3 意外と多い 「田」 のつく地名
祝田、宝田、千代田村/飯田町/梅田/江古田/神田/蒲田、鎌田/給田/瀬田/
世田谷/浅草田町、市谷田町/永田町/成田/羽田の渡し/三田/早稲田/和田
「祝田村/宝田村/千代田村」
「我が庵は松原続き海近く、富士の高根を軒端にぞ見る」
長禄元年(一四五七)大田道灌江戸城を築く自分の居室から居ながらにして、西南の方に富士の山を眺め、その足元には松の林が続き、蒼い海からさざ波が寄せていた。現在で例えるなら、駿河湾に面した西伊豆当りの風景であろうか。今の都心では考えられない光景が、道灌の時代にあった。
道灌がこの地を気に入った理由として、当時この辺りの地名は、祝田村、宝田村、千代田村という、末代まで繁栄する縁起のいい地名であった事や、富士山や海辺が見渡せる、絶好のロケーションであった事等があげられるが、定かではない。江戸、東京を代表したこれらの村の由来は、地名からおこったものか、人名からきたものか判然としていない。
城の候補地を決めるにあたって、道灌は夢の教示により、土地の者にこの辺りの地名を尋ねた処、いずれも縁起の良い地名であった為、この地に決めたとされる、また一方、品川沖に舟を出していた処,九城(このしろ」という魚が跳ねて舟に入って来た事からこれを吉兆と捉え、築城に思い立ったともされているが、いずれも釈然としない。実際には「享徳の乱」の勃発により、武蔵の国東部が上杉の最前線となり、道灌がその防衛の為に、江戸城を拠点として築いた事による。
道灌の江戸築城以前から、日比谷入江の沿岸に「祝言(ことはぎ)」といわれる祈祷、お払いする太夫(現代なら起工式や地鎮祭などを、取り結ぶ神官等の職業)などが住む集落があったといわれる。「祝田」という言葉は「はぶり=祝」を意味するが、また反対に「ほうむる」の意味もある。
「宝田」は音読みでは「ほうだ」、ほうむるタ(放る、葬むる)の音に、好字を充てたものとされるが、この宝田村、天正十八年(一五九〇)家康が入府の際、出迎えた馬込勘解由に、今の呉服橋辺りに屋敷を与えたが、その後の城内拡充の為、大伝馬町に移転させ、代々道中伝馬役を担わせている。この跡地は馬場先西丸下となっている。
いずれも、一方では、忌み嫌う意味合いを含む地名に、好字を充てがい、道灌がこの地に「江戸城」を築いた事により、江戸城の別名を「千代田城」と呼ぶようになる。「千代田」は未来永劫、繁栄を表す言葉である事から、美称として使われる様になる。明治になり、神田に千代田町、皇居外苑に元千代田町が起立されたが、その後消えている。
道灌の幼名は「鶴千代」、家康は「竹千代」、その後の徳川政権においては、次期将軍職の幼名は、代々竹千代君として将軍の座を約束された。道灌後、空白の百年を超えて、維新まで徳川政権の居城であった江戸城は、家康入府当時、城の前に日比谷の入江が拡がり、源流といわれる平川が城の東側を流れ、折れ曲って南方の海、日比谷の入江に注いでいた。この川の東が「豊嶋郡」、西が「荏原郡」長く江戸市民に馴染まれる地名となっている。
因みに、海に接する江戸城の丘の上、現在の「富士見櫓」の位置にあったとされる「静勝軒(書斎兼応接間)」を飾るため、道灌は京五山の長老たちに、作らせた詩文(全文漢字)は「江亭記」と呼ばれる。
東国の寒村、江戸の隊長(道灌)の小城(江戸城)と、その周辺を描写した文章である。江亭記の全文は「江戸名所図会」巻頭部分に、楷書で掲載されている。この時代の道灌の地位は、足利将軍の家来の関東管領=鎌倉公坊)であり、管領の家来(公坊の家老=上杉氏)の家来(執事)の立場であった。つまり、将軍の家来の家来の、そのまた家来、陪臣の陪臣の立場であった。
家康入府から二百六十五年、長らく平和な時代が続いた江戸は、慶応四年(一八六八)、駿府での西郷と山岡会談に続き、江戸での西郷と勝会談により、東征軍と幕府軍との衝突は避けられ、江戸城と江戸の町は、戦火を交える事なく解放された。この陰にはそれぞれ自分の意志でなく、策略や政治的意図により翻弄され、嫁いできた徳川家を、江戸の町を、そこに住む人々を守るべく、元家来、元許婚に、江戸城を燃やす事なく、「江戸無血開城」を訴える書状を送り、それを結びつけた天障院篤姫と皇女和宮の行為は、とかく暗い幕末の歴史の中で、一条の明りを灯している。
「飯田町」
江戸時代は九段坂下一帯の市街地をいう。番町や小川町の武家地に囲まれていた
地域で、中世の頃の千代田村であるとされる。家康が市内巡察の際、飯田喜兵衛が案内を務めた為、以来「飯田町」となったとされ、喜兵衛は名主となっている。江戸の初期から元禄時代、この辺りは幕府の賄い方の組屋敷が多く、俗に「台所町(現、飯田町流通センター)」と呼ばれ、東辺を外濠川が南に流れ、周辺武家屋敷の物資供給地として、水上交通の要衝でもあった。
「梅田」
足立区梅田は古くは、淵江村と呼ばれた荒川下流の北岸にあり、、日光街道、見沼用地辺りを占め、江戸期は足立郡のうちで幕府領、明王院領であった。
一方、摂津の国の梅田は淀川の沖積地で、低湿な土地を埋田(うめだ)し、梅の花咲く田圃となったところから、転訛し「梅田」の地名となった。江戸時代は幕府領、明治になって鉄道が開通され、梅田停車場(現JR梅田駅)が設置され、JRの他阪急、阪神、地下鉄、バスのターミナルとなっており、難波の「ミナミ」に対し「キタ」と呼ばれている。
二○十四年三月七日、大阪市阿倍野区に開業した「あべのハルカス」は、横浜ランドマーク二九六mを僅かに抜いて地上三百mの六十階となった。「ハルカス」は古語の晴るかす。「伊勢物語」の第九十五段「いかでものに対面して、おぼつかなく思ひつめたること、すこしははるかさん」による。この言葉には、人の心を晴れ晴れとさせる、と云う意味が込められている。将軍様御膝元お江戸でも、日本橋川が大きく左折する、一石橋から呉服橋交差点にかけて、日本一のビルを目指して、ハルカスをはるかに超える、三六〇mの複合施設を建設中である。
「江古田」
北の中新井川と、南の妙正寺川に挟まれた、沼袋台地の上に位置する。地名の由来は、エゴノキが畦道に生えていた事からといわれるが諸説ある。江戸期は多摩郡野方領のうちで、「千川用水」が引かれていた。
現在は中野区の北部に位置、最寄りの駅は練馬区旭丘にあり、都営は「えごた」、西武線は「えこだ」を呼称、道灌が活躍した時代、豊島一族と戦った「江古田、沼袋原の戦い」が繰り広げられた舞台である。
「神田」
「芝で生れて神田で育つ」「てやんでぇべらぼうめ」は、江戸っ子の馴染みの言葉である。神田は元来将門塚から、駿河台(神田山)にかけての一帯を指したが、江戸城が整備されてからは、常磐橋御門から浅草橋御門にかけての、本町通りの北側地域をさす様になった。
江戸紀聞によると「上古は神田とて、一国にあまたの田地をそなえて、大神宮の神供とせり、此所も則その所也」とある。一般に神社の「神田(しんでん)」に由来する地名である。神田とは、神社の祭祀等の運営経費に当てる、領田(寺社領)の事をいい、美戸代、御神田、大御田、御田とも呼ばれた。
神田及び寺田は、神社や寺院の所有物ではなく、神仏に帰属するものと認識されてきた為、七世紀後半の律令制度による「班田収綬法」の対象外で、これにより神田、寺田の売買は禁止されてきた。
その後、十一から十三世紀の荘園公領が成立しても、除田、免税田のひとつとして神田、寺田が位置づけられていく。従ってこれらにかかる年貢、公課は領主の収入とはならず、祭祀の経費として充てられ、こうした慣行は現代でも存続されている。
「蒲田/鎌田」
蒲田行進曲でお馴染みの大田区「蒲田」は、呑川下流の南岸に位置、鎌田、加万太とも書く。地名の由来は、アイヌ語説によれば、飛びこえた所、田の中の島、地質説によると、古代に湿地や沼地の高い所に、集落が出来た地域だとされる。また蒲田とは、泥深い田地を意味する。中世には江戸蒲田氏が支配、「新編武蔵風土記稿」によれば、「梅の木村」と呼ばれ、広重が描く梅の名勝であり「蒲田梅屋敷」と呼ばれた。因みに、現在大田区の区の花は梅である。
こちらの「鎌田」は、多摩川北岸の現世田谷区にあり、「かまた」「かまだ」とも読む。由来は多摩川の川股にある、荏原郡郷名のうちの「海田(あまだ)」の転訛だといわれるが諸説ある。寛永年間(一六二四~四三)以降、近江国彦根藩井伊家の領地、多摩川と六郷用水が流れていた。また、鎌田村は隣接する大蔵村の村域内に、十八ヶ所に及ぶ飛び地からなる小村であった。
「給田」
「給田」は、「きゅうでん、きゅうだ、たいだ、ためだ」とも読み、別名「給地」とも呼ばれていた。給田とは、中世において地頭や荘官に、職務の報酬として与えた田や畠を指し、そこの官史を「領家」と呼ぶ。江戸時代になり各藩主が、藩士達に給料として与えた、知行地を指す様になる。
「瀬田」
勢多、勢田とも書く。「瀬田」は瀬戸が訛まったもので、狭小な海峡を意味する。次第に海のあるなしに拘わらず、内陸部の山間や、丘陵地帯の狭い谷地も、瀬田と呼ぶようになった。世田谷区と川崎市高津区にまたがる地名で、多摩川の両岸に位置、多摩川沿岸から台地の谷の区域も含めて、瀬田になったと考えられる。
「近江国瀬田」は、古代近江国府が置かれていた地、日本書紀や枕草子にも記されている、古くからの水陸交通の要衝の地であった。瀬田唐橋の橋畔集落は、「壬申の乱」「承久の乱」「本能寺の変」「大坂夏の陣」など、著名な戦いの鍵を握る地点となった。
当時、東海道、東山通(中山道)から、琵琶湖、京都へ向かう場合、琵琶湖を南北に大きく迂回しない限り、瀬田川を渡る必要があった。従って近江の瀬田は、交通の要衝であると同時に、千年の都、京都防衛の拠点でもあった。古来、「瀬田の唐橋を制する者は天下を制する」とまでいわれ、何度も焼きはらわれ、何度も何度も架け替えられた。
「五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋」 芭蕉
近江八景「瀬田の夕照」は、琵琶湖を代表する風景のひとつである
「世田谷」
元々は勢多郷、低い谷間の湿田であった。室町時代に足利一族の吉良氏の所領となって、世田谷城(豪徳寺)が築かれた。安土桃山時代頃までは「せたがい」と発音、文字にすると「せた峡」(せたかい)となり、谷がついて「せたがや」になったと云われる。
江戸期は彦根藩井伊氏の所領、世田谷新宿に楽市が開かれている。三軒茶屋から分かれ、二子の渡しを経て、大山へ向かう矢倉沢往還、大山街道(玉川通り)と、登戸を経る津久井往還(世田谷通り)がある。世田谷区は昭和七年、世田谷、駒沢の二町と松沢、玉川の二村が合併して起立、現在、都内二十三区内で人口最大の区となっている。
「浅草田町/市谷田町」
「浅草田町」は、山谷堀沿いの日本堤の南に、東西に長く伸びていた町で、西の端に新吉原があった。万治三年(一六六〇)の江戸城修復の際に、砂利採集場となり「砂利場(別名泥町」と呼ばれた。町は一、二丁目からなり、二丁目には吉原通いの客の為に、顔を隠すのを助ける編笠を貸す茶屋が、二十八軒も軒を並べていたという。昭和四十一年消滅、現浅草六丁目のうちとなっている。
「市谷田町」は、市谷御門の北側から、外堀に沿って細長く開けていた町で、かっては「布田新田」と呼ばれた百姓地であったが、市谷堀開削の為に収公され、寛永元年(一六二四)工事完了に伴い堀端の用地を埋立、市谷田町一から四丁目を起立している。
この町から佐土ヶ原方面に上る坂が「浄瑠璃坂」、後年忠臣蔵でお馴染みの大石内蔵助が、参考としたといわれる「浄瑠璃坂の仇打ち」lがあった処である。
「永田町」
この町名は、明治二年から昭和四十二年までの名称であるが、由来は日枝神社前に、永田姓を名乗る家が三家あったとされるが、はっきりとはしていない(府志科)。江戸時代は、日枝神社門前の一帯を「永田馬場」と呼んでおり、彦根藩邸付近には「桜の井」「柳の井」と呼ばれた、名水の出る井戸があり、またこの一帯は桜の名所でもあり、江戸庶民の憩いの場所でもあった。
明治に入り永田町には、陸軍関係機関や首相官邸が置かれた。昭和十一年、一丁目に国会議事堂の移転工事開始、翌年二月、二・二六事件勃発、工事中の国会議事堂が占拠されるという事件が起きた。
「成田」
御不動様で御馴染みの千葉県成田は、雷がよく鳴るから「なりた」、杉並区の成田は成宗村の「成」と、田端村の「田」をつなげた地名、群馬、茨城、福島各県の成田は、新しく作られた田圃(新田)、即ち「成った田」に由来するという。
「羽田の渡し」
昭和十三年に大師橋が架けられるまでは、江戸から多摩川を渡り、川崎大師に参詣する重要な渡しであった。河口に位置する羽田は、中世の頃から漁村として発展、海老や蛤がよく獲れ、江戸初期は「御菜八ヶ浦」のひとつとして盛えた。因みに、羽田空港敷地内の穴守稲荷の赤い鳥居は、戦前まで残っていたが、GHQにより現在地に移転している。
「三田」
御田,箕多、箕田、美田、屯倉,弥陀とも書かれ、古代朝廷直轄領であった「屯倉」からの地名説と、伊勢神宮の「御田」からの説とが考えられている。律令制度では人間だけでなく、神仏にも「位」が授けられ、格に応じて領地が与えられていた。
神社には御厨,三田の原形となった「御田」、寺には「院田」などがそれである。「和田類聚抄」には、荏原郡御田郷の記述がある。三田の範囲は、御府内備考によれば、「東の方は芝の隣、南の方は少し高輪と交り、白金に続き、西は麻布に並び、北は赤羽根川に限れり」とされている。
「早稲田」
豊嶋郡野方領牛込村に属していたが、江戸初期分立して早稲田村となる。この辺りは「一望際涯なく広漠たる田野なり」といった地域であった。村内では多く茗荷を植え、江戸で売りさばいていた地域で、これを早稲田茗荷といった。明治十五年戸塚村に、早稲田専門学校(現早稲田大学)が創立され、茗荷畑は増えた学生達の下宿宿、本屋、喫茶店などになり、その姿を変えていった。
また、「早稲田鶴巻町」は、早稲田村で一番開発が遅れていた地域であった。この地名の由来は、小石川で放し飼いにされていた鶴が、ここまで飛来住みついた為、鶴の番人を置いたのが始まりとされる。一方、近くに流れる神田川がこの辺りで大きく蛇行、流れが淀んだ水流(つる)になっていた事からだともいわれている。
同様に鶴がつく地名や同義語には、世田谷区弦巻、多摩市鶴牧、川崎市鶴巻、横浜市青葉区鶴蒔、町田市、相模原市、大和市の鶴間、山梨県都留などがあり、江戸時代、国鳥、鶴は各地で生息していたものと推測できる。
「和田」
一般に川の曲流部のやや広い円みのある平地の事を「わだ」と表現したが、古代語では「海」を意味する。杉並区和田は、善福寺川が大きく輪の様に曲がっていた事による。また、より大きく「輪」になっている所は「川和」といい、これは各地にある。
江戸城内郭門の「和田倉御門」は、江戸初期は「蔵の御門」と呼ばれ、蔵があった事に由来している。ここまで各地の産物が、利根川から関宿に入り、江戸川、中川から小名木川を経て、大川をまたいで日本橋川、箱崎川などの掘割から、道三堀の和田倉門まで搬送された。この門は元和六年(一六二〇)築造、万治二年(一六五九)に改修され、通行は武士階級のみの門であった。
歴史が下って明治五年、この御門内の会津藩邸から出た火は、日比谷から八重洲、銀座、築地と燃え拡がり、隅田川岸でやっと鎮火する「銀座の大火」になった。これを契機に東京府は町の不燃化に乗り出し、「銀座煉瓦街」の誕生のきっかけとなるが、大正十二年の関東大震災でもろくも崩壊している。
その後日本の都市不燃化は、ヨーロッパの各都市に比べ大きく遅れ、昭和二十年の米軍B29による焼夷弾の洗礼により、東京はじめ各都市は貴重な人命、財産、史跡を失う事になる。先見性のない施策がここにもみられる。
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