6 江戸橋物語 「橋」のある町
親父橋・思案橋/左衛門橋/寒橋/筋違御門橋、万世橋/髙橋/泪橋/弁慶橋/枕橋/ 深川萬年橋・築地万年橋 番外編・大井川蓬莱橋
日本人と橋とのつきあいは古い。「天の浮橋」のうえから、イザナギ、イザナミの男女二人の神が、矛を混沌とした世界につきさし、その滴の塩がたれ固まったものが日本であるとされる。天地創造、神話の世界である。
江戸時代以前の橋、まだ後北条の支配下にあった江戸の橋は小規模であり、古い伝説のある橋として「妻恋橋」「姿見橋」「代田橋」「駒留橋」「淀橋」などがあった。(東京市史稿)ではこうした橋はどの様に修復、維持されてきたのであろうか?橋の維持、管理に「持(もち)」という言葉がある。「持」とはそれを負担するという意味である。橋や上下水道、道路などのメンテナンスを、何処が受け持つかということである。江戸の頃は、士農工商の身分社会、各々の階級負担によって、いろいろな「持」があった。先ず幕府が負担する橋、道路なら幹線道路の橋を「公儀持(橋)」、江戸では「御入用橋」という。その橋の最寄の武家が負担する「武家方持」、また、町人地に架かる橋は、その道筋の各町が分担して普請した「町方持」、更に武家方と町方が話し合って分担した「両方持」があった。それらの費用は橋銭(渡り賃)を徴収して、それに充てた橋もあったが、その場合であっても武士は無料であった。
橋とは工学上は橋梁、谷やより低い地面や道路、川などをまたぐ形で、より高い場所に設けられたのが橋である。広重の「名所江戸百景」俗に「江戸百」は、目録を除いた百十九枚の作品の内、橋を描いた作品は四十六枚、約三十九%。巨木を使った橋を描いた作品は「永代橋佃しま」「大はしあたけの夕立」「両国橋大川はた」「京橋竹がし」「千住の大はし」などがある。では、その巨木とされる橋脚の太さは、橋の上の人間から想定すると、その直径はおよそ大人の二抱え分、約60から90cmと推定されている。他に橋を描いた作品には、「日本橋江戸ばし」「深川萬年橋」「びくにはし雪中」等の作品があるが、各々の橋の構造は作品からは解らない。また、日本には世界に誇れる橋がいくつかある。木の橋として世界最長896mを誇る橋が、静岡県島田市にある。江戸の頃は「越すに越されぬ大井川」と云われた東海道大井川に架かる「蓬莱橋」である。また、吊橋として世界最長の3911mを誇る橋は、明石から淡路島を渡り、四国の渦潮の町、鳴門までの「明石海峡大橋」。この橋は中支間長が1991m、日本の技術が誇る橋である。隅田川最後の渡し「佃の渡し」が、昭和39年、前回の東京オリンピックの年に幕を閉じた。それが「佃大橋」に代わり、次第に両岸に高層ビルが立ち並ぶようになって、隅田川から江戸情緒を探し出すのは難しくなっている。
「親父橋/思案橋」元吉原がまだ人形町にあった頃、その悪所を立ち上げた元北条小田原の武士、庄司甚右衛門は、その貫録と気風から通称「親仁」と呼ばれていた。その親父が廓内の店兼住まいの江戸町一丁目から、廓の裏側を流れていた、堀江町入り堀沿いに下りてくると、人形町から河岸へ向かう道端で、江戸の遊び人達が「あっ親父が来た、親父が来た」と親しみを込めて呼びあったという。こうした事が自然にそこに架けられていた橋を「親父橋、親仁橋」と呼ぶ様になったという。また、橋の由来はもうひとつあって、元和3年(1617)遊郭惣名主甚右衛門が、架橋したものだという。こちらの方が頷ける。昭和24日年、堀の埋立てにより消滅、撤去時の橋は大正十四年に架け替えられた橋で、長さ33m、巾22mの鉄橋であった。親父橋の下流、日本橋川・小網町へ注ぐ手前の橋は「思案橋」、別称「わざくれ橋」甚右衛門が立ちあげた「元吉原」へ遊びにいこか、その先の芝居町で江戸歌舞伎を見ようか、日本橋の若旦那たちが、この橋の上で迷った事からつけられた名前であるという。本来は、橋占いの行われた場所と云われる。この橋の名称は長﨑の丸山など随所にみられる。京の「島原」の前に架かっていた「思案橋」は、別名「ささやき橋」迷いながら渡ると、ささやくような神の霊示があったという。自分を納得させるための自己暗示であろうか、他に「姿不見橋」「面影橋」とも呼ばれた。「わざくれ」とは「ままよ」とか「どうにでもなれ」といった意味で、少々開きなおった意味合いをもつ。芝居にしろ遊郭にしろ、毎日時間と金銭的余裕のある若旦那にしてみれば、そんなに思案する程ではないと思うが、本人にしてみれば、大変な決断であったに違いない。もっともこの悩みはすぐ解決される。というのは人形町にあった元吉原は、明暦の大火を契機に、浅草寺裏の田圃に移転し、昭和33年の「売春禁止法」施行迄、その歴史は続く事になる。
「吉原が ひけて思案は いらぬ橋」
落語にもでてくる若旦那は、両親、祖父母から乳母日傘で育てられ、そのせいか考え方が少々勝手気儘である人間が多い。労働意欲、勤勉さはさらさら無く、毎朝起きると(これも何時から朝だと断定しにくいが)今日は何処へ行こうか、この間会った娘は何しているだろう、とかそういう事だけが頭にうかぶ、所謂「道楽息子」である。で、さんざん道楽をしつくした挙句の果てに、姉か妹がいれば、丁稚から鍛え上げられた使用人の中から、商売上手な人間が彼女たちの婿殿になり、本人は勘当か楽隠居、武士の場合は廃嫡か部屋住みとなる。勘当には「内証勘当」と「本勘当」があり、本勘当とは両親、親類が見切りをつけ、町内の五人組と名主に勘当願を届け、奉行所の勘当帖に記載され「人別帖」から外される。外された本人は「無宿人」となり、その後親子の関係はなくなり、仮に本人が罪を犯しても、家族は連座の罪からまぬがれる事になる。一方「内証勘当」とは町役人に届け出をしないで、家族、親類内で承諾を受け決めるもので、人別帖には本人の名前の上に札(付箋)が貼られ、警戒ライン上に置かれ、執行猶予的な立場になる。素行の悪い人間をさして「札付き」というのはここからきている。現代おいて一般的な人間には、道楽息子的な境遇にはなれない。毎日の生活と日課におわれる。このような生活のため時間に追われ、余計な考えが浮ぶ余裕がない。人間的には弱い江戸っ子達には、少々忙しい方が良かったのかもしれない。
「左衛門橋」
隅田川の両国橋をくぐると、左手に神田川が注いでいる。第一橋梁は「柳橋」、次が「浅草御門」のあった「浅草橋」、「左衛門橋」は三番目の橋となる。古書によれば「此の地、元禄の頃より明治維新まで、出羽鶴岡藩(庄内)酒井左衛門尉の下屋敷がありし故に「左衛門河岸と呼ぶ」となる。創架は明治八年といわれ、貸取橋(有料橋)として個人(民間)が架設、左衛門河岸があったところから、左衛門橋の名称がついた。
百官名のひとつの「左衛門」とは、律令制度の兵役衛として中央の配属先で、頭に親族、兄弟を表す文字をつけ、○○新左衛門、○○助左衛門と呼ばれていた。庄内藩は徳川幕府の譜代大名のひとつで、徳川四天王酒井忠次の嫡流が鶴岡に入部、以来,幕府による転封が一度もなかった藩である。
この橋の面白い事は、橋が架けられている場所である。橋北詰の西側は千代田区東神田、その道路隔てた東側は台東区浅草橋、橋を渡って南詰は中央区日本橋馬喰町と、下町を代表する地名、神田、浅草、日本橋の三ヶ所にまたがっている事である。つまり千代田、台東、中央の三区の区境に立地するのが左衛門橋である。
「寒橋」江戸名所図絵には「ふる雪をいとはず 夜もあかし町 おでん寒酒売る 寒さ橋」とある。江戸の海に面して風当りが強かったので、俗名を「寒さ橋」または「サンサ橋」と呼ぶ。何とも江戸らしい、さびた名のこの橋を、其角は「青海や 浅黄になりて 秋しぐれ」と詠んでいる。寒橋は築地川支川に架かっていた小橋で、明暦の大火後、築地一帯が埋立てられ、延宝8年(1679)創架、備考には「寒橋同じ川(合引川)の海端に架す、明石橋と唱う」としている。寛文6年(1666)架け替えられている。「築地居留地」ができた明治になると、荷上げ場と荷物の検査場の「運上所」が前に出来、明石橋は人間と荷物が居留地に入る南の玄関口となり、左手に「鉄砲洲川(大正9年埋立)」が合流、居留地を横断船松町(湊町)で右折、隅田川に注いでいた。また明治25年には、この橋の袂から有料渡船の「月島の渡し」が開設された。昭和46年、川の埋立により「新栄橋」と共に消滅。
「世の秋も 築地はやく 寒さ橋」
因みに、明石堀を埋立てた「あかつき公園」の命名は、募集により当時の小学生が、明石町の「あか」と築地の「つき」をあわせてつけた名称であり、将来に希望を抱かせる素晴らしいネーミングになっている。
「筋違御門橋/万世橋」「筋違御門橋」は寛永16年(1639)創架。日本橋から本郷にぬける「中山道」と、内神田から下谷を通り、上野寛永寺や日光東照宮への「御成道」が、斜めに交差していた事からこの名称がある。「筋違御門」の内側(現須田町交差点辺り)は、「八ッ辻」「八ッ小路」と呼ばれ、筋違橋、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、中山道、小柳町、柳原土手の、八方面に道が通じていた。日本橋を出発した中山道は、現在の中央通りの「神田川」に架かる「万世橋」と、やや上流の「昌平橋」のほぼ中間辺りの「筋違門(見附)」を通っていた。明治5年になって、筋違御門の枡型が撤去され、この石材を再利用して、やや上流に造られた橋は、「万代橋(よろずよはし)」と命名された。それまでは目黒行人坂の太鼓橋があったが、東京市中では最初の石橋である。永久的な意味を込めてつけられたが、川に映ると眼鏡の形に見えた為、「眼鏡橋」とも呼ばれた。明治39年、市区改正で撤去。明治6年に流失した昌平橋のやや下流に、新たに鉄橋が架け直され、此の橋は万代橋の名をとって、「代」が「世」に替えただけの「万世橋(よろずよはし)」と名付けられた。街の住民達は云いづらい「よろずよ」の名から、そのまま素直に「まんせい」と、江戸っ子らしい呼び方に定着したのにはさして時間はかからなかった。更に面倒な事に昭和5年、もとの筋違御門橋付近に、鉄筋コンクリート製の橋が造られ、これを万世橋とし(現在の万世橋)、上流にあつた明治39年製の万世橋を昌平橋と改称、現在にいたっている。なんともややっこしい、橋の履歴書であるが、担当した当時の役所やそこに働く役人により、撤去させられ、場所も変えられ、呼び方も変えさせられ、橋自身もまさしく「ここは何処、私は誰」(橋は女性名詞)となっている。現代でも歴史ある昔の町名が、○○丘、○○団地になったり、年度末になるとそれぞれの行政により、同じ道路が掘っては埋め、埋めては掘りと、「権兵衛とカラス」を繰り返している、街を住みやすくというより、自分の予算獲得のなせる技である。かって此の橋の側に、JR中央線の前身の「甲武鉄道」が走っていた。明治45年に辰野金吾の設計による駅舎が完成、現在の東京駅丸の内側の様に、赤い煉瓦の駅舍を構えていた。大正8年、東京駅、次いで神田駅などが開業、次第にターミナル駅としての利用客が減少、最近まで、交通博物館として親しまれ、名残のプラットホームも、神田からお茶ノ水へ向かう、左側の車窓からも眺められた。この辺りは江戸や明治の情緒が残っていた、レトロな地域であった。
「髙橋」舟の通路にあたる掘割の水面に、脚をたて両側を結んでいる橋の存在は、舟にとっては最大の障害物である。また、逆に橋にとっては上、下流からの流木と同様、橋脚にぶつかってくる舟は、最大の厄介者である。当時の動力を持たない水上交通は、曳き舟と帆走、この作業を邪魔したのが橋であった。そこで考え出されたのが、帆をたたまずにすむ、脚の高い橋の建設であった。道灌「江亭記」に示されている「髙橋」は、江戸時代から一般的には常盤橋あたりとされ(一説には大手門付近)、江戸の海や日比谷の入江、平川を介して、多くの帆船がここに集散、湊を形成していた。江戸期の「髙橋」をみてみると、亀島川に架かる「髙橋」は「本八丁堀ヨリ霊岸島ニ渡ル髙橋ニシテ、正保ノ図ニハ橋名ナカリシモノナリ」とされている。また、小名木川に架かる「髙橋」は、萬年橋のひとつ上流に架かる橋で、北斎描く「たかはしのふじ」では、高い太鼓橋であり、その向こうに萬年橋と端正な富士がのぞいている。更にもうひとつの「高橋」は、現在の台東区鳥越にあった、三味線堀の南端に架かっていた橋で、創架年代不明、「天神橋」の別名があった。
「泪橋」うれし涙、悲し涙、感動の涙、こうした人間の気持ちとは関係なく、寒気で涙腺が刺激され、ポロポロと落ちる涙もある。年をとって涙もろくなるのは、頭脳の前頭葉のブレーキが利かなくなるためであるが、それに加えて、自分が経験してきたことに照らし合わせ、その人の辛さ、悲しさが重なり合って、思わずほろりとくる。嬉しい時も同様である。「涙」や「泪」と「涕」との言語学的違いは余りない。「泪」は目から流れる水を意味し、涙より視覚的に訴える要素をもっている、一方「涙」は抑えきれない感情が、噴き出した時に使われる文字である。「涕」は泪より奥深く感情をふくんだ、ポロポロと流れ落ちるものを指すとされる。江戸時代、罪に対する償いは大きく分けると、死罪、遠島、江戸所払い、百叩き、手鎖などであり、今の様な禁固刑はなかった。無駄な経費と労力を省いたのである。火付け強盗など、重罪を犯した罪人に対し、幕府は極刑を言い渡す場合が多く、日本橋川から北の住民は「小塚原」、南の住民は「鈴ヶ森」で刑を受けた。千住宿の手前、小塚原処刑場の手前に流れていた、細流「思川(おもいかわ)」に架かっていた「泪橋」は、現台東区清川から日本堤の間を通り、南千住に抜ける橋であった。ここまで見送ってきた親、兄弟、縁者にとって、ここがこの世で最期の離別の場所、本人にとってはこの世の別れの場所であった.同じく南の処刑場へは旧東海道、立会川に架かる泪橋(現浜川橋)が、最期の泪を絞った橋であった。薩摩の「涙橋」は西南戦争の戦場となり、戊辰戦争では会津若松の「湯川」沿いに架けられていた「涙橋」がある。女性たちだけの戦闘集団、「婦女隊」が死闘を展開、中野竹子らが死んでいった、「涙橋の戦い」が歴史に残る。竹子は坂下の法界寺に眠っている。「涙」は悲しい場面が多い。江戸幕府は、軽犯罪者や犯罪予備軍に対し、寛政年間(1798~1800)になって、鬼の平蔵と呼ばれた長谷川平蔵が、時の老中松平定信に建策、「天明の飢饉」など自然災害、またそれに対応が追い付かない、人災(行政の遅れ、怠漫)によって田や畑を捨て、家族との縁を切って、「無宿者」として江戸に入り込んだ者たちに対し、拘留及び職業訓練を目的として、石川島と佃島の間の低湿地へ、中洲を取り壊した土をもって埋立て、「石川島人足寄場」を起立、犯罪予備軍の生命をガードしつつ、江戸の治安を守り、犯罪防止を促進した。こちらは明るい話題である。
「弁慶橋」藍染の町、神田の「藍染川」に架かっていた橋で、現、岩本町二丁目の東南側にあった。この橋階段がついており、三方から筋違いに渡れる様になっていた。「江戸名所図会」には「弁慶橋、於玉が池の東の方和泉橋の通り、藍染川の下流に架す。その始め御大工棟梁弁慶小左衛門といえる人の工夫にて、懸け初めしといえり」とあり、絵を見ると、下から米俵をのせた大八車が橋に架かかろうとしているが、かなりの傾斜とみえる。明治17年、下水工事改良の為、藍染川が埋立てられ消滅、同22年になってこの橋の技術を残す為、廃材を利用して、清水谷、紀尾井町方面への近道として、外濠に架けられたのが「赤坂弁慶橋」である。
「枕橋」浅草から隅田川に架かる「吾妻橋」を渡って、左に曲がると水戸徳川家の下屋敷であった「隅田公園」の木立がみえてくる。都内でもスカイツリーが一番見映えが良いとされる公園である。その手前に東武電車の高架と平行して、「北十間堀川」が流れている。この川は江戸の頃「源森川」といった。この川が大川に流れ込む手前に架かっていたのが「源森橋(源兵橋)」、現在は「枕橋」と呼ぶ。寛文3年(1663)関東郡代伊奈半十郎忠次によって、中之郷(吾妻橋)から向島に通じる源森川に架けられた橋である。また、近くの水戸下屋敷内に小さな堀があって、ここに架かっていたのが「小梅橋(現在は現森橋の一つ上流)」別名「新小橋」と呼ばれていた。「画報」には「ふたつ続きにて橋あり、源森川に架けたるを源森橋といい、その北に在る橋を新小橋といい、世俗にこの二橋を総称して枕橋といいしなり」としている。維新後、新小橋は消滅、源森橋を改めて枕橋としている。明治以降は、やもめとなった源さんだが、江戸の頃は源さんと小梅さんの夫婦が仲良く枕を並べて生活していた。現代、幼児の頃までは母親の愛護のもと、仲良く枕を並べているが、少しすると自分の部屋が欲しいと言い出す。成人して結婚して夫婦となり、暫くは枕を共にするが(推定)すぐに寝不足になるとかで枕は並ばない。もうその頃は会話もなくなる。江戸の頃は狭い四帖半の為、そんな我がままは通らない。薄い煎餅蒲団にくるまって、喧嘩しいしいそれでも会話があった。現代では喧嘩はなくなり、双方静かな穏やかな?大人になったが、その分会話も少なくなり、しっかり血の通わないエコ生活に移行する。どちらがいいか楽なのか、当人同士に聞いてみないと解らない。
「深川萬年橋/築地万年橋」近代より以前の橋は、木造か石造りが主流で、風水害等で破壊や流出が繰り返され、復旧に多大な経費と労力を費やした。そこで幕府は持久力のある長持ちのする橋との願いから「萬年橋」と名称をつけた。「萬」は不変を意味する慶賀名である。深川を流れる小名木川が、隅田川に出る手前の橋、第一橋梁橋が萬年橋であり「深川一之橋」とも呼ばれた。この橋、創架は定かではないが、延宝8年(1680)の切絵図には「元番所のはし」と記載、明暦大火後、右岸にあった「舟番所」は江戸拡大の為、寛文年間(1661~73)中川口に移転、ここは元番所となった。また、この萬年橋の架かる深川元町(現在は江東区常盤)一帯は、隅田川左岸に形成された、自然堤防の一部にあたる為地盤がよく、深川の開拓者深川八郎左衛門らが移住し定着した「元町」である。日本橋や行徳からきた、船の航行の妨げにならぬ様に高く架けられ、虹の形をした優美な形の橋で、この様子は葛飾北斎が「富嶽三十六景、深川萬年橋下」で、広重は江戸百「第一〇五景、深川萬年橋」で見事に描きだしている。江戸時代には、島流しの船は萬年橋と永代橋の畔から出航、萬年橋より出航する者は、将軍世襲など恩赦などによって帰朝できたが、永代橋から出航した者は八丈島へ流され、帰るあてのない死出の船出であった。尚、萬年橋北詰西側の芭蕉庵跡から見た、清洲橋のアングルは永代橋が男性的であるのに対し、女性的フォルムを形成し素晴らしい。この橋はドイツケルン市ライン川に架かる橋をモデルにしたという。「萬」を「万」の字に置き換えると、旧「築地川」に架かる「万年橋」となる。武江図説によると「木挽町の東の方、京極家の前にかかり、此のはし上は板にて、橋杭は石なり、よって万年橋と呼ぶ」とある。銀座と築地を結ぶ晴海通りのこの橋、築地川であった首都高1号線をまたいで、車、人間をよく捌いており、その名の通り頑丈な橋である。
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