7 天下人 「上様御成ぃ~」 の町
御浜御殿/白山御殿、小石川養生所/品川御殿山/駒場野/鷹番/
隼町/六義園、伝中
「上様」は「うえさま」「かみさま」「じょうさま」といろいろ読み方があるが、一般的には貴人に対する尊称は「うえさま」と呼ぶ。古くは天皇、室町時代になって大名に対する尊称であったが、江戸時代になって征夷大将軍、即ち代々徳川歴代将軍を上様と呼んだ。「かみさま」は,一般に武士の奥様への尊称として使われ、一般庶民の奥様はうちの「かみさん」になる。「じょうさま」は領収書等に書かれるそれで、本来は上得意、上客を意味し、特定の名の代わりに使用されてきた。
江戸徳川幕府の組織図を見ると、緊急時もしくは時代によって、上様(将軍)の下に大老、側用人が置かれたが、通常時では将軍の元に老中、若年寄、寺社奉行の三職がおかれ、さらに老中の下部組織として、大目付、町奉行、勘定奉行が、若年寄の下部組織として、目付、火付盗賊改がおかれていた。
「御浜御殿」
築地魚市場に隣接していた「浜離宮」は、寛永年間(一六二四~四四)、将軍家の鷹狩りの場所であった。承応三年(一六五四),四代家綱の弟、甲府宰相綱重が拝領、「甲府御浜屋敷」と呼ばれたが、綱重三十五歳で死去、息子の綱豊が跡を継ぐ。さらに五代綱吉に跡継がなかった為、綱豊が世子となり、宝永六年(一七〇九)六代将軍家宣を名乗る。こうして庭は将軍家のものとなり、「浜御庭」「浜御殿」と呼ばれる様になる。
十一代家斉の時代になって大改修、天保五年(一八三四)八月、将軍家御成の際に、大目付と三奉行に釣りの許可が出て、その際の獲物は汐入り庭園の為、鯉、鰻に混じり,鱚、サヨリ、コノシロなどが釣れたという。享保十四年(一七二九)ベトナムから来日し、采女ヶ原で見世物として活躍していた、雄の象がここに移され、十二年間飼育されていた。
幕末の嘉永六年(一八五三),ペリー来航、御台場が築造され、築地にあった「海軍操練所」が御浜御殿に移転、一部が軍事施設として利用された。十四代家茂は長州征伐の際に、帰路は海上から御浜御殿に上陸、三度目は遺体となって上陸した。
十五代慶喜も慶応四年(一八六八)、「鳥羽伏見の戦い」で大坂城より海陽丸で、京都守護職松平容保らと江戸へ敗走、品川沖で押送舟に乗り換え御殿の東側に上陸、ここに十四代、十五代「将軍御上り場」跡がある。
ここで大坂から逃げ帰った慶喜の第一声は「ああ、鰻が喰いてえ」。水戸徳川家が実家で尊王攘夷派である慶喜は、豚肉といった脂っこいものが大好きで、つけられたあだ名がいろいろあるが、そのひとつが「豚一様」であった。
茶屋、仏堂、鴨場、薬園、火薬所、製糖所などの設備を備えていた御浜御殿は、昭和四十一年から「浜離宮恩腸庭園」となり、この庭の住所は、それまでの築地七丁目から、〒104-0041中央区浜離宮1-1 と独立した町名となっている。
「白山御殿/小石川養生所」
館林藩主であった徳松(五代綱吉)が幼少期を過ごした、白山権現社地に造営されたので「白山御殿」と呼ばれ、「小石川御殿」とも呼ばれた。
「小石川」は礫川とも書き、この名の由来は、水道橋より白山辺りまで小石の多い小川があった事に由来する。また、加賀の国石川郡から、白山権現を勧請した事によるともいう。向かう坂を「御殿坂」、別名「富士見坂」「大坂」と呼ばれた。綱吉没後の正徳三年(一七一三)に取り払われ、旗本屋敷や菜園となっている。
この菜園が、八代吉宗の時代の「目安箱」が契機となって設立された、山本周五郎原作の「赤ひげ診療譚」の舞台となった「施薬院小石川養生所」である。目安箱の制度そのものは以前からあり、京都では元和五年(一六一九)に、諸藩でも十七世紀半ばから設置されていた。
吉宗と町奉行、大岡忠相が主導した、「享保の改革」のひとつである目安箱の制度は、幕府評定所の門前に毎月二日、十一日、二十一日の三日置かれた。投書できるのは町民や農民で、①有益な政策の提案、②役人たちの不正、③訴訟に対する役人たちの怠慢などについてが、主なる投書事項であった。
投書は先ず将軍が閲覧、老中へ廻され、関係機関で検討が重ねられ採否が決められた。小石川養生所は、下層民対策のひとつとされ、小石川伝通院で町医師をしていた小川笙船が、享保七年(一七二二)十九条の意見書を目安箱に投函、このうちの施薬院の設置が採用され、無料の医療施設が設立され、幕末まで百四十年余り機能した。
同年十二月,幕府の医薬研究機関であった、小石川御薬園の敷地内に、建築費金二百十両と銀十二匁をかけ開設されたこの施設は、当初外来患者と入院患者両者に治療を施し収容人数四十名、医師は本道(内科)、外科、眼科など七名、笙船以下、町奉行配下で幕府医師の家柄の者が、治療にあたっていたが、天保十四年(一八四三)以降からは、町医者が当たる様になった。
養生所では患者数が増えるにつれ、対象を貧しく緊急を要する人々に限ったが、入所希望者があとを絶たず、四十名から百五十人まで収容人員を増やし、医師も十ニ名まで増やし、施設も設立当時には男女一部屋ずつしかなかったが、享保十四年(一七二九)に大幅に増築され、入院患者には衣類、布団、茶碗などが無償で支給された。
開設から安政六年(一八五九)までの、入院患者数三二、二八二人のうち、全快は約半数の一六、五○二人、(江戸の養生訓)であった。当時使用されていた所内の井戸は、大正十二年の関東大震災の折にも、枯れることなく被災者の生活水として役立っている。
江戸幕府の薬園、小石川養生所は、慶応元年に医学館預かり、明治維新総督府に引き渡され、明治ハ年には「小石川植物園」と改称、明治十年、東京大学大学院理学系研究科の付属施設となっている。
「品川御殿山」
道灌が長録元年(一四五七)江戸に城を築くのに先立ち、この地に館を建てたのが始りとされる。この御殿山は北品川一帯の地域を、総称した呼び名であり、「八ッ山」「谷山」とも呼ばれていた。
関ヶ原の戦い以降、豊臣との和議を前提、淀君を江戸へ人質として置く為の、御殿として造営されていたが、大坂夏の陣で交渉が決裂したため造営は中止、江戸初期になって「品川御殿」が建てられ、将軍の狩猟の休息所が設けられた事からこの名がつけられ、諸大名の参勤交代用にも利用された。
御殿は元禄初期に焼失、それ以来再建されず、そこに寛文年間(一六六一~七二)の頃から吉野桜が植えられ、享保六年(一七ニ一)には千本桜とも呼ばれ、注意書きの御札が立てられる程、上野の山や墨堤、飛鳥山と並んで、江戸の花見の名所となりにぎわった。また一方、海晏寺等にはハゼの木なども植えられ、紅葉の名所となっていった。
「江戸名所図会」には「御殿山看花」として、次の文章を載せている。その一部を借りると「この所は海に臨める丘山にして、数千歩の芝生たり。殊更寛文の頃、和州吉野山桜の苗を植ゑさせ給ひ、春時欄慢として尤も荘観たり。弥生の花盛には雲とまがひ雲と乱れて、花香は遠く浦凬に吹き送りて、礒菜摘む海人の袂を襲う」となる。
嘉永六年(一八五三)ペリー艦隊、黒船来航。これに備えるべく幕府は、御殿山の土を使って品川沖に洋式砲台(御台場)を築造した。大砲の玉は艦隊まで届かず、砲台の建設により海水が汚濁、魚は逃げたが艦隊は逃げなかった。我が国公害の第一号といわれている。
広重が安政三年(一八五六)、「江戸百」第四五景「品川御殿やま」で描いた構図は、目黒川方面から御殿山の南側を描いたもので、削られて崖のような山肌になっている。
「御殿山 こころは崖に 転げ落ち」
削られた山の上にはイギリス公使館が、建設途中の文久二年(一八六二)、長州藩士高杉晋作や伊藤博文らによって襲撃されている。更に、維新後の明治五年、新橋、横浜間に鉄道が敷かれ、山の東側が崩され、江戸の御殿山は姿を消した。
各地の「御殿山」は、将軍家が旧城跡などを、狩りの休息地に利用した場合が多い。北区滝野川は平塚城といい、家光が犬追物を観覧する場所として使用、神田川の源水、井の頭西の武蔵野台地にも、戦国時代の旧城跡を利用して将軍家の休息所が造られていた。
「駒場野」
本来、駒(馬)の産地であり、「駒場野」といった。付近の住民が共同で使用する草刈り場であり、広大な(約十六万坪)入会秣場であった。享保元年(一七一六)、吉宗が幕府の御鷹場として利用、目黒筋では最も利用された狩り場で、以後利用は十五回を数えた。
駒場の名の由来は、古代の牧場の名残であった事や、幕府の馬を調教した所であったなどがあげられるが、この辺りは駒沢、上馬、下馬など、馬に因んだ地名が多い。
またこの地は「道玄坂より乾(北西)の方十四町程隔たり、代々木野に続きたる廣原にして上目黒村に属す。雲雀、鶉、野雉、兎の類多く御遊猟の地なり」と紹介されている。現在は目黒区駒場一~四丁目であり、三丁目には東大教養学部が置かれている。
「鷹番」
江戸の範囲を示すものとして「朱引」と「墨引」がある。現在の山の手線にほぼ沿った朱引に対し、町奉行管轄下に置かれた墨引は、そのひとまわり小さく内側に引かれているが、何故か目黒鷹番辺りだけが突出している。八代吉宗が部下の忠相の支配下に目黒をおいて、思う存分鷹狩りを楽しみたかったに違いないと思われるが、本来の目的は、江戸三富の「目黒不動」を、町奉行の管轄下に置くためであった。
吉宗の時代になって、目黒周辺五里四方一円に設けられた、目黒の「六筋御鷹場」のひとつで、現在の港、品川、渋谷、世田谷各区にまたがる目黒村の中心地、約六十万坪の駒場野や碑文の原や池が、絶好の鷹狩り地であった。
家康や吉宗が好んだ鷹狩りは、中世以降、武士階級が政権を取る様になって、鷹狩りが武力の鍛練や、土地の状勢収集に利用される様になった。古代では「禁野」、「標野(しめしの)」、戦国時代は「鷹野」、秀吉、家康の時代では「鷹場」と呼ばれた。三代家光は五里以内の五十四ヶ村に鷹場の制礼を発布、五代綱吉の代になって鷹狩りは禁止、八代吉宗はこれを復活、近郊の九領五百九十四ヶ所の村を指定した。御三家の鷹場も江戸から五から十里の地域に設定された。
江戸時代、現在山の手線外側のほとんどが鷹狩場で、この地域は将軍の支配地として厳しく管理され、鷹狩りの際の一行は将軍以下、若年寄一人、他七〇から八〇人の隊列を組みやってきた。近在の農民達は、その接待や鳥類の保護に努める様に強要され、秣狩りを禁止され、畑を踏み荒らされ、助っ人に狩り出され、大きな損害と迷惑をこうむった。
鷹狩りは将軍家と御三家の特権、将軍が行う場所を「拳場」「御留場」「御狩場」と呼ばれ、御三家の鷹狩り場は「御鷹場」、将軍家の外側に置かれた。鷹場になった場所は、鳥の飛来地や棲息地にあたった為、「鳥」に因む地名が多く、早稲田弦巻、白鳥、鷺宮、鵜ノ木等がある。また、鷹狩りを円滑にする為、鷹の訓練や飼育にあたる鷹匠等が置かれた。これが「鷹番」の地名の由来となったとされる。
しかし、如何に鷹を訓練して優秀なハンターに育て上げても、獲物はそうそう都合よく捕まってはくれない。捕まえられないと将軍様の御機嫌が斜めになる、斜めになる事は家来達にとつて、甚だ不都合な事になる。そこで、家来達はあらかじめ獲物を捕まえておき、それを放す事によってその成果を期待した。その役割を「綱差(つなさし)」と呼ぶ。
目黒筋の綱差は、代々「川井権兵衛」を名乗っていた。この権兵衛さん獲物を捕獲する為に餌をまいて置くが、獲物が来る前にカラスが先にきて、その餌を食べてしまう。「権兵衛が種まきゃ、カラスがほじくる」となる。これに似た唄は全国各地にあり、ここが本家とは云えない。
何処の世界にも、上役の機嫌を取る為に、奉仕させられる部下は沢山いる。逆に自ら進んで奉仕して上役にとりいる部下もいる。人間社会を円滑にする為に必要な事柄であるし、ましてそこで生活の糧を生むとなれば、自然の事とも思える。が、しかし、定年退職後のフラットであるべきボランテアの世界でも、上下でつながりたがる人々が見受けられるのは、長い間の習俗かそうさせるのか淋しい事である。
因みに鷲と鷹は同じタカ目タカ科の仲間で、大きいほうを鷲、小さい方を鷹として区別している。猛禽類を大きい順にみていくと、鷲、鳶、鷹、隼となり、一般的に鷲は羽ばたいて翔ぶが、鷹は気流にのって翔ぶ。
「隼町」
地名の由来は、家康入府の頃、鷹匠屋敷があった事による。全国の鷹匠町と同義である。江戸初期は旗本屋敷であり、慶長八年(一六〇八)から明暦の大火まで、日枝神社があり、元禄四年(一六九一)火除地、次いで町屋となって「麹町隼町」を名乗る。現在は兜町と同じく丁目のない単独町で、最高裁と国立劇場がある他、一般の住宅も少々みられる。
「はやぶさ」の全長は雄(♂)三十八~四十五cm、雌(♀)四十六~五十一cmと雌の方が大きい。河川や湖沼、海岸等に棲息、和名「速い翼」が転訛して、ハヤブサになったといわれる。食性は鷲、鷹と同様、動物食の猛禽類で、雀、鳩、椋鳥等体重一、八kg以下の鳥類を食べる。水平飛行時の時速百km、急降下時の時速三百九○Km、この習性を利用して英国では、太陽光発電所に糞をするカモメ退治用に、このハヤブサを利用している所もある。
「六義園/伝中」
五代綱吉の側用人として辣腕をふるった柳沢吉保が、下屋敷として造園した大名屋敷である。元禄八年(一六九五)旧加賀屋敷を拝領、約二万七千坪に山を盛り「千川上水」を引き入れ、七年の歳月をかけて回遊式庭園を造り上げた。六義とは古今和歌集の序文に紀貫之が「六義(むくさ)」という、和歌の六つの貴重を表す語に由来している。
五代綱吉は部下吉保の屋敷に、何故か何度も訪れた。江戸城から現在のJR大塚駅辺りにある「六義園」までかなりある。勿論ひとりではこない、将軍様となれば沢山の御供を連れてくる。その御供の人々が待機しているこの屋敷の前(今ならさしずめ枝垂れ櫻の辺りであろうか)には、まるで殿中のような人の行き来があった事から、そこは「伝中」と呼ばれる様になったという。
上様が「御成りぃ」になった所はこれらの他にも、「お花茶屋」がある。八代吉宗が享保年間(一七一六~三六)、ここ葛西の地に鷹狩りに訪れた際、急に腹痛を覚え、近くの茶屋の娘お花の看護により回復、その礼に「お花茶屋」の名称を与えたというが、一説には三代家光が命名したともいわれる。
また、同じく吉宗が鷹狩りに出かけ、その地で雑煮が出された、その椀の中身の野菜が香りがあり、歯ごたえあって旨い。この野菜まだしかとした名前がないと聞き、つけられた名が訪問地小松川を取った「小松菜」、これ以来、小松菜は関東の雑煮の定番となった。
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