10 江戸経済を支えた 「職人町vs商人町」

<職人町>

桶町/神田鍛冶町/神田紺屋町/神田鍋町/白壁町/畳町/乗物町/箔屋町/

檜物町/深川海辺大工町/葺屋町/本革屋町/本銀町/連尺(雀)町/南佐柄木町

江戸初期、全国諸藩は一種の独立国。その中に閉じられた経済体制を成立させ、その中心は領主のいる城下町であった。領主は組織の統制と維持のため、それぞれの職域の人間をそれぞれに集住させ、その結果、武家の町、職人の町、商人の町という集団居住=同業者町が誕生していった。近世の城下町においては商人と同じく、職人も集住が強制され、特別の区域を形成している場合が多い。

手工業技術者である職人の集住する町が「職人町」であった。一国の領主が、主に築城や土木建築、武器弾薬の製造、修復に必要な大工、左官、鍛冶屋などの職人を、軍事的な目的から一ヶ所にまとめ、機能的活用を図った。

江戸の職人町は神田、日本橋、京橋地区である。落語「三方一両損」の、大工吉五郎は神田竪大工町の長屋の住民、左官の金太郎は神田白壁町の長屋であった。同じ職業の人間同士が集団で居住するひとつの町=職人町が造られる様になったのは、室町、戦国時代になって、ひとつの国に城下町が作られた時期からである。

天正十八年(一五九〇)家康入府、江戸城や江戸の町造りのため、全国から職人が呼び集められ、その職人達へ「国役町」として土地、家屋を与えた。国役(くにやく)とは江戸時代、幕府が一定の国に限って臨時に賦課する税をいうが、この場合は職人が租税として金銭ではなく、普請、営繕などの奉仕や製品を納める事である。因みに町民の租税は人足であり、後に金で納める事になり「公役」といった。

江戸の町が一応の形を整えてくると、同業の者が同じ町に住んでいる意味がなくなり、明暦大火以降は民間需要が多くなってきた為、集住型から市中分散型へ移行、鍛冶町、紺屋町といった町名だけが残る事になった。

幕府はいったん「町」という「株」を認めると、その後の町の実態、例えばそこに住んでいた職人たちが地方にちらばり、そこに他の生業の人間達が、代わりに住み始めても、その本来の「職人町」としての機能が果たせなくなっても、元の町の名称はそのままひきつがれていくのを認めた。

「神田鍛冶町」が、幕末になると鍛冶屋の町でなく、下駄屋が多い町になった様に、幕府は町そのものの「機能」「役割」よりも、そこの「町役」=その町の税負担がスムースであれば、その町の今までの機能、役割よりも税の確保を優先、新しい町民にその運営を任せるという、柔軟な態度をとっている。

普請場の親方、指揮官を「棟梁」と呼ぶ。棟梁とは屋根に真直ぐ伸ばした「棟木」と、それに直角に渡す「横木(梁)」を墨付して、棟上げ式を裁量する者を指し、転じて「源氏の棟梁」の様に使われた。

棟梁という立場は、なかなか神経を使う立場にあり、配下の者が病気や借金などで仕事に出られない時など、自らが借金して配下の者の生活を助けた。これを怠たり元気になった頃、次の仕事を依頼すると、江戸の職人はへそ曲がりにつむじ曲がり、故に「何いってやがんでぇ」「俺ぁ江戸っ子でぇ、銭で動くんじゃねぇやい」とすっぱり断られた。何でも人間、普段のつながりがものをいうのは、江戸も現代も同じである。

「桶町」

現在の八重洲二丁目から京橋一、二丁目にかけてあった町である。江戸期は北西部が呉服橋と鍛冶橋のほぼ中間の外堀に面し、南大工町と南伝馬町に囲まれた町屋であり、桶職人の集住地であった事からこの地名がついた。また、ここには千葉周作の弟、定吉が開いた北辰一刀流の道場があり、幕末、坂本龍馬も通い、道場の二女は佐那といった。

寛永十八年(一六四一)、正月二十九日夜、ここから出火した「桶町の火事」は、江戸最初の大火事(規模としては二番目)と云われ、町数九十七町、武家屋敷百三十余軒を焼き、死者四百人以上を出す大火災となり、翌三十日の夜になってやっと鎮火した。幕府はこの火事を踏まえ、本材木町などの材木置き場(木場)を、川向こうの隅田川左岸「佐賀町」に移転している。

因みに慶長六年(一六〇一)から慶応三年(一八六七)までの二百六十七年間、大火と呼ばれるものは四十九回発生、大火以外の火事も含めれば千七百九十八回となる。同じ年間に京都では九回、大坂では六回発生、いかに「火事と喧嘩は江戸の華」であった事を伺わせる数字である。この数字は江戸の繁栄と共に、幕末における幕府の権威低下に伴う、治安の悪化にも影響している。

また、町内には「譲の井」と呼ばれる、名水が湧く井戸があり、夏場「一椀一文」で販売され、その代金は蓄えられ、町の子供達や子孫に使われたという。

「神田鍛冶町」

神田は神田川(伊達堀)を境にして、内側(南)一帯を「内神田」、その外側(北)の湯島や下谷に挟まれた一帯を、「外神田」と俗称、神田は古くは神田村、新稲を奉納するための「神田=みた」をいった。

慶長八年(一六〇三)の町割の際に起立した職人町で、幕府の鍛冶方棟梁高井伊織の拝領屋敷があった町である。鍛冶屋も鋳物屋も、江戸初期、建築用金物の製造のために置かれたが、中期以降になって鍋や釜などの民生品や、鐘などの宗教用具及び、美術品などの金属製品諸々が作られ、文政七年(一八二四)以降になると、刃物や釘などを売る卸業者が軒をならべ、戦後の復興期には、家庭金物や建築金物を扱う「神田金物通り」となる。

「鐘ひとつ 売れぬ日もなし 江戸の春」 其角

今川橋先の八ッ辻までが「鍛冶町通り」で、元乗物町から鋳物師や鍛冶屋の多い鍛冶町一、二丁目と続き、鍋町となっていた。また、鍛冶町の南西側には塗師町、新石町、上白壁町、竪大工町があった。

「神田紺屋町」

藍はタデ科の一年草の草木で葉藍ともいう。草丈五十から七十cm程になり、茎は紅紫色、細長く先が尖った葉(卵形もある)に、藍の成分がふくまれている。此の藍の葉を発酵、乾燥させた染料「蒅(すくも)」をつき固めて、固定化したものを「藍玉」という。

江戸時代の産地は武州深谷辺りにもあったが、好適地が狭かった為、次第に阿波徳島の製品に占められ品質も良かった。これは阿波の国が藩の特産品として奨励した事にもよる。この肥料に九十九里の干鰯が使われている事は「天之巻」でも述べた。因みに藍玉を「らんぎょく」と読ませると、スカイブルーの色調であるアクアマリンの和名となる。

江戸時代、紺(藍染)の生地の大半は木綿、庶民の労働着木綿を染める加工業者が「紺屋」、紺屋は「紺屋の白袴」とか「紺屋の明後日」と云われる様に「こんや」ではなく「こうや」と読む。またその当時はこの藍染の他に、紫草、紅花、矢車草、柘植、茶などを原材料とした染物も盛んで、その専門職である染師もいた。

慶長年間(一五九六~一六一五)関八州や伊豆の国の、藍の買付を任されていた紺屋頭土屋五郎右衛門や、藍染職人が集住した町が「神田紺屋町」である。神田紺屋町は通町筋の東側で鍛冶町に隣接、染物の国役を負担する町で一から三丁目まであった。現在の神田紺屋町は単独町名で丁目はない。

その後、元和年間(一六八一~八八)、及び享保年間(一七一六~三六)にかけて、召し上げられたり火除け地になったりして、これに伴い代地を数ヶ所持つ町になっている。京橋辺りに北、南、西紺屋町があるのはこの為である。

南紺屋町の切絵図に「浬俗に太刀売ト云」は、立売商人が集まる場所で、太刀や脇差を商う者が多かった。後年、この町の職人たちは綺麗な水を求めて、神田川の上流内藤新宿の西、落合に移転して行く事になる。

この町でのエピソードは何といっても「紺屋高尾」の話である。純情な藍染職人久蔵と、その熱意にほだされた、三浦家の売れっ子高尾の純愛物語である。

また、神田紺屋町を流れていたのが、元和二年に開削され紺屋町を流れる故に「藍染川」と呼ばれていた川である。因みに本郷根津近くにあり、昭和四十年に消滅した「藍染町」は染物の町ではなく、根津神社近くに岡場所があった事から「初めてあう」「逢初め」からつけられた町名である。どちらもほんのりとした話である。

色彩的には紺屋町は、広重描く第二一景「神田紺屋町」が素晴らしい。紺色に染め上げられた大きな浴衣地の紺色は「呉須」ではなく、中国経由で輸入された高価な「ベロ藍」、化学物質的に表現すると「酸化コバルト(CoO2)」鮮やかな「藍色」が表現されている。

「神田鍋町」

幕府鋳物師、椎名山城が慶長年間(一五九六~一六一四)に拝領した町で、隣あった鍛冶町とともに「いもの師多し」(江戸砂子)の町であった。

また「南鍋町」は鋳物師、長谷川豊後が居住していたからとも、鍋島御門の別称をもつ、山下御門の南側に立地していた為、この名が付いたとされ、数寄屋橋御門の南に起立した町で、刀の細工や煙管などを扱う店が多かった。

元禄十一年(一六九八)九月六日昼前に、京橋南鍋町から発生した「鍋町の火事」は、大名、旗本屋敷を焼き、日影町から神田橋、下谷池lノ端、浅草、三ノ輪を焼き千住まで及んだ。もう一方の火の手は、日本橋から東に伸び、両国橋を焼き落として本所まで延焼、半日以上に続いた火の手は、大雨によって夜の四つ頃になってやっと鎮火。死者三千人余りの犠牲者を出した。

「白壁町」

木造建築の職人を「右官」に対し、土を扱う職人を「左官」と呼んだ。主典(さかん)といわれるひとつの官位の事で、宮殿の営繕などを担う、職人に与えられた官位である。

江戸時代、鳶職、大工、左官は「江戸の三職」といわれ、当時の人気職種であった。「左官」は「さかん」「しゃかん」などと呼ばれ、家屋の壁や床、土塀などを「こて」を使って塗り上げる仕事を左官職人と呼び、桃山時代からこの言葉は使われ始め、江戸時代になって一般化された。それ以前までは土木、壁工、壁塗、泥工などと呼ばれていた。

「白壁(しろかべ)町」は、幕府の左官棟梁、安間源太夫の拝領屋敷があった町で、現在の神田鍛冶町二から三丁目にあたる。寛永江戸図では横番匠町であった。江戸の代表的建物である木造家屋の骨格を担った大工職人の町に、「竪、横大工町」があった。竪は「竪川」のように城からみて放射線状に、横はそれに直交する町筋に造られた町である。

その大工町の両側に、造られた左官町が白壁町である。上は京都に近い西側、東側は下白壁町と呼ばれた。白壁の材料となる漆喰は桂酸Ca,青梅街道を使って新宿追分から江戸に運ばれてきた。

「畳町」

古代における畳の原点は、莚、ござ、菰などの薄い敷物であった。畳の語源は、使用しない時に部屋の隅に畳んでおいていた事から、「たたむ」という動詞が名詞化して、「たたみ」になったとされる。

現代の畳は平安時代からの流れをくみ、厚味が加わり部屋に固定化され、茶道の一般化から、正座と共に普及していったとされる。畳床とよばれる芯材を、いぐさ等で作られた畳表でくるみ、へりを畳縁で縫いつけて製品となる。 

古くは八重洲河岸付近、鍛冶橋御門の外、五郎兵衛町の東に、畳職人が多く居住する町が「畳町」、畳刺賃銀の国役を差しだしていた。この町は昭和六年に消滅、現在は京橋二から三丁目となっている。

南の「北紺屋町」との間の道を「古着新道」、北の奥絵師狩野屋敷への横丁を「稲荷新道」と呼んだ。東側は南伝馬町三丁目の大通りを隔て、「具足町」「炭町」、東北側には「南大工町」「南鍛冶町」があった。

「乗物町」

慶長年間(一五九六~一六一四)に起立された、駕籠乗物職人が多く住んでいた町で、現在は神田鍛冶町一丁目と神田北乗物町の一部となっている。当初は「乗物町」でよかったが、後に日本橋に「新乗物町」が誕生、こちらは「元」を名乗る事になる。

新乗り物町は人形町の西側に、同じく慶長年間に起立した古町で、東堀留川の東側、新材木町に隣接していた。江戸期は本屋、着物問屋が多くあった。乗物とは身分や格式によって、様式と規格が決まっていた駕籠の事である。

「箔屋町」

「はくやちょう」と読む。万治年間(一六五八~六一)から昭和三年まで続いた町で、この町は日本橋通三から四丁目の東側にあった。万治年間(一六五八~六一)市川又右衛門が「箔座」を建て、職人を居住させたことに由来する。金銅仏や金屏風の箔打ち職人が集住、元禄九年(一六九六)金銀箔の浪費を防ぎ、運上(賦課金)を課すことを目的としたが、宝永六年(一七〇九)に廃止されている。

計量制度の「枡」については、天下統一をはたした秀吉が京枡を公定化、家康もこれを引き継ぎ、天正十八年(一五九〇)樽屋藤左衛門に江戸の「枡座」の開設を命じ、次いで寛永年間(一六二四~四三)京都に開設したが、江戸と京都では容積が一致していなかった為、「新京枡」に統一したという経緯がある。

京橋具足町にも、制度の統一を図る為、承応二年(一六五三)「秤座」を設立、東国三十三ヶ国の秤や枡の計量器具の製造、検定、販売を幕府から任せられたのが守髄家、また、西国三十三ヶ国は、京の神家が司どり、定期的に管轄地を廻り、刻印の入っていない器具を没収していた。

「檜物町」

「檜物」とは、檜の薄板で作った曲げ物のひとつで、この町は、天正十八年(一五九〇)遠州浜松の檜物大工棟梁、星野又右衛門が、家康入府と共に江戸に入り、この地を拝領した事による。江戸期には、北は数寄屋町、南は上槇町に挟まれ、西は外堀に面していた。明治になって上槇町の一部となったが、現在は八重洲一丁目、日本橋三丁目にわたっている。

「深川海辺大工町」

江戸的発音では、大工の事を「デエク」という。飛鳥時代に「さしがね=金尺」を考案したといわれる聖徳太子が、組織したともいわれる(いずれも伝承の域を出ないが)大工職「右官」である。

海辺の呼び方の起りは、慶長元年(一五九六)に開発された海辺新田により、島の様に町が点在していた事による。寛永年間(一六二四~四四)以降は、小名木川沿いの地は船着場として発展、その後船大工達が多く居住する様になり「海辺大工町」と呼ばれる様になる。明治以降は深川大工町と呼ばれている。

この町は小名木川の河口萬年橋から、新髙橋までの中で、川の両側に起立した町屋である。表通りは町屋となり下総国、九十九里や銚子からの金肥「干鰯」が売られ、「干鰯場(銚子場)」と呼ばれていた。明治二年にこの町名は消滅、現在は江東区清澄一から三丁目、白河一丁目となっている。

「葺屋町」

慶長年間(一五九六~一六一四)沼地であったのを埋め立て、町地として起立した町であり、その当時、屋根葺き職人が多く住んでいたのでこの名がある。裏の西側に「東堀留川」が流れており、寛永年間(一六二四~四三)以降、堺町と共に「二丁町」と呼ばれた歌舞伎小屋、芝居茶屋などで賑わう芝居町であった。

江戸っ子は芝居を「シバヤ」と言い回し、堺町の中村座と並んで、葺屋町の市村座が櫓をあげたが、天保十三年(一八四二)の「天保改革」で木挽町の守田座と共に江戸三座は、浅草寺裏の猿若町、俗にいう暮踏町に移転した。

屋根葺き職人の町は他にも、山下御門の南方、加賀町、山王町、竹川町、滝山町や南佐柄木町などに囲まれた一画にあった「惣(宗)十郎町」がある。この町は草分名主内山惣十郎の名に因んだ町名で、昭和五年にこの町名は消滅、銀座七丁目に含まれた。

他にも江戸期、屋根葺き職人が集住していた町は「竪川」の北にあった「瓦町」、明治になって本所瓦町となっている。因みに火事が多かった江戸の町、幕府はおおいに防火のため燃えない建材、瓦の使用を勧めたが、コストが高い為なかなか進まなかった。

江戸の瓦葺き屋根は、日本橋本町から始まったといわれ、慶長六年(一六〇一)の大火の後、人の目につく店の表を瓦にし、目立たない裏側を板葺きにすると云う「半瓦の滝山弥次兵衛」宅も建てられている。

「本革屋町」

常磐橋御門の東方、本町や金座、室町、駿河町、本両替町などに囲まれた処にあり、嘉永版の切絵図には、駿河町の北の位置に隣接している。皮革製品を取り扱う職人が、多く住んでいた事に町名の由来があり、此の後神田に新革屋町ができる。

「三方ヶ原の戦い」の際、家康に酒樽を献上したことにより、「樽屋」の家号をもらった。町の北側には代々の屋敷があり、奈良屋(舘)、喜多村とともに町奉行の下、江戸の町の自冶に働いた、三人の「町年寄」の一人である。

「本銀町」

銀細工の職人が多く住んでいた町で、「ほんしろがねちょう」と読む。北側は龍閑川(神田堀)、西側は外濠に面した町で、一から四丁目があった。現、日本橋本石町周辺。寛永切絵図では「白かな町」、明暦の大火後、龍閑川沿いに防火用の堤が築かれたが、正徳年間(一七一一~一五)以降は土手蔵になった。更に享保年間(一七一六~三五)になって再び町屋となっている。

「本銀町」に対し「新銀町」は現、神田司町、神田多町の一部を成している。起立は寛永年間(一六六一~七三)以前だとされ、江戸期は筋違橋御門内の南側、神田多町の西側に位置していた。寛政年間から幕末(一七八九~一八〇一)、御青物役所があった。

「連尺(雀)町」

連尺とは篭、箱、荷などを背負う時に、肩にあたる部分を幅広く編んで作った「荷縄」や、それを付けた「背負子」を製造する職人が、多く住んでいたのでこの名がある。当初は連尺町、もとは筋違御門脇にあったが、「明暦の大火」により日除地となったため、甲州道中沿いの原野、三鷹に二十五人が入植、上、下連雀町を起立した。三鷹は江戸期においては野方、世田谷、府中の三領に分属、地名の由来はいずれも「御鷹(みたか)場」であった鷹狩り場の碑が、三本あった事などによる。

「連雀町」の地名は、商人の背負う「連尺」に因み、後に「連雀」となったとか、またその名の通り雀が群がる様に、集団で行商に出かけた事によるという。神田に残ったわずかな土地は、多町、左柄木町とともに「青物三か町」と呼ばれ、明暦大火直前には八十一軒あり、青果市場の一部となり、幕府御用も勤めていたが、大火後は多町にまとめられた。

「南佐柄木町」

家康入府時に、御研師佐柄木弥太郎が、この地を拝領した事からこの名がついた。江戸初期からの「公役町」で、佐柄木氏は「草創名主」を勤めている。また、歌舞伎十八番「矢の根」の主人公でもある。

神田に対し「南」とつけられた。町は東に「南鍋町」「滝山町」南側に「惣十郎町」「加賀町」があった。昭和五年に銀座の西側の旧町名が、銀座西、五から八丁目に変わった際にこの町名も消滅、現、銀座六丁目となっている。

この他にも「江戸の職人町」は沢山ある。江戸城内の柱などの塗装業者の町「南塗師町」や、「南鞘町」「大鋸町」「南大工町」がある。また、鎧などを作る職人の町「具足町」や「弓町」が、銀座一丁目辺りにあったが、明治二年「新両替町」が、銀座一から四丁目に移行した際に消滅している。

<商人町>

新肴町/駿河町/多町、須田町/通町/通旅籠町/本石町/本町/室町

「あきんど」の町商人町は、職人町同様、城下町で多くの商人たちが、作為的に行政によって集住させられた町で、商業的機能をもって発達した町や、市街地の一部を指す。此の性格が強い町が「堺」である。

摂津、河内、和泉三国の「境」にあった堺は、中世の自由都市であった。室町時代から江戸の初期にかけて、外国貿易の中心地として発展、「応仁の乱」以後、兵庫港に代わり、日明貿易の中継地として栄え、イエズス会の宣教師フロイトは、その著書の中で「東洋のベニス」であると紹介している。

「一町の大半は 伊勢屋の暖簾」「江戸に多きもの、伊勢屋 稲荷に 犬の糞」といわれる程、江戸は関西系の商人の店が多かった。江戸時代、上方商人の理想は「江戸店持ちの商人」。江戸に住む武家商人相手の商売が、いかに利益を上げたか、全国最大の消費地江戸は、全国の消費の約半分を占めたといわれる。

本店を国元に置き、ここで仕入れを行い、江戸の支店に縁故で採用した、国元の使用人をおき、その利潤を本店に還元させた。江戸の住民を雇用しなかった理由に、 ①「宵越しの銭はもたねぇ」 ②「江戸っ子のなりそこないが金をため」といった江戸っ子気質があげられ、上方商人を躊躇させた。

反面、江戸の消費を担なった、江戸っ子たちが存在感を示すのは、渋いお店物達を尻目に、祭りから始り、初もの喰い、生きている間は、人生目いっぱいに楽しんだ。それは上方の人間たちには、出来ぬ技であった。勤勉、節約の年季奉公という言葉は、江戸っ子たちには縁のない言葉であった。こうした上方商人の主な出身地は、伊勢、近江、京都、大坂、三河等で、家康、秀忠の二代にかけて移住してきた人々は、「古町(こちょう)商人」と呼ばれた。これらの商人は様々な特権を幕府から与えられ、江戸の武家相手の商売で利益を伸ばし、諸大名はその所得の七割から八割を江戸で消費した。如何に武家相手の有利さが伺われる。

また、江戸の町では、こうした出身者の故郷の地名が多く付けられ、小田原町、室町、堺町、伊勢町、浪花町、大坂町、駿河町、長﨑町など、諸国の寄り合い町となった。こうした状況によって、江戸の経済力は次第に強くなり、江戸の小判一両が地方では一両一分に匹敵するほどになる。一両は四分、従って地方では「一分」分=二割五分増しの実力を、江戸の金一両は持っていた。「円高」ではなく「江戸金高」と云うべきであろうか。

上方から進出した江戸店の多くは、日本橋の「通町筋」と「本町通」に多く立地した。当初は比較的大きな取り引きをする上方商人に対し、江戸商人は小規模な商いをこなしていたが、江戸も中期以降になると、日本橋魚河岸、蔵前の札差、木場の材木商、新川の酒問屋などの商人たちが、江戸自前の商売で「財」をなしていった。

これは自己の才覚や、努力によるものも多かったが、それ以上に、幕府の勘定所などが、江戸の商人達を御用達にするなどの便宜をし、保護政策をとったお陰もある。財をなした商人たちは、新吉原や江戸歌舞伎、錦絵などの「江戸文化」の担い手となって、上方にはない「江戸風、江戸前」と呼ばれる、独自の気風を作りあげていった。

ここに上方商人と江戸商人の、財に対する考え方の違いがある。江戸の商人たちは稼ぐ様になっても、「宵越の銭はもたねぇ」江戸っ子気質が、稼いだ金を地元で使う事により、その金が廻り還元され、江戸の経済をより循環させた。

「大店を 見くびっていく 初鰹」

上方系列の店を皮肉った 川柳が詠まれている。

商人の世界に「お店(たな)」という言葉がある。お店とは店の奉公人や、その店に出入りしている職人、行商人などがその店=商家を指していう敬称である。また、一方「お店者」「お店衆」は、その商家の奉公人達を指した呼称である。そのお店衆たちは、入店から定年退職まで、呼び方が段階的に変わり、長い年季奉公の生活が待っていた。

丁稚(小僧)は、「弟子」という言葉が訛ったもので、十一から十二歳頃になると、親元から離れ、店に住み込みで奉公する、子供たちを指した。これより十年間の年季奉公の間は、一日中掃除や片付け使いなど、雑用に追い回され、閉店後は先輩から読み、書き、算盤などを学び、給金、休み無しで毎日働き、年二回の「やぶ入り」とその時の小遣い、他に毎日腹一杯に食べられる白飯と、寝る事だけが楽しみの日々が続いた。落語の世界での彼らの呼称は「○○吉」、先輩からは呼び捨て、同輩からは「○○どん」と呼ばれた。

手代は丁稚を卒業して、十七から二十二歳頃になると、町人髷となってつく中間職、丁稚奉公してから九年目にやっと国元への「初上がり」が許されるひとつの区切りともなる。お江戸日本橋初上りである。この切り替え時に、わずかな金を主から貰い独立して、店を構え小商いをする者と、そのまま奉公する者とに分かれる。若い頃は「○○七」と呼ばれ、年を重ねると「○○八」の呼び方が多くなる。

番頭さんは結城紬の着物に小倉の帯、盲縞に真田紐の前垂をつけて、主の代わりに店頭に立ち、仕入れ、販売、記帳などを仕切る「○○助」さんが多い。番頭になった三十代に、妻帯が許されやっと所帯がもてる、住み込みから通いとなる。

番頭としての勤務が終わると、元手金を貰って独立したり、暖簾分けをしてもらう幸運な場合もある。この場合は同じ屋号を用い、同じ暖簾印を掛ける事ができたので、商売をする上で大きな信用となった。一軒の自分の店を持ち、主となると「○○衛門」となる。

また、運よくその店に跡取り息子がいなく、また息子がいてもどうしょうも放蕩息子の場合は、店の子飼いの一番優秀な者が婿に選ばれ、その店の娘と一緒になった。「店は主のものと思うべからず、店を譲り受け、また譲り渡すまでの、三十年間の奉公人だと思うべし」と教えられ、三度の食事は従業員と一緒に座り、メニューも普段は御飯と沢庵、おかずは一日と十五日の荒神様の日だけという店も少なくなかった。主(あるじ)と云っても使い勝手のいい、しかも給料も要らない、文句もいわない、絶対に辞めない、体(てい)のいい番頭であった。

こうした様に、お店奉公は自由な結婚は許されず、年令、地位に達しやっとと思っても、好きな奉公先の江戸娘とは結婚できず、自分の出身地の地元、関西からの娘をあてがわれた。大名が「参勤交代制度」によって、自分の妻子を江戸に軟禁状態におかれたのと、同じ仕組みである。商人版参勤交代である。

やっとの妻や子供との家庭生活は望むべきもなく、妻子は地元、本人は江戸勤め、会えるのは正月の休暇のみ、これは大名と同じく、本人が事故、事件を起こした場合や、それを誘発させない抑止力として、家族を地元へ置いておき、店の担保としたのである。

少し前の高度成長期にも、企業の為に家族を犠牲にして寝ずに働いた「企業戦士」が沢山いた。結果はどうであったろうか?定年間際の肩たたき、本人の病気、事故、過労死であった。無事勤め上げても、待っていたのは奥様からの「離縁状」。定年まで長い間仕事にかまけて、「飯、風呂、寝る」を繰り返してきた見返り、つけがこれであった。

「新肴町」

古くは八重洲河岸にあった「老月村」という漁村の一部であった。八重洲河岸は和田倉門外の御堀端にあり、家康入府前は漁師の住まいのみで、その後、日比谷町と云われた肴店が多い町屋となっていった。慶長年間(一五九六~一六一四)以降、町屋となり次第に魚市場として賑わいだしたのが町名のおこりとされる。

寛永五年(一六二八)日比谷御門修築となり、数寄屋橋御門の東、西紺屋町を隔ててあった町で、現在の銀座並木通りを挟んだ位置(現銀座三丁目)に移転している。「弓町」などと共に丸の内と同じく、御城内の町という意味で「内町」の俗称があった。

「駿河町」

この町名の由来は、広重や「江戸名所百景」でもお馴染みの、富士山の眺望がきく景勝の地であった。他に江戸初期、家康の故郷駿府の商人達が、この地で商売していたことからによるが、駿府の商人達は何故か撤退している。また、江戸期は西の本両替町とともに、「両替町」とも俗称され、通りを挟んで三井呉服屋が店を構えていた、

 日本橋から北側の地域は、三井越後屋など伊勢出身の商人の店が、南側の地域は白木屋、西川など、近江出身の商人の店が多く住み分けをしていた。その伊勢商人の代表的な呉服屋が三井越後屋である。

延宝元年(一六七三)伊勢松坂出身の当時五十二歳の三井高利が、本町一丁目に間口一、五間(約二七〇cm)の店を出したのが始りである。近隣の店の間口は二十間あったというが、その頃は常磐橋界隈で、竹さおをハンガー代わりにした、竹馬と呼ばれる道具に、商品を掛けての商売人もいた。

 元和三年(一六八三)、本町開店から十年目、火災にあい現在の室町二、三丁目に移転。現信託銀行側が、京呉服を商う「本店」で間口は三十五間。「する賀てふ(この地名は江戸期より昭和七年迄)」の通りをはさんだ、現三越側は「向かい店」、間口は二十間半、綿や麻織物など太物を、朝五ッ(八時)から暮六ッ半(七時)まで営業。濃紺に「丸に井桁に三」を白抜きにした暖廉、海鼠壁、べんがら格子、銅の雨樋の店構え、後ろに見える富士山と絵になった。

「風景画 絵になる処は 富士を入れ」

当時の商法は、得意先を回って注文をとり、品物を届ける「見世物商い」や、得意先に商品を預けておいて、選んで貰い残りを回収、代金は盆と暮の年二回の売掛の商売をしていた。この商法は資金が半年、若しくは一年回転しなくなるか、回収不能となるリスクを抱える事になる。売る側としては当然そのリスク分を販売価格に転嫁した。

このリスク分を回避、その資金の金利分を除いた価格で販売したのが、三井越後屋の商法である。いわゆる「現金掛け値なし」「店先前現銀売り」の定価販売である。京本店で仕入れた品物を、江戸へ運び店頭で販売、その資金でまた商品を仕入れる、無駄のない資金ぐり、在庫をおかない商品管理を成り立たせた。他の店舗に先駆けた商法が、周りの店と折合わず、移転を決めた原因のひとつともいわれる。

この他に、着尺をユーザーの希望により切り売り、残りを十一月になると「小裂売り」としてセールしたり、販売した商品が着て帰れる様に、二刻(四時間)程の間に仕立てる(その待ってる間は勿論他の商品を勧める)、また、顧客に対して決められた店員が当たり、馴染みの客になってもらい売り上げを伸ばす等、あらゆる戦略を用いた。

「越後屋の きぬさく音や 衣替え」

貞享四年(一六八七)幕府御用達の呉服所、両替商、不動産の賃貸など、経営の多角化にのりだし、宝永七年(一七一〇)には、総資産の約四十五%を、町屋敷の賃貸経営が占め、小売り、金融を支える大きな基盤に成長している。

井原西鶴の「日本永代蔵」によれば一日の売上約一五〇両、傍は一日千両の「日本橋魚河岸」。その後、三井、住友、鴻池などの商家では「始末、才覚、算用」をモットーに堅実経営の基調を維持し、商売を伸ばしていき、江戸っ子たちに、

「駿河町 畳の上の 人通り」 「駿河町 呉服より外 用はなし」 などと詠まれた。

「多町/須田町」

江戸近郊での農産物の産地は、低地と台地に分けられ、これらで生産された青物は、「朝市」などの市場で販売された。江戸初期では駒込、四日市、神田多町などがその市場であり、寛文四年(一六六四)になると、京橋川北岸に「大根河岸」が創設、天保年間(一八三〇~四四)には、千住市場が開設されていく。また、「竹町の渡し」の駒形橋側にも、青果市場が開設され、葛西からの舟荷を取り扱った。

伊勢の大神宮に稲の初穂を奉納する「御田」があった「田町=多町」は、慶長年間以前は田や畑であった処で、埋立ての初期は[田町] 後に「神田多町(現在二丁目は住民の反対運動で存続しているが、一丁目は住居表示で消滅)」となった町である。古くは「メッタ町」ともいったこの町は、埋田町が転訛したものといわれる。

「明暦の大火」後に、連雀町や左柄木町と併せて「青物三ヶ町」と呼ばれ、神田川、日本橋川などに囲まれた水運に恵まれ、多町二丁目には寛延年間(一七四ハ~五〇)より、青果市場が毎日開かれ、文化十一年(一八一四)の記録によれば、青果問屋九十六軒、水菓子屋二十七軒、昭和の初期までは神田野菜市場の中心地であった。

「八ッ辻」の広場の筋違御門に面していた「須田町」は、文化年間(一八〇四~一八)に、野菜市場から水菓子市場に移行、更に明治十五年になって、野菜市場とここが統合され神田市場となっている。因みにフルーツを江戸では水菓子、関西では果物と呼んだ。

なお、青果市場と同義語に「やっちゃば」という言葉が使われるが、大根河岸の関係者によると、大根河岸でも神田市場でも決してやっちゃばとは云わないそうである。「やっちゃ」という言葉は、野菜、果物をセリにかけ、売買され値段が成立した時に「やっちゃえ」といった処からでた言葉で、大根河岸、神田市場の両市場は「セリ売り」ではなく、「相対」の売買であった為、ここは「やっちゃば」とは呼ばないのが、その理由であるという。

「通町」

「通町」とは目抜きの大通りとか、目抜き通りに沿った町筋を意味するが、江戸期の「通」一から四丁目は、日本橋から京橋に向かった両側町で、東海道の最初の区間である。昭和四十八年、町名変更により消滅、日本橋、江戸橋二町と合併、現在は「日本橋」一から三丁目が、日本橋南詰からふられている。江戸期は、日本橋南詰から中橋広小路に至るまでの大通りの両側町であり、一から四丁目があった南北に細長い地域であlった。町の起立は慶長八年(一六〇三)とされ、その名の由来は、東海道の起点、日本橋南の本通りという意味であり、「大通り」とも呼ばれ、単に「南」ともいわれた。

「本町通り」と共に江戸髄一の商業町であり、またこの先の南伝馬町と共に、交通が煩雑な商業街で、瀬戸物、書物、畳表、砥石などを扱う問屋が多かった。一丁目には白木屋、西川、塩瀬、須原屋、二丁目には山本山などの老舗が並んでいた。井原西鶴の「世間胸算用」には「通り町のはんじゃう 世に宝の市とは 爰の事なるべし」とある。

日本橋南詰東岸から、京橋方向へ進む道筋の交差点の手前に店を構えているのが、近江商人「西川」である。湿地帯や掘割が多い江戸の町で、灯りをつけると寄ってくる虫対策として、萌黄色の蚊帳を売り出しヒットさせたのがこの店である。蚊取り線香と蚊帳のセットは、少し前まで東京下町の風物詩であった。

その先、通町筋と今の永代通が交差する、日本橋交差点角は、寛文二年(一六六二)通り二丁目に江戸店開業、同五年に通り一丁目(コレド日本橋)に店を移転した「白木屋」である。この店は近江長浜の材木商、大村彦太郎が当初間口一間半の小間物屋を開店、次第に呉服物と手を拡げていった。「商いは高利を取らず、正直に良きものを売れ」をモットーに、江戸三大呉服店に成長させていった。

また、飲料水に恵まれなかった江戸において、二代目彦太郎が観音像と一緒に、名水を掘りあて「白木屋の名水」とうたわれ、企業のPRの先端をいったが、昭和七年、四階セルロイド玩具売り場から出火、死者十四名のうち十三名が女性店員、当時和服が制服であった大和撫子が犠牲になり、これを契機に高層ビル火災対策が見直される事になる。

なお「通町筋」は、筋違橋(八ッ辻)から神田須田町を通り、今川橋、日本橋をまたぎ、南へさらに進み、紅葉川跡の中橋広小路から京橋、新橋と進み、金杉橋辺りまでの惣名であり、道幅が十ニ間あった為「十ニ間」とも呼ばれた。「筋」とは南北に流れる道筋、「通」とは東西をつなぐ道筋である。更に、「金杉」という地名は港区以外にも、文京、台東や千葉、埼玉にもみられる地名で、「金」は「金尺」が示す様に曲がった所、「杉」は川などで削られた所といった、意味合いを持つ地名である。

「通旅籠町」

大伝馬町や小伝馬町に接し、旅籠が多かった事に因む。寛永図では大伝馬三丁目になっているが、のち「旅籠町」となっている。ここに立地した大丸は、享保二年(一七一七)、京の古着屋下村彦右衛門が、伏見に「大文字屋」呉服屋を開店、これが大丸の創業となる。

次いで名古屋にも支店を出した後、寛保三年(一七四三)江戸日本橋大伝馬町三丁目(通旅籠町)に、間口三十九間の江戸店「大丸屋」を開店、その軒先の看板には「げんきんかけねなし、呉服太物類、下むら大丸屋」、三井越後屋と同じ商法であるが、越後屋を凌ぐ勢いであったといわれる。

初代は江戸店開店の五年前、同業者に自分の店の商標を染めぬいた風呂敷を配り使って貰い、その人々によって自然と歩く宣伝に結び付けたり、同じ理屈で雨の日は、大丸マーク入りの貸し傘が街を闊歩、雨の日も道行く人々によって、自然と宣伝につなげたアイデアマンであった。

天保八年(一八三七)、大坂で大塩平八郎の乱が起きた時は、「大丸は義商なり、犯すなかれ」と、焼き打ちを免れている。明治四十三年、東京駅の開業により交通網が変化、これに伴う立地条件の悪化により、江戸(東京)店を閉め、昭和二十九年東京駅八重洲口に新たに新店舗を開店した。

現在八重洲通りを凬の道として、東京湾の海凬を皇居の森に吹き入れ、結果森のオゾン(O3)を周辺に拡散、都心の気温を下げようとする、遠大なエコ計画を進めるべく、店舗は東と西の二つに分かれて建設され、都心の環境改善に一役買っている。

「本石町」

江戸初期、米穀商が多く住んでいたことに由来、寛文年間(一六六一~七三)、神田に新石町ができ、ここは「本石町」となっている。西から東に一から四丁目があり、三丁目に「石町時の鐘」があった。近くに住んでいた与謝蕪村は、この鐘撞堂の下でしばしば句会を開いていたという。

この裏側には鎖国体制のもと、キリスト教の布教をしない事を条件に、江戸幕府と交易していた、欧州唯一の国オランダの東インド会社カピタン(商館長)が、長﨑出島から江戸へ参府の際、定宿として宿泊していた「長﨑屋」があった。

「石町の 鐘はオランダ まで聞こえ」

この鐘は宝永年間一七〇四~一一)の鋳造のもので、現在は十恩公園に残されている。

「本町」

江戸開府以前は「福田村」「洲崎」と呼ばれ天正日記によると、入府直後の天正十八年(一五九〇)九月、地割を行った町地で、「大手門」の真東の位置となる。江戸期を通して「常盤橋御門」から東へ一から四丁目があり、一丁目には金座、枡座がおかれ、ここは奈良屋(舘)、二丁目は樽屋、三丁目に喜多村と、三人の「町年寄」が江戸の自治を担当した。四丁目は薬種問屋や土産などを扱う、各種問屋が店を連ねていた。二丁目に住んでいた式亭三馬は、本町庵と号した店で「江戸の水」などの化粧品を売るかたわら、戯作を書き、その商品をしっかり、やたらとPRしている。

江戸町人の自冶は、①運上金の取り立てや店賃の集金、②上下水道の取り締まり、③法令の読み聞かせ、④人別町による住民の管理、⑤自身番による町の保安管理などが行われたが、そのシステムは南北両奉行を頂点に、三人の町年寄、以下名主に大家(家守)、二十人程度の長屋に住む庶民が、ピラミット型に構成されていた。

因みに江戸時代「町人」と呼ばれた人々は、町入用(税金)を負担した地主、家持ち層の人々を指し、これらの人々に自冶権が認められていた。江戸時代を通して約四〇万人を占めていた長屋の住民(店子)には、その権利は認められていない。

江戸期の「本町通」は常磐橋御門から、東西に本町一から四丁目を過ぎ、人形町通りをまたぎ通旅籠町には大丸、南北に通ずる「大門通り」を越すと「通油町」、この町に地本屋の蔦屋と絵草紙屋の鶴屋が向かいあって店を開いていた。ここまでが東西に道幅七間の「本町通」である。「浜町川(堀)」の橋を渡った先が「通塩町」、この先の「横山町」から「浅草御門」までが「横山町通」となり、「浅草御門」まで通じていた江戸期から明治初期にいたる目抜き通りであった。

昭和七年、震災復興事業の区画整理により、本石町、瀬戸物町、伊勢町、安針町、本小田原町、大伝馬町などを合併して本町一から四丁目を起立、以降現在の本町は、「江戸橋」を基点として一丁目、ここから北へ二、三、四と続き、江戸時代における常盤橋からの基点とは、ガラリと変わった住居表示となっている。

「室町」

開府間もない頃は、葦や茅が生えていた小さな地域であった。それまであった村を、新鳥越村に移して町屋を開いた。「室町」の名の由来は、①江戸城真東正面の町にふさわしく、京都室町の名称を用いた、②豪商の蔵(室)が沢山立ち並んでいた、③村と同義語の「むろ(古語)」を用いた、④多くの人々が集まる場所=むれまちから、室町に転訛したともいわれている。

一丁目西側には、慶長十年(一六〇五)江戸城増築の際、泉州堺の塗り物商、尼ヶ﨑又右衛門(利右衛門とも)が石船百槽を献上、その褒美として拝領した尼ヶ﨑町と云われ、俗称された「尼店」があった。三丁目の横丁は「浮世小路」。ここは浮世ござといった、畳表を売っていたとか、湯女がいた浮世風呂があったから、この名がついたと云われている。明治元年東京府に所属、現行は日本橋室町一から四丁目である。因みに「浮世」とは、長い戦国時代がおわり,平和なこの世(現代)を楽しむ事を云う。


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