そこから出る木屑が「おがくず」である。職人が履いているのは「足半(あしなか)」と呼ばれる草鞋、名前の通り普通の草履の長さの半分しかない。これは子供用ではない、れっきとした大人が履く草履なのである。では何故か?正解は斜めの板(ましてや雨に濡れた板)から滑らない様に、足の指先と踵を草鞋からはみ出させ、それらを板に密着、滑りを止める為である。人間の足が吸盤の役目をしてくれる。寸足らずも使い用である。大鋸で挽き大別された「マキ」を、さらに「へいで」比較的厚い材料とし、「桶町」「樽正町」に廻す。更に薄くへいだ板を「まげもの」にしたのが「檜町」である。「へぐ」とは「剥ぐ」「折ぐ」とも書き、薄くはがす、むくと云う意味である。また「マキ」とは真木、槇とも書き、「純粋な木」という意味に使われる。建築材料の最上の木という意味合いから、多くは檜の美称、杉の古名、イヌマキ等を指す場合が多く、水気のある場所でも腐りにくく、船材、橋材、石垣の土台などにも多く使われた。ここ大鋸町(現京橋一丁目)の家で、安政五年(一八五八)六十二歳で亡くなった広重は、寛政九年(一七九七)八代洲河岸の同心屋敷で「定火消し」の息子として誕生、二十六歳で隠居、美人画から風景画へと転向、天保四年(一八三三)「東海道五十三次」を発表、安政三年から五年にかけて集大成「名所江戸百景」に取り掛かる。この作品の中の第二〇景「市中繁栄七夕祭」は、広重自身の自宅の、二階物干し場からの風景とされる。中橋広小路から日本橋の風景が描かれ、画面下は南伝馬町の「四方蔵」、火の見櫓は生れ育だった、八代州河岸の同心長屋のものである。
<新材木町>古くは「芝原宿」と呼ばれ、日本橋川の入り堀にあたる「東堀留川」の東岸区域にあった。元和年間(一六一五)以降、材木、竹商人が多く居住、江戸橋南の本材木町に対し、「新」の字をつけられた町であり、現在は日本橋堀留町を名乗る。東堀留川に架かる、和国橋から椙森神社へと向かう道を、水森(稲荷)新道といい、この角に材木商白子屋の屋敷があった。また、ここの河岸地は「東万河岸」「多葉粉河岸」と呼ばれ、家康の側室であり、御三家、尾張徳川家の頼宣、水戸徳川家の頼房を産んだ、お万の方が化粧料として拝領「於万河岸」とも呼ばれた。
<浅草材木町>隅田川右岸、吾妻橋西詰の南側に位置し、古くは「小浜宿」後に町屋が開かれ浅草寺領となった。町内に材木や竹を商う人達が集住、「浅草材木町」俗に「竹町」とも呼ばれた。これに因んで近くの大川(隅田川)の渡しを「竹町の渡し」、別称「花方の渡し」と呼んだ。この河岸地は浅草寺が必要とする、物資の荷揚場として使用され、将軍も船で浅草寺を参詣する際、ここを利用したという。
<神田佐久間河岸>河岸の名前を町名にしたものは、江戸時代鎌倉河岸(現、内神田)や、金杉河岸(港区芝)などいくつもあったが、震災後の復興事業で殆どが変更され、現在ではJR飯田橋側にあった貯木場「神楽河岸」と「佐久間河岸」のみとなっている。神田佐久間河岸は、住居表示未実施の地域で、佐久間河岸○○番地ではなく、○○号地となる、丁番の設定のない単独町名になっている。この佐久間河岸は神田川の下流、北岸「和泉橋」から「美倉橋」の間の地域を指し、対岸の南側には「岩本町」があった。この町の名の由来は材木商、佐久間平八による。ここに東北地方からの、薪、炭、米などが集積されていた。この為、江戸の度重なる大火事の火の手が、集積されていた物資に延焼、更に被害を拡大させた為、近くの住民たちは「佐久間河岸」ではなく、「悪魔河岸」と呼んだ。
「河岸」とは、河川や湖沼などに出来た湊や船着き場の事を指すが、「薪河岸」と呼ばれる河岸は江戸市内各所にあった。元吉原の東側のお歯黒どぶの役目を果たした、浜町川の高砂橋から小川橋の西側の河岸は「薪(たきぎ)河岸」と呼ばれ、日本橋富沢町にあり、北は高砂町、南は難波町に接していた。神田では「神田材木町」と呼ばれていた為、「薪(まき)河岸」「植木河岸」とも呼ばれていたが、昌平橋が架けられてからは、「昌平河岸」と呼ばれる様になった。港区内を流れる古川が一の橋で東へ向いている辺りにあったのが、麻布の「薪河岸」、材木屋、薪屋、土屋の三商人達が、元禄十一年(一六九八)幕府より拝借して貯木場としていた河岸である。ここは現麻布十番駅から「善福寺」へ向かう麻布新網町辺りとなる。京橋川に外堀からの水が流れ込む、比丘尼橋から中之橋にかけての左岸にも「薪河岸」があった。この京橋川には、京橋北詰西側には「大根河岸」東側には「竹河岸」と、川の水運を利用した河岸があった。
<元木場・深川佐賀町>「元木場」と呼ばれる地域は、油堀川以北一帯の二十一ヶ町の総称であり、寛永十八年(一六四一)「桶町の火事」など、相次ぐ大火事に見舞われた幕府は、材木や薪などが積み上げられた貯木場が、大火事を誘引するものと判断、日本橋界隈に散在していた本材木町、新材木町、佐久間河岸などの材木町を、川向こう隅田川の左岸「永代島」、のちの元木場と呼ばれる深川猟師町八ヶ町のひとつ「佐賀町」辺に移転を命じた。現在の佐賀町、深川、永代、清澄、福住辺りであり、隅田川東岸、南北に永代通りと仙台堀川、東は大島川西支川に囲まれた地域に位置している。更にこの地は元禄十二年(一六九九)に召し上げられ、代替え地として示されたのが「深川木場」である。
因みに「深川猟師町」とは、寛永六年(一六二九)摂津辺りからきた八人の漁師たちが、幕府に願い出て、汐除け地の外の干潟を埋立、自分たちの名をつけ起立した町である。元禄八年(一六九五)町名を佐賀町、清住町、黒江町などと改め、次第に他の町を合併しながら、昭和の中頃まで、漁業や海苔の養殖を続けていた。
「深川佐賀町」の名称は、元禄八年(一六九五)検地がなされた時、この地形が肥前国の佐賀湊に似ている(現在でも鹿児島本線で博多から佐賀へ向かう右側、玄海灘沿いに長い「虹の松原」の見事な松林を車窓から見る事が出来る)ため、この名が付けられたが、当初は開拓者の名を取り「藤左衛門町」「次兵衛町」と称したが、合併して佐賀町となっている。町内には尾張家の御用菓子司船橋屋や、藍玉問屋などがあった。因みに「深川」の地名の由来は、家康が視察の折、小名木川北岸一帯を開いた摂津の深川八郎右衛門に、「地名尋ね遊ばされた候処、当辺萱野にていまだ地名も御座なく候」段申し上げ候処、左候なれば「其方苗字を以て深川と名付けよ」以来この地は深川の地名となったといわれる。
<本木場・深川材木町>古くは海浜の沼沢地で、元禄十二年(一六九九)埋め立てられた、俗に「築地町」といわれていた約九万坪の土地を、材木商人十五人に一括払い下げ、この地を「深川木場」と名付けた。材木商らは周囲に土手を築き、その中に縦、横六本の掘割を作り、その通路十ヶ所に橋を掛け、貯木と運搬に効率のよい材木置き場を設けた。正徳三年(一七一三)には、町奉行支配となっている。昭和六年この地名は消滅、現在は江東区木場三から四丁目となり「新木場」に繋がっている。材木は嵩張り、重量もあり、それ自体が水に浮く性質のため、水運による運搬が最も適した方法であるが、そればかりが理由ではない。①木材は空気中に触れていると、先ず乾燥が進み水分が蒸発、ヒビが入り品質が落ち、商品価値が下がる。②また、大気中の虫が入り込み、虫喰い状態になり、これも商品価値を下る。貯木場は淡水と海水が混じりあった処がいいとされる。つまり平川の淡水と、日比谷の入江の海水が混じりあった、汽水地域の「道三掘材木河岸」などは、この条件を整えていた事になり、また、隅田川と掘割が交差する「深川木場」もそうであったといえる。
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