9 幕府を支えた 「江戸公務員」 の町
大手町/丸の内/霞ヶ関/辰ノ口/永田町/駿河台/郡代屋敷/代官町/
御徒町/牛込御留守居町/御箪笥町/牛込御納戸町/牛込御細工町/
御切手町/餌取屋敷/御掃除町
「大手町」
大手とは城の正面、家でいうと玄関であり、大手門とは本丸への正門を意味し、勅使や将軍の出入りなどに使われた。内桜田門、西の丸大手の御門と共に江戸城の重要な門であった。為に江戸時代は大手門の前面にあたる大手町は、幕閣にあたる親藩や譜代大名の上屋敷がおかれ、播磨国姫路藩酒井家、越前福井藩松平家、出羽鶴岡藩酒井家等である。
慶長十一年(一六〇六)藤堂高虎が縄張りをし、元和六年(一六ニ〇)伊達正宗が延べ約四十二万三千人の人夫を使って、左右十三丁の石垣と枡形を改修、警備には十万石以上の大名があたった。鉄砲三十丁、弓十丁、長柄二十丁と厳重なものであった。明治五年これらの屋敷と、道三町、銭瓶町や永楽町等が合併して、大手町一、二丁目が起立されている。
「丸の内」
「丸」は城郭を意味し、その内側と云う事からこの名がついた。江戸城の外郭が完成したのは寛永十三年(一六三六)で、この名はそれ以後のものと思われる。堀で囲まれた城の内側、城郭(曲輪)の内側を指し、地方によっては「堀の内」と呼ばれ、城の周りの広範囲地域を指している。また、「丸の内」は全国の城下町に存在する地名で、「丸」は「曲輪」と同義語である事から、城の堀に囲まれた御曲輪内を指した。
江戸の丸の内は、維新後は練兵場、それ以降は三菱に払い下げられ「三菱村」、ここがオフィス街になるのは、明治三十年代以降である。昭和四年に初めて町名として登場する丸の内は、大手町、八重洲町、有楽町等の各一部を合併して作られた町である。
「夕立を 四角に逃げる 丸の内」
「霞が関」
ここは中世の頃から、歌枕に詠まれる程の景勝の地であり、「霞ヶ関」「霞の関」とも書かれ、江戸時代の俗称地名で、外桜田門の南方一帯の地域を指し、譜代や外様の雄藩の、上屋敷がおかれていた。
延宝年間(一六七三~八一)の絵図、及び広重第二九景「霞かせき」によると、坂の向こうは江戸の海、右側が筑前福岡藩黒田家五十二万石、左側が安芸広島藩浅野家四十二万六千石のそれぞれの上屋敷で、この両家は幕末まで屋敷替えはなかった。これらの間の坂名になっており、現在は我が国の官庁街の代名詞となっている。地名の由来は、荏原郡の東の境を通っていた、奥州古街道の関所名による。日本武尊東征の際に、蝦夷に備え設けられたもので、大和からは「かすみの彼方」の地であった。
「辰ノ口」
「和田倉御門の東、御溝(おんほり)の余水を落とす。このところまで潮さし入りあり」、その昔は蒲生氏郷の宅地があったとされる。また、辰の口、虎の門、梅林坂、竹橋を合わせ、営中の竜虎梅竹と称した。江府名勝志には「和田倉御門外也、御堀の余水の流也、余水を落とす石製の吐水口を辰ノ口と称す」とあり、慶長十六年(一六一一)伊達正宗が築造したとされる。和田倉門外に設けられた江戸城の余水の吐水口で、内堀の水が石造りの樋口から内堀に下落ちる水が、あたかも龍が水を吐いている様に見える為、この名がついた。
大手門が陸の玄関とするならば、和田倉門は海の玄関口であった。外洋から搬送されてきた物資は、ここの蔵に納められた。また、辰ノ口には、「江戸生まれの将軍以外は船に乗せず」という習慣があり、紀州生れの八代吉宗は、両国橋の御揚場を利用させられ、その都度悔しがったという。
寛文六年(一六六六)、辰ノ口の近くにある勅使下向の際の、宿舎「伝奏屋敷」の隣に、現在の最高裁判所ともいうべき「評定所」が新築された。評定所では幕府最高の司法機関として、国の大事にいたる決議は老中、大目附、目附らの最高幹部に加え、寺社、勘定、町奉行が参画して裁定された。辰ノ口の近くにあったことから「辰ノ口評定所」とも呼ばれた。万治年間から寛文年間(一六五八~七ニ)の「伊達騒動」や、安政五年(一八五八)におきた「安政の大獄」、万延元年(一八六〇)の「桜田門外の変」など、政治的事件がここで裁定された。
明治五年、和田倉門内にあった、陸奥会津藩松平(保科)肥後守二十三万石の上屋敷から出火、丸の内、八重洲、銀座、築地まで焼き尽くす「銀座の大火」となり、隅田川でやっと鎮火している。この地域は以降、建物の不燃化のため、煉瓦街などが造られていく。
「永田町」
本来は「長田町」、細長い田があった、自然発生的な地名である。外桜田門の西側にあり、山王権現(日枝神社)の門前を占める、武家地一帯の汎称で町屋はなかった。
永田町の地名の由来は、「永田馬塲」からきているといわれ、かってこの辺りに厩があったとされ、また、寛永年間(一六二四~四四)には、永田馬場神社門前に永田姓の家が三家あり、これからだといわれるが、どちらも定かではない。永田馬場山王前が日枝前町になり、明治二年、この町と周辺の武家地を併せて「永田町」が起立している。
「駿河台」
「昔は神田の台といふ、このところより富士峰を望むに掌上に視るが如し、故にこの名ありといへり」、また一説に「昔駿府御城御在番の衆に、賜りし地なるゆゑに号すといえども証としがたし」とあるが、「駿河台」という地名は、家康が死去した元和二年(一六一六)の十年前あたりからあったとされ(新撰神田誌)この説も信じがたい。
つまり、家康が秀忠に将軍職を譲り、駿河で余生を過ごした時期に仕えていた家来達が、家康死後江戸に戻り、この辺りに住んだ事から、つけられたとされるが、その以前にこの町は存在していたという事になる。また、もう一説があり、家光弟,駿河大納言忠長の屋敷が、ここにあった為とされるが、忠長の屋敷は田安門先とされている為、これも信じ難い。
この地は古くは本郷台地の南端部を占め、江戸時代は「神田山」と呼ばれた台地の南端にあたる地域で、台地上は旗本屋敷が立ち並び、下は青果市場や古着市場であった。家康は日比谷の入江を埋め立てるために、元和六年(一六二〇)本郷台地を開削、神田川を造成、平川からの水を神田川、隅田川へと流した。これが江戸城の北側の外堀の役目を果たす事になる。
この掘割を担当したのは奥羽仙台藩伊達家、「伊達堀(仙台堀)」によって分断された本郷台地の南の先端部が駿河台となる。この台地の坂下が神保小路、現在の古本屋の町、神保町である。
駿河台とは、そもそもは小川が低地へと、流れ落ちていく様を意味するという.全国駿河台の関連地域は、高い所から低い所へ流れる川の場所にある。埼玉県入間郡上下駿河台、神奈川県大和市上草柳駿河台、千葉県船橋市駿河台などがそれである。
「郡代屋敷」
家康が入府時に、伊奈忠次が代官頭に任命され、十二代にわたり勤めた屋敷である。当初常磐橋御門内にあったが、明暦大火後、初音稲荷の北東部(現馬喰町二丁目付近)に移転してきた。伊奈氏は十二代目の時に改易、その後勘定奉行が兼任、馬喰町御用屋敷と改称され、この職制は慶応三年(一八六七)廃止されている。
郡代とは一般には領主に代わって徴税、司法、民政などの職務を、十万石程度の広い単位で担当した地方行政官であり、幕府であれば「幕領」(御領、御蔵入りとも云われ、維新後は「天領」と呼ばれた)を管理した。
この幕領、開府の頃は二百万石程度であったが、相次ぐ諸大名の改易(取り潰し)や転封によって、元禄末頃(一七〇三)には、倍の約四百万石に増加、金子にして約七十万両の収入、天保年間(一八三〇~四三)には、全国石高三千五十五万石の約十三、七%を占めるに至っている。
江戸中期以降、関八州、近畿や東海の道筋、西国や長﨑などの流通経済の中心地、出羽、越後の米処や、佐渡、石見、生野などの鉱山、美濃、飛騨などの木材集散地を統括、代官と職務内容はほぼ同じであったが、支配地域は代官が約半分の五万石程度の土地を担当した。関八州を治める関東郡代は伊奈氏、越後長岡藩の郡代には河井継之助がいた。
神田川、浅草御門の内側にあった郡代屋敷は、関八州の訴訟を取り扱ったが、そこにやってくる人々が宿泊する宿「公事宿」が、馬喰町界隈に旅籠街を形成、訴訟待機中の在の人々はここを起点として、四里四方の日帰り旅「江戸四日廻り」を楽しんだ。国への江戸土産は軽くてかさ張らない浅草海苔や切絵図、美人が描かれている浮世絵が好まれた。
「代官町」
江戸城田安御門の右側が田安家、左が清水家、つき当りに朝鮮馬場の植溜があった。その先の北の丸公園の内堀沿いから、半蔵門にいたる地域が「代官町」で、この地名は昭和四十二年消滅、現在は千代田区北の丸公園、九段南一から二丁目となっている。
この地のいわれは家康が入府の際、関東総奉行内藤清成など、幕府直轄地(幕領)を支配する、諸代官の拝領屋敷としたためといわれる。ここはもともと農家や寺院が散在していた田安村と呼ばれていた台地で、御城を構築の為これらを牛込方面に移転、代官町を起立した。
寛永年間(一六二四~四四)には、駿河大納言忠長(家光弟)や、天樹院(家光姉、千姫)、春日局の屋敷などに混じって旗本屋敷があったが、明暦の大火により移転、幕末までは田安家や清水家の、御三卿の上屋敷が置かれた。維新後,近衛歩兵営用地となり、現在は北の丸公園となって、都心の貴重な空間を提供、千鳥が淵から眺める春の櫻は、城の石垣に垂れさがり見事である。
因みに悪代官が通り相場の「御代官様」は、「郡代様」と同じく、江戸時代の地方公務員で旗本が就任、勘定奉行の支配下におかれ、職務も郡代と同じく全国の幕府直轄地の租税の徴収、民政、訴訟を取り扱い、郡代が十万石の天(幕)領を支配したのに比べ、代官は約半分の五万石、また報酬も年棒四百俵に比べ五十俵と少なかった。
「御徒町」
御徒とは徒歩で行列の先頭を勤めたり、江戸城内を警備する将軍直参の幕臣(御家人)をいい、御家人が拝領した屋敷町を「御徒町」と呼んだ。明治四十四年までは、下谷を冠していた上野御徒町は、三代家光の頃から幕府御徒組の屋敷地となり、御徒町とか単に徒町と呼ばれた。職制上俸禄が少なかった為、内職をする者が多く、文化文政年間(一八〇四~二九)には、変わり朝顔や変化朝顔等が栽培され始め、一躍朝顔の一大名所となっている。これが現在の「入谷朝顔まつり」につながっている。
一方、四谷の御徒町は、古くは豊島郡野方領牛込村に属し、天龍寺の寺地であったが、天和三年(一六八三)新宿追分に移転、北、中、南からなる御徒町と総称された。
「牛込御留守居町」
御留守居役は、奥年寄と呼ばれた老中直属の要職であり、将軍が城を明ける時、留守居をする役職である。この職は旗本最高の役職であり五千石高、大奥の取り締まりや火事などの非常立ち退き処理、諸門出入りの切手、諸関所の女切手の吟味など、諸々の職責を担った。
「御箪笥町」
箪笥といっても、現代でいう引出しのついた衣装収納ケースではない。江戸幕府の刀、槍、弓、弾薬など戦闘具を総称して「御箪笥」と呼び、それらを司る具足奉行、弓槍奉行やその家来等が拝領した屋敷町を「御箪笥町」と呼んだ。
秀吉朝鮮の役の際に、鉄鉋玉薬奉行榊原氏が拝領した「四谷御箪笥町」は、現、四谷栄町の一部で、この他に明治四十四年まで下谷を冠称していた、「下谷御箪笥町」は現、根岸三丁目、「麻布御箪笥町」は六本木の一部となっている。また、牛込を冠した「牛込御箪笥町」と「牛込肴町」の間の道は非常に狭く、「袖摺坂」「乞食坂」と俗称で呼ばれていた。
「牛込御納戸町」
将軍家の金銀や衣類、調度品の出納、各大名や旗本達の献上品や下賜品、四季施しなどの出納管理する役職を「御納戸」と呼んた。御納戸頭は若年寄の支配で、将軍の身のまわりの世話や散歩の警護も担っていた。
このうちの下賜品だけを専門に取り扱っていた役職を「払方」とよび、集住した町を「払方町」と呼んだ。
「牛込御細工町」
大工に対する言葉を「細工」といい、手のこんだ細かなものを製作することをいう。「御細工方」は若年寄直轄の役職で、朝廷への献上品や、殿中の調度品、用具の調達を行い、細工所は本丸内にあったが、天和二年(一六八二)大火のため、天龍寺が内藤新宿に移転したのち、その跡地に「御細工方同心屋敷」が建てられている。以上の町々に牛込の冠称がついているのは、これらの町が「牛込御門内」にあった為である。
「御切手町」
「切手」とは、関所の通行、屋敷の出入、埋葬などで必要とされた各種の鑑札(許可証)を指した。また、酒、鮨、菓子など、現物に代わって、進物や贈答用に使われた商品券なども指し、これらの発行、管理を業務とした。この業務の他に、江戸城大奥の裏門である「七っ口」を守備して、通行を監査する仕事も兼ね、「裏門切手同心」の組屋敷が置かれた事に、この町の名が由来している。
「下谷御切手町」は寛永元年(一六二四)、御切手同心の屋敷地となり、元禄十二年(一六九九)に町屋となり、現、台東区上野七丁目から下谷一丁目にかけてあった町である。もうひとつの御切手町は、明治になって千駄ヶ谷仲町、現、渋谷区千駄ヶ谷四から五丁目にあった拝領屋敷で、ここから職場である「四谷大木戸」まで通勤していた。
「餌取屋敷」
享保三年(一七一八)神田八名川町の一部が、鷹狩りに用いられる餌取り請負人の拝領屋敷となり、「神田餌取屋敷」と呼ばれた。此の辺りは俗に「向かい柳原」と呼ばれていた処で、東には幕府籾蔵、南側は神田川沿いに八名川町があった。
切絵図に「コノ川岸ヲ浬俗ニ左エ門川岸ト云」とあるのは、近くに出羽鶴岡藩酒井左衛門尉の下屋敷があった事による。
「御掃除町」
「渋谷御掃除町」には、芝増上寺の御霊屋付の掃除役に与えられた拝領屋敷が、江戸期から慶応四年まであった.元地は芝増上寺の裏の芝岸町(現、西麻布二丁目辺)であったが、宝永六年(一七〇九)渋谷に代地が与えられた。
また、吹上御庭の掃除役の者が、堀田出羽守屋敷跡を拝領した「吹上御庭拝領屋敷」があり、この他に、麻布笄(こうがい)町、小石川伝通院、家康に従った三十人の者に大縄地として与えられた「青山御掃除町(現、赤坂七丁目辺)」や白山大権現前等、大きな寺院や墓地の側に起立されたものが多い。
他に公務員の町として、「御炉路町」もある。ここの町の人々の仕事は、茶屋や庭の管理を担当、御数寄屋懸り衆であったため、俗に「御数寄屋町」とも呼ばれ、外堀普請のため御茶の水から青山に移転しているが、この町名は明治二年に消滅している。
以上、江戸公務員の町、今でいう「公務員宿舍」となった拝領屋敷を紹介してきたが、江戸の頃、田舎的場所であった所が、現代では庶民が何代かかっても手の届かない一等地になっている場所が多い。
江戸の頃も、拝領屋敷を尻目に庶民は、本所、深川、四谷辺りで、九尺二間の陽当たりの期待出来ない賃貸住宅で、生活を強いられてきた。現在の庶民もマイホームを夢見て、満員電車に押し込められ、勤労の限りを尽くしている。
日本の国は狭い、加えて一極集中型の政治経済体制である。苦労をもって払い終わる頃が、自分の終る頃。持てる者と持たざる者の、格差が拡がる一方である。現在の東京において、広さは今時の2LDKで、家賃が江戸並の一日分から二日分の労賃でと、真夏の夜の夢がうつつになれば、人間が本来の姿に戻り、労働の強化、貧しさからのいきどうりも消え、下手な事件も減少、子供達も三丁目の夕陽を見る事が出来るが、国民の方に顔に向いてない、自己の損得や虚栄に絡んだ現在の政治体制では、甚だその期待はもてない。
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