8 影の内閣 「大奥由縁之江戸之町」

江戸城大奥/伝通院/於万河岸/初台/戸山、戸塚/小石川春日殿町/

護国寺、護持院ヶ原/音羽/木挽町六丁目/赤門/桜田御用屋敷

大奥の主人は御台所である。彼女たちは原則として、公家の最高の家柄である摂家(近衛、鷹司、九条、二条、一条)、若しくは、宮家(伏見宮、閑院宮、桂宮、有栖川宮)出身の娘たちであった。七代家継と十四代家茂には、天皇家から内親王が嫁いできた。家継の場合は僅か四歳で将軍になったため、その権威を補うため、家茂の場合は公武合体によるものと、当時の政治情勢による結婚であった。例外として、十一代家斉と十三代家定は薩摩藩島津家から正室を迎えているが、これも近衛家の養女にする事で、原則を貫いている。

「江戸城大奥」

江戸城は外郭の規模が南北約一里、東西約一里半、日本最大のお城である。長禄八年(一四五七)大田道灌が築城、天正十八年(一五九〇)家康入場、本城(本丸、二の丸、三の丸)と西の丸、紅葉山、吹上御殿、西の丸などを増築、更に本丸御殿は「表」「中」「奥」と区分され、表と中奥は続きの御殿であり、大奥はこれらと切り離され、銅塀で仕切られていた。中奥と大奥を繋ぐ廊下が「お鈴廊下」と呼ばれ、大奥は大別して、「広敷向」と奥女中の住居である「長局向」、「御殿向」に区画されていた。

家康の時代、表、奥の境界はなく、表は政治を行う場であり、奥は城主とその家族の生活の場であった。元和四年(一六一八)壁畫を制定、将軍の正室、子女、側室、奥女中達が生活した大奥が存在し始めたのは、二代秀忠の時代からであり、以後、本丸は幕府政庁の「表」、将軍が政務を執る「中奥」、将軍の私邸である「大奥」に区分された。更に家光の時代になって、乳母春日局により組織的な整備がなされ、現在知られている形式に整えられていく。

慶応四年(一八六八)四月、江戸城明け渡しとなり、大奥は終焉をむかえる。大奥の主であった天障院篤姫は、島津斉彬の養女から更に近衛家の養女となり、十三代家定に嫁ぎ、幕府の終焉をむかえる。戊辰戦争における東征軍の江戸城攻撃の際、部下の西郷に書状を送り、徳川家の安泰と江戸の街を戦火から守る様に伝え、一橋の屋敷から明治政府が用意した、千駄ヶ谷の徳川宗家へ移住、十六代家達を引取り、英才教育を施した。

また、自己の所持金をさいて、元大奥関係者の再就職や婚活に奔走し、国元からの支援を断り、故郷鹿児島へ帰る事はなかったという、篤姫が使用していた部屋が現在、横浜総持寺に移築され、応時を偲ぶ事ができる。女性には惜しい英傑であった。

皇女和宮は「公武合体」の政策のもと、文久元年(一八六一)江戸に降嫁、十四代家茂と結婚。夫家茂は第二次長州征伐の最中大坂城で急死、わずか四年の結婚生活でしかなかった。長州征伐に赴くさいに約束した西陣織が、夫の死後京から送られてきた時に詠んだ、

「空蝉の 唐織衣いかにせぬ 綾も錦も 君ありてこそ」

に深い夫への愛情がうかがわれる。

江戸城明け渡しに際し、元許婚であり東征軍の司令官有栖川織仁親王に、嫁ぎ先の江戸の町を戦火から守る様要靖、維新後暫く京に戻っていたが、再び上京、体調を崩し箱根塔の沢で、脚気からくる心不全の為死去、三十二歳であった。

昭和三十三年から五年かけて、増上寺で墓所の改葬が行なわれた。静寛宮は質素な衣装で、一枚の写真を抱いて眠っていたという。その写真の主は若い男性だったというが、発掘時の不手際で感光、正体不明となってしまった。短いが幸せであった夫婦生活の続きをあの世でもと、願った和宮の遺言であったものと考えられる。歴代将軍家の中で、夫婦仲良く墓碑が並んで建っているのは、十三代家定夫妻と十四代家茂夫妻の二組だけである。

十五代慶喜の御台所は一条美賀子、目が大きく口元が小さい愛くるしい顔立ちの女性である。慶喜とは疎遠の期間が長く、夫が長く京に滞在していたため、大奥には入らず一人暮らしをしていた。

維新後の明治二年、静岡市紺屋町で久々に、二人で暮らしはじめるが、夫は相変わらず他所の女性と忙しく、生れた子達を引取り養母となって頑張った。明治二十七年、家達の千駄ヶ谷の屋敷で死去、六十歳。墓地は歴代将軍が、寛永寺か増上寺であるが、慶喜、美賀子夫妻は谷中の墓地にある。

「伝通院」

通称「小石川伝通院」は「無量山傳通院寿経寺」、家康生母、於大の方の法名「伝通院殿」に因んでつけられた。この寺,草創は室町期の応永二十二年(一四一五)了誉上人の開山とされ、増上寺や寛永寺と並ぶ江戸の三霊山のひとつ、関東の十八檀林(僧の仏教学問所)の上席として、千人もの学僧が修行していた。「於大の方」はじめ「千姫」、三代家光の御台所「孝子」など、徳川家ゆかりの人々が眠っている。

於大は三河刈谷城主水野忠政の娘、天文十年(一五四一)十四歳の時、岡崎城主松平広忠(十七歳)と結婚、翌年家康を産んでいる。その後水野家が織田方に接近した為、天文十三年、夫と子をおいて離別、子、家康(竹千代)は六歳で織田家の人質となり、更に八歳になると今川家の人質になり、この状態が十九歳まで続いている。

離別した於大は、尾張国坂部城主久松俊勝と再婚、三男四女をもうけている。息子、家康は慶長七年(一六〇二)関ヶ原勝利の後、生母於大を京の伏見城へ招くが、その年の八月この世を去っている。七十五歳であった。翌八年は江戸幕府が開かれた年である。

家康の孫、二代秀忠の長女「千姫」は、豊臣家との政略結婚の為、七歳で十一歳の秀頼の元に嫁ぐ。秀頼の母は浅井長政とお市の方の長女「淀君」、千姫の母は淀君の妹、つまりお市の方の三女「お江」であるため、いとこ同士の結婚となる。

秀吉亡き後、政権はがらりとかわり、祖父の家康と父の秀忠が大坂城を攻略、実家が嫁ぎ先を潰しにかかってくる。元和元年(一六一五)大坂城落城、所謂「大坂夏の陣」である。

千姫は戦火の中、夫秀頼と別れ大坂城を脱出、父親の元に届けられるが、秀忠は余りいい顔はしなかったという。これは千姫の波乱の人生の経過にすぎない。

慶長二年(一六一五)徳川四天王と云われた、桑名城主本多忠政の息子忠刻と再婚、千姫の一目惚れといわれるが、夫を播磨国姫路城主十五万国までおしあげ、生涯でも一番幸せであった結婚生活も束の間、忠刻は若くして病没、またもや未亡人となる。

この時三十歳。その後は「竹橋御殿」で独身生活を続け,秀頼遺児、鎌倉の縁切り寺、東慶寺に入った「天秀尼」の母代わりとして支援、寛文六年(一六六六)七十歳で波乱の人生を閉じている。

三代家光御台所「本理院孝子」は関白鷹司信房の娘で、婚礼をあげたのは寛永二年(一六二五)。家光二十二歳、孝子二十四歳、二歳年上の女房で、江戸っ子的に云うならば年増であった。この輿入れの際に京から沢山の女官を連れてきた為、大奥が京風のぜいたくな風俗になっていったという。

夫家光は衆道(女嫌い)であったとされるため(その後伊勢慶光院、梅との出会いによってこの問題は解決される事になる)、孝子は北の丸と西の丸の間に、中の丸御殿を建ててもらい、「中の丸様」として七十三歳の生涯を終えている。幕府は朝廷を抑えるために、この婚礼が慣例となり、代々の将軍は(例外あり)京の公家の息女から、正室を迎えているが、世継を産んだ夫人は一人もいなかった。幕府がそう願ったせいもある。

「於万河岸」

江戸徳川家には「於万の方」を呼称する女性は沢山いる。年代順に上げていくと、家康の正妻「築山殿」の侍女であった「小督局」が、天正元年(一五七三)家康に見染められて側室となり「於万の方」、通称は「おこちゃ」と呼ばれていた。翌年、二十七歳で於義丸(家康次男結城秀康)を産む。当時としてはかなりの高年齢出産である。秀康は双子であったとされ、暫くは父家康との面会はなかった。於義丸と名付けられた息子は、十一歳をむかえ秀吉の元に人質にだされ、羽柴秀康を名乗る。秀吉の「秀」と家康の「康」を取った名前である。此のあたりまでは将来を嘱望された形になっていたが、十七歳で結城晴朝の娘と結婚、婿養子にだされる。

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いでは、長年秀吉の養子であった関係から、戦場に参加させてもらえず江戸城留守居役、その後越前北ノ庄、福井藩六十八万石の藩祖となるが慶長十二年、三十八歳で病没、毒をもられたとの疑いもある。母、於万の方も息子と共に福井にきていたが、秀康死後出家、戒名は長勝院、墓地は永平寺にある。幕末になって福井藩は、幕政にも参画した「春嶽」を輩出している。因みに福井藩の下屋敷は、中央区新川(越前堀)にあった。

尚、平安末期の「小督の局」は、清盛娘である「建礼門院」を迎えた高倉天皇の寵愛を受けていた為、相国清盛の怒りを買い、京より追われる身となっている。

徳川御三家の藩祖は、家康第九子「義直、尾張家」、第十子「頼宣、紀伊家」第十一子「頼房、水戸家」であるが、この二人のうち第十、十一子を産んだのが、家康の晩年になってからの側室「於万の方、養珠院」である。

於万は天正八年(一八八〇)後北条の人質となっていた、上総国正木頼忠の娘として生れ、慶長元年(一五九六)十七歳で当時五十四歳の家康の側室となった。その頃はまだ秀吉が存命で「朝鮮の役」で家康も忙しい最中である。慶長七年頼宣を、翌八年頼房を続けて出産し、年老いた家康を喜ばせた。

於万が「化粧料」の名目で拝領したのが「多葉粉河岸」、この名は近くに煙草屋が沢山集まっていた為といわれるが、「東堀留川」の西側、和国橋(堺橋)から萬橋にかけての河岸を、「於万河岸」と名を変えて存在した。萬河岸から北は堀江町に面し、団扇河岸から照降町に続いていた。

東堀留川の上流は震災の瓦礫処理の為、昭和三年から埋め立てられ、下流部分は戦災の瓦礫処理の為、昭和二十三年から埋立が始り消滅している。因みに「堀留」とは本来の河川の上流部分を埋立、河口部分を埋め残し、水路とした部分を指し、「掘割」とは地面を掘削、水を流して水路としたものである。於万の方は落飾して「養珠院」となり、御方がよく買物にきたといわれる八重洲には「養珠院通り」があり、ビルの横に江戸城に向いた「於万稲荷」がある。

三代家光側室も「於万の方」と呼ばれた。寛永元年(一六二四)参議六条有純の娘として誕生、幼名「梅」は、十六歳で本人の希望により、伊勢尼寺慶光院(準門跡寺)の住持となる。この挨拶の為、寛永十六年(一六三九)江戸城に参内、御簾の中から慶光院を見た家光は、これまでの「女嫌い」をがらりと捨て瞳目した。すらりとしボーイッシュな顔立ちをした慶光院に、一目惚れをしたのである。

この様子を側で控えていた春日局が見逃す訳がなかった。この瞬間、慶光院は京へ戻れなくなった。そのまま還俗させられて、髪が整うのを待って、強引に家光の側室にさせられた。祖父家康を、父秀忠よりも尊敬していた家光は、慶光院を家康愛妾「於万の方」と同じ名前とし、大切にしたという。

春日の局死去後、体質的な為か子供に恵まれなかった、(公家方の出生を好まなかった幕府の策略?か)、於万の方は、その地位を引き継ぎ「大奥総取締役」となり、大奥を取り仕切った。正徳元年(一七一一)八十八歳でその生涯を閉じる。

「初台」

新宿では都営新宿線から、京王線に乗りかえ様とすると、西口やら南口やらと、地面の貼られたルートに沿ってさんざん歩かされる。むしろそのまま乗って初台まで行き、同じホームで各駅を待った方が早いし、混んだ階段を使わず安全である。

その「初台」、家康入府の頃は、江戸の郊外で農村地であった。地名の由来は、もともと代々木初台と呼ばれ、道灌が武蔵の国、代々木村に築いた八つの砦のうちの、一の砦(狼煙台)があった処から、初台と呼ばれる様になったと云う。

もうひとつの説は、江戸時代になって、土井利勝の弟昌勝の妻が、秀忠の生母、西郷の局に仕え、その関係で秀忠の乳母となり「初台の局」と呼ばれた。この局に天正十九年(一五九一)に、代々木村二百石が下賜され、この地を初台と呼ぶようになったとされる。

「戸山/戸塚」

三代家光の娘千代姫が、尾張徳川家光友への入興を祝って、戸山ヶ原に江戸最大規模の屋敷が造られた。戸山荘と呼ばれたこの屋敷は、小石川偕楽園と並ぶ庭園となる。もともと和田戸山と呼ばれていた台地で、これが地名のおこりであるとされる。

現在の戸山一丁目あたりは戸塚村に属しており、他に現在の高田馬場一~四丁目、西早稲田一~三丁目、戸塚町一丁目を含む、東西約二、六㌔、南北約〇、九㌔と、東西に長い地域である。因みに、戸塚は戦国時代、富塚と呼ばれた佳名好字で、江戸時代から戸塚と呼ばれる様になった。同様の例が横浜市の戸塚町である。

「小石川春日殿町」

こちらは娘ではなく家光の乳母である「春日局」が、寛永七年(一六三〇)此の地を賜った事に因むとされる。これには二説があり、①局自身の屋敷を建て春日殿町と呼ばれたとされるが、春日の局が実際に住んでいたのは、江戸城の北の丸である。②御附きの下男三十人の為に、原野であったこの土地を拝領し開発し町とした設とがある。

「御府内備考」によると「古は原野に所、寛永七年春日局願出にて、御附き下男三十人へ当町一円大縄にて拝領し、町名を春日町と唱、元禄七戌年町奉行支配となる」とある。江戸期は「春日殿町」明治四十四年まで小石川を冠称していた。

春日局は明智光秀の家老斉藤利三の娘、幼名「福」。天正十年(一五八二)「本能寺の変」の時はまだ四歳であった。慶長九年(一六〇四)、京都所司代における、秀忠の嫡子である家光の乳母募集を知り、夫と離婚し応募して、見事乳母となる。

寛永六年(一六二九)、後水尾天皇と中宮和子(秀忠娘)に拝謁、従三位と春日局の称号を得る。翌年大奥取締役に就任、その後従二位に昇叙される。この位は清盛正妻平時子、頼朝正妻北条正子と同じ位階である。寛永二十年(一六四三)「死してのちも黄泉の国より、徳川の世を見守ってまいりたい」の言葉を残して六十五歳で永眠。

「護国寺/護持院ヶ原」

家光には五人の男の子が誕生したが、二人は早世、「家綱」「綱重」「綱吉」が成長した。年令の順から紹介すると、幼名竹千代は長じて四代将軍家綱となる。生母はお楽の方。お夏の方が産んだ長松は、甲府宰相綱重となるが若くして死んでしまう。後に五代綱吉が亡くなったあと、筋目を通して綱重の子が六代「家宣」となり、「生類憐れみの令」など綱吉時代の悪政を撤廃している。

四代家綱が死に、すぐ上の兄(綱重)も死んでいた為、館林宰相から思わぬ五代将軍綱吉となる徳松を産んだのが、今回の主人公「お玉の方、桂昌院」である。お玉は慶光院が三代家光に拝謁した時に、京の寺に野菜を納めていた八百屋の娘で、梅(慶光院)と同じ年齢であった関係から、供に選ばれ一緒に江戸へ出てきた娘である。

梅は家光の一目惚れにより還俗「於万の方」となる。ついでお玉も春日の局の目にとまり、側室となり徳松(綱吉)を産む。人間の人生どう転ぶか本人でも解らない。「玉の輿」という言葉は、ここからきたといわれている。

「護国寺」は綱吉が母桂昌院の願いを受け、天和元年(一六八一)に、上野国の亮賢を招いて創建した寺院で、如意輪観音菩薩が本尊である。別称「音羽護国寺」、幕府はこの護国寺の門前に、音羽、青柳、桜木といった大奥ゆかりの女性達に土地を与え、門前町として繁栄を願ったが、日本橋からの交通の便が悪く、かえって西側にある雑司ヶ谷の「鬼子母神」の方が賑わっていたという。

「護国寺を 素通りする 風車」

鬼子母神の土産は、この風車とふくろうのおもちゃである。護国寺はそれでも江戸時代は浅草寺、回向院についで、出開帖の宿寺として、人気のあった寺であったが、維新後、旦那寺でなく祈願寺あった為、幕府の支援がなくなり寂れていく。明治になって大隈重信や山県有朋らがここに眠り、ジョサイアコンドルもここに眠っている。

「護持院」は、桂昌院と綱吉が発願、元禄元年(一六八八)湯島から知足院を移して御持院と改め、隆光によって開山された寺院である。元禄八年、上野寛永寺と並び、幕府の祈願所に定められた。享保二年(一七一七)類焼、この地での再建を許されず、音羽の護国寺を護持院に改めたが、維新後護国寺は復名され、護寺院は廃止されている。

護寺院は大塚に再移転、跡地は風景の良い日除け地となり「護持院ヶ原」と呼ばれ、一番から四番まであった。この地は神田橋と一橋の間の外濠側にあり、夏から秋の間は庶民に解放され、冬から春にかけては将軍が、ここで狩り等をして楽しんだという。故に「新駒ヶ原」とも呼ばれた。「二番原 雁が下りると 鷹を追い」 と鷹狩りの日は、夜鷹は追い払われたという。

「音羽」

江戸川橋から北へ、護国寺に突き当たる道は音羽通りといい、天和元年(一六八一)、かって綱吉によって開かれた将軍御成道であった。元禄十年(一六九七)幕府は綱吉生母桂昌院に仕えていた、老女(幕閣に相当職)音羽に、町屋敷を与え「音羽町(文京区)」とした。この対策は、長年大奥に勤務した報酬として、敷地内の家作を町人に貸し出し、その賃料で生活を賄う、といった今で云う一種の年金制度である。

北側が青柳町、南側は桜木町、いずれも老女であった者達に与えられた町屋敷につけられた町名である。西は水戸家の上屋敷、桜木町の南端が神田川に接し、南北に細長い町であり、現在は音羽通りをはさんだ、音羽谷の崖下、崖上にまたがる町である。

こうした町になる以前は、雑司ヶ谷村、小日向村、関口村と呼ばれた地域であり、元禄十年(一六九七)護国寺領となり町屋起立としたが、家作人が集まらず、音羽が拝領したと云う次第である。化成期になると、護国寺門前の音羽町に茶屋が出来、天保の頃まで岡場所として栄えた。また、神田川に流れ込んでいた、弦巻川と音羽川の水量を利用した「紙漉き」が特産で、天保年間(一八三〇~四四)は、大平紙や塵紙の生産が盛んであった。

「木挽町六丁目」

木曳町とも書くこの町は、江戸城修復の際に、木曳職人が多く集住したことに由来する。三十間堀の東岸の細長い地域に、一から七丁目まで町が拡がっていた。対岸西側は三十間堀町であった。元和年間(一六一五~ニ三)に入った頃から、木挽町には歌舞伎、人形芝居、浄瑠璃などを興行する小屋が建ち並んだ。

中央区沿革図集(京橋篇)に掲載される、「江戸名所図屏風」の略図には、木挽町と想定される場所に、北から若衆歌舞伎の櫓、人形浄瑠璃の櫓、次いで芝居歌舞伎の櫓、芝口橋の辺りには軽技芸の小屋が、三十間堀に面して建ち並ぶ姿が描かれている。

万治三年(一六六〇)五丁目に森田座が創立、天保の改革により浅草猿若町へ移転させられるまで芝居を続けた。今回、話の中心になるのは六丁目に櫓をあげた「山村座」である。正徳四年(一七一四)「絵島生島事件」が発生、大奥総取締役絵島(「江」の字が正しいとされるが物語の展開から「絵」を使用)は、前将軍家宣の墓参に増上寺へ、「月光院」の代参として出向いた。

そのまま、静かにお城へ帰れば、何の問題もなかったが、ある時呉服商、後藤縫殿助の誘いで、芝居見物に出掛けた先が山村座である。何度も通う様になって役者の「生島新五郎」と、昔の表現を借りると「ねんごろの仲」になったとされる。こうした事が重なると、どうしても段々時間もルーズに、行動も雑になってくる。ある日江戸城の門限に遅れた。これが城内に発覚、絵島は春には小彼岸桜が咲く信州高遠へ流罪、新五郎は三宅島へ遠島など、関係者千四百名余りが処罰され山村座は廃座、以後江戸歌舞伎は「三座」体制となる。

この事件は、七代家継生母の月光院と、六代家宣正室天英院との女の代理戦争だといわれる。権力を握った月光院側には新井白石や側用人間部詮房と、月光院がひいきの大奥総取締役の絵島がいた。それに対抗したのが天英院、御附きの女中と月光院を良しとしない譜代大名達が加わり、幕府の勢力は二分された。七代家継病没後、空席となった将軍の座は、家康が創設した「御三家」制度が実を結び、紀州徳川家出身の吉宗が、八代将軍に就任、正徳の女の闘いは幕を閉じる。

江戸名所図絵には、木挽町芝居として「顔見せや一番太鼓二番鳥老鼠」と記載されている。一番鳥、二番鳥が鳴いて、夜明け前になるとばらばらと鶏が鳴きはじめる。この辺りの頃を「ばらばら時」といった。

「鶏も ばらばら時か 水鶏なく」 去来

「赤門」

正式名は「御守殿門」とよばれる「赤門」は、国の重要文化財となっているが、将軍の娘が三位以上の大名に嫁いだ際に、建造され木部を朱塗りにした門をいう。形式的には「唐破風造りの張出番所付き三間薬医門」という、何とも小難しい名称をもった門である。

中山道沿いの東大赤門は、この大学の代名詞となっているが、十一代家斉の娘「溶姫」が、文政十年(一八二七)加賀前田家の斉泰と結婚、それに伴い建造された、中央に切妻瓦葺き薬医門、左右に唐破風造りの離番所が、輿入れ前年に正門(黒門)の南部に建造されたのが、現在唯一残る東大赤門である。

溶姫の父親は十一代家斉である。十五歳で将軍となり、家治時代の田沼意次を罷免、代わって御三家から推された、白河藩主松平定信を老中首座に任命、「寛政の改革」を主導したが、晩年側近政治により腐敗政治が蔓延、次第に幕府に対する不満がひろがっていった。私的には四十人の側室、その内の十七人に五十五人の子を産ませ、二十八人が成長、溶姫はそのうちの一人である。

広重の江戸百には、第二八景「山下町日比谷外さくら田」では、佐賀鍋島家の赤門、第三〇景「外桜田弁慶堀糀町」では、彦根井伊家の赤門が描かれている。

「桜田御用屋敷」

大奥で長年将軍様の側室として、生活を供にした女性達は、その主(将軍)が亡くると、

次なる主君は新しいスタッフを連れてくる為、シフト(御用済み)となる、といって実家やゆかりの家には帰して貰えない。

側室時代に知り得た情報や、秘密事項漏洩防止のため、また、外部の人間との接触により、将軍御落胤のいらぬ騒動を未然に防ぐ為、桜田門近くに建てられた別名「比丘尼屋敷」に移住させられる。移住といっても体のいい幽閉である。落飾し仏門に入り、仕えた将軍の冥福をひたすら祈って、一生を終える事になる。一瞬の栄華は夢となって消える。

ただ、年の数回は外出を認められ、正月十日の年始の登城、仕えた上様の菩提寺、上野寛永寺か芝増上寺への参拝、正室への御機嫌伺い等は許されたが、そのためには外出許可証が必要とされた。

まさに女性の人権が、完全に確立されていない社会がそこにあった。江戸時代には、そこから逃げられない、解放されない女性達が沢山いた。頭脳と技を覚えた現代の女性群団は、周りの男達を眼下に翔びまわっているが、まだひと握りでしかない。

江戸純情派「チーム江戸」

ようこそ 江戸純情派「チーム江戸」へ。

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