5 縄文海進、海退の名残 「谷」 のつく地名

阿佐ヶ谷/市谷/渋谷/千駄ヶ谷/雑司が谷/四谷

古代より人間は水の湧き出る所に神仏を祭り、その流れ出る畔で生活を営んできだ。その川が造りだした地形が、「谷」と呼ばれる所である。武蔵野台地において、比較的大きな川は、石神井川、小石川、野川などであった。その本流や支流の谷を「ヤ、ヤト、ヤチ、ヤチダ」等と呼び、更に「サワ、クボ」とも呼んだ。ヤ(矢または谷)とは、矢野口、矢切の渡し、矢口の渡しなどの地名が示す様に、境界または、ある範囲を示す意味を示していた。

「阿佐ヶ谷」

中央快速の停まらない駅「阿佐ヶ谷」は、明治二十ニ年に甲武鉄道が敷拙され、大正十一年、阿佐ヶ谷駅が建設され、新宿からほどほどに離れた閑静な住宅街である。地名の由来は、近くを流れる桃園川が浅い谷地をなしていたが、この浅い谷地が麻ヶ谷、阿佐ヶ谷に転訛、また、桃園川の流域は葦が茂っていた事から、葦ヶ谷と呼ばれ、これが転訛したともいわれている。

更にこの地で麻が採れ、麻ヶ谷となったとか、中世江戸氏から分かれた、阿佐ヶ谷氏の苗字から取ったなど諸説あるが、桃園川の浅い谷であったので、浅ヶ谷が転訛した説が有力視されている。同様の地名には八王子、長野市の浅川がある。因みに麻は自生しない為、春分の頃種を蒔く。

「市谷」

江戸城の北側に位置する「市谷」は、外堀に接し見附を上ると番町に通ずる町である。春には外堀沿いの、石垣の上に櫻が咲きほこり、その下を黄色い電車が走っている。

市谷という地名の由来はいくつかある。ひとつは近くの亀岡八幡宮の門前で市がたち、「市買」が市谷となったとされる。亀岡八幡は尾張徳川家の上屋敷に隣接、正式名称は「市谷亀岡八幡宮」、道灌が文明十一年(一四七九)に、鎌倉の鶴岡八幡宮を分祀して、江戸城の西に勧請、鶴に対して亀と縁起をかついだ神社である。江戸時代になって、家光や桂昌院、吉保などの庇護を受け栄えた。

他に、古くは市谷孫四郎の領地であったからとも、また、近くの尾張上屋敷による資料によると、昔この辺りには、四ヶ所の谷があり、市ヶ谷はその一の谷、四谷はその四の谷と呼ばれ、一の谷が転じて、市谷になったとされている。

江戸期は豊島郡野方領市谷村、初期は布田新田と呼ばれた。元和六年(一六二○)町屋となり同九年、外堀開削の為収公され、外堀の底になっている。寛永元年(一六二四)、堀が竣工、布田新田の住民達は、替え地の佐渡原(現佐土原)の土で、堀端の田地を埋め立て、町屋を開設したのが市谷田町一~四丁目である。地名は市谷、市ヶ谷とも書き、JR、メトロは市ケ谷と「ケ」が大きく、都営線は市ヶ谷と「ヶ」を小さく書く。

「渋谷」

渋谷には原宿、代官山、南平台、神泉、神山、鉢山、宇田川など、今ものんびりとした武蔵野の面影を残す地名が多い。渋谷自体は山の手にありながら、その名が示す様に谷の町、海抜十二、八mの場所に立地、一方表参道は三十m、隣町へ行くには道玄坂や宮益坂を上っていかなければならない。

唯一南方に渋谷川が流れている。この川は玉川上水の余水と、新宿御苑を水源として千駄ヶ谷を渡る。文部省唱歌「春の小川」の舞台となった川骨川が宇田川と合流し、その下流で渋谷川に合流、現在のJR渋谷駅から東急の下を流れ、稲荷橋の下で地上に出て、明治通りに沿って天現橋辺りで港区に入り、古川と名をかえ江戸の海に注いでいる。

渋谷とは両岸がせまった、窪んだ狭い谷川を意味し、同様の由来には渋沢、渋川などがある。鎌倉時代にはここまで、塩入りの場所であった為、「塩谷の里」となりそれが転訛、また、その後に渋谷氏の屋敷があった為、渋谷になったともいわれている。江戸時代、渋谷の地域は広範囲で、上、中、下の渋谷村は幕府領、旗本領、寺社領などに分かれていたが、正徳三年(一七一三)道玄町、宮益町、広尾町が、町奉行支配となっている。

明治に入り、神泉に湧き水が起源とされる弘法湯や、道玄坂には富士講の大先達吉田家、世田谷には淡島明神のお灸など、渋谷には人の集まる要素が重なり、赤坂方面から大山道筋にあたり、また府内からも近かった為、町場的要素が生れ、道玄坂上円山町界隈に花街が展開されていった。

「千駄ヶ谷」

昔は「萱野」と呼ばれ、「千駄萱」「千駄之萱」とも書いた。渋谷川の上流に位置し、沢山の萱が生えていた。ここで一日に千駄の萱を出していた事に地名は由来するといわれる、(江戸砂子)。一駄とは、馬が萱を背中の両脇に振り分け、三六貫(約一四○kg)を運ぶ事をいう。また他に、道灌が「この谷間に稲千駄もあるべし」と語ったとも、千駄木を焚いて雨乞いをした谷(ヤ、ヤト、ヤツ)であったなど諸説ある。

江戸期の千駄ケ谷村は、豊島郡野方領のうちで、ここの日蓮宗仙寿院の庭園は、谷中の日暮里に似ている事から、新日暮里とも呼ばれ、文政から天保年間(一八一八~四三)の頃から、櫻の名所となり、名物「お仲団子」は参詣人に喜ばれた。

維新後、徳川宗家が当地に移住、十三代家定の御台所天障院篤姫は、第十六代にあたる家達をここで養育している。また、ここには富士塚のある鳩森八幡神社がある。因みにJR駅名は、千駄ケ谷の「ケ」は「ヶ」でなく、大きな「ケ」を使用している。

「雑司が谷」

永禄四年(一五六一)、鬼子母神の仏像が堀り出され、祀ったとされる「鬼子母神の森」があり、元来豊島郡戸田雑司ヶ村のうちで、周辺はほとんど田や畑ばかりであった。

名の由来は、元弘・建武(一三三一~三八)頃、朝廷で雑式(掃除や片付けなどの雑務)の職務にあった者達が、南朝の衰退を憂いてその職を辞し、武蔵のこの地にまで下って、居住したので「雑式谷」と称したものが、「雑司が谷」に転訛したものとされる。寛文四年(一六六四)広島藩浅野家の正室、満姫の寄進よって仏閣が建立されている。

「四谷」

江戸時代以前、内藤新宿辺りまでは「潮踏の里」「潮行の里」とも呼ばれ、芒の生えた「よつやの原」であった。地名の由来は昔、千日谷、茗荷谷、千駄ヶ谷、大上谷と呼ばれた、四っの谷があった為とされ、また、甲州道中の途中に四軒の家があった為ともされるが、この四軒が立ち並んだのは、江戸時代に入った元和年間(一六一五~ニ三)になってからで、江戸時代以前の「四谷」には存在してなかった、といった次第で、四谷を説明するには正合性が乏しい。

四谷という地名は、家康が甲州道中、青梅街道を造った際、「四谷大木戸」を設けたのが初見であるとされ、外濠の堀削により、退のきを命ぜられた麹町の寺群は、四谷に集団移転し門前町が軒を並べ、この結果、江戸都市部が江戸郊外に移行していく事になる。

文政十ニ年(一八二九)編纂の「御府内備考」によれば、四谷は内藤新宿、大久保、柏木、中野など、江戸城外濠西側まで含む、総称として使われていた事もあり、その頃の四谷を冠称した町名には、伝馬町一~三丁目、塩町一~三丁目、御箪笥町、愛染院門前町などがあり、多くの町が四谷を冠していた。JRは四ッ谷駅となる。

他に「谷」のつく「雪ヶ谷」は、戦前まで氷を作っていた氷室があり、夏には氷を出して売っていた。鎌倉の雪ノ下も同様氷を作っていた。



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