4 山の手と下町を結ぶ 「坂」 のある町
江戸の坂/伊皿子坂/一口坂/紀尾井坂/紀伊国坂/切通坂/九段坂/
暗闇坂/道玄坂、宮益坂/南部坂/目黒行人坂/無縁坂
坂は人生と似ている。登ったり下ったり、長い「人生街道」いつも平坦ばかりとは限らない。しかしその坂道を歩いていくと、なかなか面白く楽しい時もあるが、苦しい時の方が多かったりする。登り道の急な所で、急に視界が開け霊峰不二に挨拶されたり、炎天下のだらだらと長い下り坂で、大きな木陰に出会ったりするとホッとする。そんな瞬間、その坂の途中で見知らぬ人に出会ったりすると、誰か知らない人でも、自然と会釈をしてしまう。坂はそんな魅力を秘めた場所でもある。
「江戸の坂」
下町と山の手を結ぶ坂は、「潮見坂」と呼ばれる坂が多い。そこから潮=海がよく見え、当時の海岸線がそこまでせまっていた事を示している。東海道にある潮見坂は、白須賀宿から新居の関所に下る坂、明治天皇が東京御幸の際、初めて太平洋を見た事から付けられたと云う。また、三田の潮見坂は、家康が入府した際、これまで幾多の障害を乗り越えてきた事に因み、死を見(潮見)て、不死身(富士見)になるとかけて名付けられたんものだと云う。潮見、富士見と名付けられた坂は、江戸各地にある。
一方、武蔵野台地上にある坂は、かっては縄文海進、海退によってえぐられ生じた谷=川から台地に移行する道であり、その坂の下には集落があった所が多い。江戸時代、市内の約七割近く占めていたのが大名屋敷、旗本屋敷、残り三割を寺社と庶民の敷地が占めていた。これらの場所には今でいう住居の表示がなく、山の手在住の、住民の場所判断は坂と崖、この共通認識をお互いに持ち合う事によって、場所の特定がなされていた。
では実際に江戸時代、どの様な名前の坂が多かったのだろうか探ってみよう。やはりその頃、江戸の何処からでも見えた霊峰不二、その富士山がよく見渡せた「富士見坂」が最も多く、ついで「新坂」「暗闇坂」「幽霊坂」「稲荷坂」「地蔵坂」「中(仲)坂」「胸突坂」「雁木坂」などがある。
武家屋敷に因む坂は、「三宅坂」「小栗坂」「南部坂」「信濃坂」「服部坂」「紀尾井坂」など、寺社に因む坂は「明神坂」「天神坂」「氷川坂」「権現坂」「観音坂」など、夫々の神様の名がつけられている。
また、狸、狐、牛、鶯坂など、動物や鳥の名がついた坂や、榎、檜、藤、銀杏、「芋洗坂(一口)」など、植物にも因んだ坂も多い。また、時代を反映したものには、「切支丹坂」「鉄鉋坂」「行人坂」「聖坂」、明治になっての「乃木坂」「東郷坂」など。芸能関係では「浄瑠璃坂」「安珍坂」「神楽坂」など。面白いのは「坂町坂」、上から読んでも下から読んでも坂町坂と読む。
そして極めつきは「男坂」に「女坂」、大体が何処へ行っても人間同様「対」になっており、男坂は歩く距離は短いが、急勾配できつく一気に上る。一方、女坂は距離は長いがゆったりと歩ける。命名の由来は、男女の性格的肉体的からの、イメージによるものからと思われるが、江戸の頃は成程合点と頷けても、現代の風潮からの観察においては、逆のイメージの方が強く感じられるが、それは一方的な見方だとの指摘も受けそうだ。
ではこれらの坂が、具体的にどの辺りに多かったであろうか探ってみると、現在のJR京浜東北線に沿って、形成されている坂がそれであり、武蔵野台地と江戸下町低地を結ぶ動線であり、その高低差は平均約二十mほどである。
主な坂を北から辿ってみると、道灌の城跡辺りから赤羽へ下る「稲村坂」を下ると、田端辺りが石段である「不動坂」、日暮里周辺には「七面坂」「芋坂」、鴎外の「雁」の舞台になった「無縁坂」は、本郷から不忍池に伸びる坂。ここから南に向かうと、湯島の切り通しを抜け「湯島天神坂」「妻恋坂」「神田明神、男坂」へと続く。
こちらも文学の世界がひろがる。湯島の白梅を著名にした泉鏡花「婦系図」、投げ銭でお馴染みの野村胡堂「銭形平次捕物控」、投げ銭に使ったのは寛永通宝、投げたあとの銭の回収は、子分の八五郎と一諸にやらないと、恋女房のお静さんに叱られる、金のかかる捕り物であった。
本郷台の神田から豊島台、紅葉山のある淀橋台へと渡ると「九段坂」、今の靖国神社にある常灯明台が、江戸湊に出入りする、千石船の灯台の役目を果たしたという。平川門から江戸城内に入ると、「梅林坂」と「潮見坂」、ここは江戸の初期頃まで日比谷入江の渚、此の坂の上に立って道灌も家康も、遠大な江戸の町造りを、考えたに違いない。
霞ヶ関の「江戸見坂」より愛宕山の「男坂」「女坂」、古川を渡ると「綱坂」「聖坂」「伊皿子坂」と続く高輪の台地に出る。この辺りは月の名所で、「月の岬」とも呼ばれた所である。「八ッ山」と呼ばれた品川宿には「仙台坂(ジェームス坂)」がある。
目黒川を渡ると台地は目黒台、立会川を境に大森辺りは荏原台、呑川をこえて、蒲田は久が原台地の上に位置する。ここまでは武蔵の国、江戸の自然河川、多摩川の「六郷の渡し」を越えれば、そこはもう相模の国であった。
なお、この「坂」という字には、傾き、転げ落ちるという意味をもち、また坂は土が反くとも書き、武士が叛くとも解され、更に土に返る(消滅)とも解されたため、町名改正の際、縁起をかつぎ、「土扁」を大きい、多い、豊かななどの意味をもつ、「こざと扁」に入れ替え、大坂を大阪、伊勢松坂を松阪に変更している町もある。
「伊皿子坂」
「此坂より東望すれば芝浦は脚下に在りて、潮汐の進退明らかに見るを得れば名づく」とある様に、江戸の頃は此の坂より江戸湾が一望できた。別称「潮見坂」「潮見﨑」、名の由来は、昔、明国人伊皿子(イビス)が住んでおり、自らを伊皿子と名乗ったという。
また、大仏(おさらぎ)が転訛、更に意味不明(いいさらふ)に転訛した、言葉の変化だともいわれる。此の坂は現在の地名では、三田四丁目と高輪二丁目の間にあり、泉岳寺から上り、坂上で「魚藍坂」につながる。
「一口坂」
一口坂と書いて「いもあらいさか」と読ませる坂はいくつかある。いもあらいとは疱瘡の事を「いもがき」「へも」と呼び、これを指すという意味からこの呼び方となった。JRお茶ノ水駅から近い「淡路坂」は、大田道灌が娘の為に、山城国一口の里から疱瘡神を、江戸城内に勧請したこと始まるとされる。また、靖国通りから九段三と四丁目の間を、新見附橋へ下る坂も「いもあらい坂」と呼ぶ。
六本木駅から麻布十番にむかう坂は「芋洗坂」、江戸期、仲秋の名月の頃、近在の農家が里芋を運んできて、坂の途中の朝日稲荷で、芋を洗い売っていた事から、この名がついたと云われる。旧暦八月十五日の月見に供えるのは、団子ではなく里芋、この里芋江戸の頃は、米に準ずる貴重な作物であった為、別名「芋名月」とも呼ばれた。また、麻布には坂が多く、これらの坂の他に「あひる坂」「一本松坂」「饂飩坂」「御太刀坂」「於多福坂」「七面坂」「鳥居坂」「姫下坂」「北条坂」「奴坂」等々がある。
「紀尾井坂」
清水谷から西に喰違見附に至る、全長約二百m程の坂をいう。江戸時代の正式名称は「清水坂」、坂の南側に紀州家(プリンスホテル)、北側に尾張家(上智大学)、井伊家(ニューオータニ)の中屋敷があった事でこの名称がある。
明治七年一月、岩倉具視が喰違見附付近で、狙撃される事件が発生、本人は堀端に転がり落ちて助かっている。更に明治十一年五月には、大久保利通が不平士族であった旧加賀藩士らに、暗殺される事件が起きている。
「紀伊国坂」
九段坂同様に江戸を代表する坂である「紀伊国坂」は江戸の初期、北桔梗御門から竹橋御門に通じる坂の辺りに、尾張、紀州両藩の上屋敷があった事に因む坂である。「再校砂子」には「紀伊国坂、竹橋御門へ下る小坂をいう。むかし此所に尾張、紀州の両御殿ありしなり。今赤坂に同名あり」としている。
両屋敷は明暦の大火により焼失、尾張家は市谷に、紀州家は赤坂に移転、現赤坂一丁目を北側から赤坂見附へと、西の方へ下る坂を紀伊国坂、別称「赤坂」「茜坂」と呼ぶ。これは紀州藩の屋敷地(現迎賓館)辺りに、茜草が多く自生、赤根山とも呼ばれ、そこへ上がる紀伊国坂を、赤坂と呼んだ事による。また此の周辺は赤土であった事にもよるとされる。
慶長十七年(一六一二)東側の海岸線を開削、埋め残した「三十間堀」にも、紀州家に因む橋があった。当時は木挽橋、新橋(三原橋)、紀伊国橋、牛草橋(真福寺橋)の四橋があった。現銀座一、二丁目の間にあった掘割西詰に、紀伊大納言蔵屋敷があった為、ここに架かる橋を「紀伊国橋」と呼ばれた。この橋は昭和二十四年、戦後の瓦礫処理の為、三十間堀が埋立てられる事により消滅している。
「切通坂」
台地を切り開いてつけた坂の名称で、江戸府内には各所にあった。現在の区で当てはめていくと、港区、増上寺裏門の涅槃門から、飯倉及び西久保に通ずる坂で、坂の途中に「時の鐘」があった。此の坂は寛永年間(一六二四~四三)中期に開削、見世物、香具師や古道具屋等の見世が並んで、浅草の様であったと云う。
文京区内の切通坂は、昔の奥州道中の別路になっていた、湯島二丁目と四丁目の境から、上野広小路へ向かっている。また、渋谷区代々木四丁目を西へ下り、更に上りとなる坂。坂上は土佐藩の下屋敷があり、大正初期までは、一帯が代々木野と呼ばれた原であった。
「九段坂」
江戸は山の手と下町から出来ている、其の間をつなぐのが坂、なかでも一番大きく急な坂であったのが「九段坂」。飯田堀に架かる俎橋(江戸城の食材の仕込みを担当、周辺の町は台所町と呼ばれていた)から上る坂。現在で云うと、日本橋川に被さる高速道路の下あたりから、靖国神社の方へ登る坂で、坂の上から江戸市中が見渡せ、月の名所にもなっていた。
当初は「飯田坂」、この名の由来は家康が視察をした際、案内役を勤めた飯田喜兵衛により、この辺り一帯を飯田町と呼んだ。宝永六年(一七〇九)、坂の北側に九段の石段が築かれ、それぞれの坂に御用屋敷が建てられ、これらは九段屋敷と呼ぶようになって、飯田坂から九段坂に改称された。九段坂は「江戸四日巡り」の西方最深部にあたる。
九段坂に平行して中坂があり、この坂下には滝沢馬琴の居宅があった。北側には冬青木(とちのき)坂があり、この坂上から北へ下がると「二合半坂」。ここから日光山が半分程見えたという。富士山が十合だとすると日光山は五合、その半分なら二合半、江戸っ子は計算が早い。別説では日光の半分で日光半、これが転訛して二合半(こなから)、辻褄があっている。
「暗闇坂」
此の坂も府内にいくつかあった。(港区)元麻布一と三丁目の境から、鳥居坂往還まで下る坂で、向かいの高い崖の木立が深くこの名がついた、別称宮村坂という。
(文京区)本郷七丁目と弥生二丁目の間を、東大弥生門前に下る坂。江戸期は加賀前田藩、と、水戸徳川家の屋敷の間にあたる。
(新宿区)画報によると「くらやみ坂は愛住町の西北角より、市谷田町に下る坂。西側が寺院で竹樹茂生して通をおおい、白日なお暗きをもって名づく」、別称「くらがり坂」。
(大田区)こちらは「闇坂」と書く。山王二と三丁目の間を上る、木立の闇が深い坂。この坂の上には将軍家の兎狩り場があった。
「仙台坂」
江戸時代、この坂上一帯は椚山と呼ばれ、仙台伊達藩の下屋敷があった。現在の南品川五と六丁目の間で、慶応二年(一八六六)イギリス海軍大尉ジョンMゼームスが二十八歳で来日、この坂に居住した。
坂本龍馬らとも知己を得、明治五年、政府海軍省に勤め、働きにより勲二等を授与され、明治四十一年この地で死去。故に仙台坂は「ゼームス坂」とも呼ばれる。明治末期、この辺りは御殿山を望んで風光明媚な所で、坂上に元祖仙台味噌製造所があった。
「道玄坂/宮益坂」
江戸時代の渋谷は、葭や葦が生える淋しい野原であった。ここを繋いでいたのが、大山道に通ずる「道玄坂」と、渋谷から青山、府内へと通ずる「宮益坂」である。
現在の道玄坂二丁目109の辺りに、「富士見坂一本松」と呼ばれた、一本の巨大な松があり、その根元には石仏が祀られていたという。道玄坂の名の由来は、鎌倉時代、和田義直の残党大和田道玄が、この松の大木に登って物見をし、金持ちそうな旅人を見つけると、子分に金品を強奪させた事から、この名がついたという。一方、宮益坂はここから富士がよく眺められたので、「富士見坂」と呼ばれていたが、此の坂の中程北側に、御嶽神社がある事から、宮の御益のある坂、宮益坂へと改称された。
「南部坂」
有栖川宮記念公園とドイツ大使館の間を、西へ下る坂である。丁目で表すと南麻布四と五丁目の間の坂を「南部坂」という。記念公園の敷地は、延宝年間(一六七三~八一)から、盛岡藩南部家の中屋敷であり、幕末まで続いた。
南部坂といえば、歌舞伎や講談でも名シーンとなっている「南部坂雪の別れ」、内蔵助が亡き殿の未亡人、搖泉院に別れを告げに、実家三次浅野家屋敷に訪れるが、吉良家の間者が同席していた為、討ち入りの日が告げられず、帰っていく坂道がここである。
「目黒行人坂」
「行人坂」「権之助坂」は、いずれもJR目黒駅から目黒川へ向かう下り坂である。行人坂は湯島天神、谷中感応寺と並んで「江戸の三富」と呼ばれた、目黒不動への参詣の道として賑い、太鼓橋を渡って参道には、茶屋や土産物屋が立ち並んでいた。
この坂名の由来は、大圓寺で修行をしている僧(行人)たちが托鉢の為、この坂を上下したことからとも、出羽国羽黒山の行者がこの地に、大日如来を祀る大圓寺を建立した事からともいわれる。
明和九年(一七七二)、この寺の修行僧の放火によって、死者一万五千余人(数千人ともいう)をだす「目黒行人坂の火事(明和の大火)」が発生、「明暦の大火」に次ぐ大惨事となった。この為幕府は、幕末までこの寺の再建を認めなかった。江戸市民にとって、全く迷惑(明和九)な火事であった。
「無縁坂」
「武辺坂」とも書く。文京区湯島四丁目と台東区池之端一丁目の境を、東に下る寂しい坂で、不忍池の畔へ出た。本郷区史によると、昔この坂下にあった称迎院という寺が、無縁寺であったのが、この坂の由来だとされる。明治になって森鴎外の小説「雁」の舞台となる。昔、ここから眺める不忍池の雪景色はすばらしかったと云う。
「無縁」とは人間界においては、親子、兄弟、夫婦との縁のない、またこれらと縁を切る事を無縁という。更に人間関係だけでなく酒や好きな事、その人間にとって利益とならない事柄から、縁を切る事も無縁という。
一方、仏の世界においては「無縁」とは、親子、兄弟、夫婦といった関係や縁を超えて、隔てなく仏の慈悲、慈愛を施す事を無縁という。無限の慈愛、未来永劫の慈悲を人類、民族、利害にとらわれない全人類に与える事が「無縁の世界」に通ずるとされる。
とかく人間は民族、人種、国や組織によって境界を作り、排他的且つ、唯我独尊的考え方をもつ。特に日本人は島国のせいか、「群れ」を作り「シマ」を作りたがる。所謂島国根性といわれる行為である。排他的唯我独尊的考え方においては、真のその国の、その家族の、その組織の、繁栄、進歩、融和という文字は見出せない。
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