2 霊峰 「不二」 が見えた場所

富士見坂/二合半坂/富士見町、富士見台/富士講、富士塚/

今でも見えるびゅうスポット

「西に富士ヶ根北には筑波 競い比べん伊達小袖」江戸歌舞伎「鞘当」である。

江戸城が武士のシンボルであるなら、日本橋は庶民のシンボルであり、富士のお山は共通のシンボルであった。浮世絵に描かれ、詩歌や俳句、川柳にも詠まれ、山岳信仰の対象でもあり、江戸っ子の好きな銭湯の絵の定番は、白砂青松を従えた、富士のお山が描かれていた。この様に毎日の生活にとけ込んでいる山が、「富士の山」であった。仰ぎみれば目の前に、腰を落とせば背中に、富士の山をしょっていた。

「日本橋 絵に刷る時は 富士を描き」

富士山は、花のお江戸日本橋から西南約二十と五里、春は桜の枝の間から、そっと緩い稜線をのぞかせ、夏は黒々と男らしくそびえたち、秋は藍空を背景に、ススキの座布団を敷いて楚楚と装い、冬は雪の綿帽子をかぶり、冬将軍にむかい神々しく鎮座している富士の山は、江戸の頃は少し高い所なら何処からでも、頸を伸ばせば朝な夕なに挨拶してくれた。江戸っ子たちは、自分の町から富士が見える事を誇りにし、自慢して富士見坂、富士見町、富士見台、富士見橋と、名をつけて暮してきた。

「元旦の みるものにせん 不二の山」 宗鑑

「富士見坂」

富士山がその坂から良く見えるという「富士見坂」は、二十三区内に約十六ヶ所あると云われ、別名で呼ばれている場合も含めれば二十四ヶ所以上あるとされる。。先ず上野のお山から谷中、日暮里、田端、飛鳥山に抜ける尾根道は、江戸からの古道で、花見のルートである、と同時に富士山が良く見えた尾根道であった。

尾根が一番狭くなるのは道灌山辺りで、東に筑波、西に富士と正に「鞘当」の世界で、景観の場所であった。また、日暮里辺りでは谷中の総鎮守「諏訪神社」の鳥居前を、西に降る坂は「富士見坂」、勿論富士のお山が良く見えた。

豊島区にいくと下高田の山の手にある富士見台(現学習院構内)に、「富士見茶屋珍々亭」という面白い名の茶屋があり、「十里の日光一眸に収まり、其景筆舌に尽く難きものなり」(高田町誌)とされ、歌川広重の「富士三十六景」のうち「雑司ヶ谷不二見坂」は、ここからの風景を描いたとされている。また、文化七年(一八一○)に作られた、芭蕉の

「目にかかる 時や殊更 五月富士」 の句碑が残されている。

江戸城お膝元でも富士がよく見え、神田小川町三丁目の坂、永田町と平河町の境の坂、九段北三丁目と富士見二丁目の境の坂を「富士見坂」と呼んだ。

文京区も坂の多い町、春日通りと不忍通りの交差点、つまり大塚二丁目と三丁目の境をなす坂も「富士見坂」、別称「不動坂」と呼ぶ。また、本郷二丁目の「油坂」を西北に堀の方に下る坂も「富士見坂」と呼ばれている。

「目黒目切坂」は別称「メリ坂」、画報によれば、「上目黒元富士前通りの世田谷道を、乾に下る坂を「めきり坂」という。「昔時臼の目切を業とせし者、ここに居住せしより 此名ありという」。昔は鎌倉街道で、村の細道であった為「暗闇坂」と呼ばれ、これより丹沢、大山詣の大山道となり、現在のルート246である。また、坂の多い目黒には、目切坂の他に富士山がよく見えた「茶屋坂」「別所坂」や、目黒川の太鼓橋から現在の目黒駅方面に上る急坂「目黒行人坂」(坂の項で紹介)があり、行人坂の上は西に向けて眺めが良い「富士見茶屋」があった。

お隣渋谷区道玄坂二丁目109辺りに、昔一本の大きな松が生えていたという。その根元に石仏が祀られており、そこから坂を上ると岐路があり、真直ぐ進むと大山道で三軒茶屋へ、右へ進むと駒場野へ向かう道であった。今の大橋辺りであろうか。この巨木の松「富士見坂一本松」と呼ばれていた。

「二合半坂」

江戸時代の容量単位は「升、合、勺」、関東地方ではモノの半分を「中ら」という。一升の半分は五合、五合の半分は二合半で「半中ら」、二合半入りの徳利を「こなから」と呼ぶ。

千代田区富士見町にある「二合半坂」は、酒を二合半位ひっかけないと登れない程の急坂だ、と云う洒落からついた名前で、また日光連山が二合半程見えたと云うので、元々の名前「日光坂」が,二合半坂になったともいわれる。いずれにしてもここも当時富士が良く拝めた場所であった。現在の飯田橋の目白通りと並行して、大神宮の参道から、靖国神社へ通じる坂で、別称「夕日ヶ丘」と呼ばれた。

「富士見町/富士見台」

麻布富士見町は,延宝年間(一六七三~八一)幕府の薬園が置かれ、元禄十一年(一六九八)将軍家の別荘、「白銀御殿」が建てられ、「麻布御殿」、「富士見御殿」ともいわれた。この御殿からの富士の眺望が優れていたという。富士詣の行者が多く通った「富士見街道」からも、富士がよく見えた事から富士見町があり、板橋区にもある。

また「富士見台」は、目黒区が荏原郡碑文谷村であった頃、雑木林や畑から、富士が良く見えたという富士見台、同じ町名は練馬区にもある。

「富士講/富士塚」

江戸は八百八講といわれる程、多数の講社があり、江戸後期に一大ブームとなった。江戸時代の信仰のひとつに山岳信仰があり、「富士講」もそのひとつであった。神社に参詣したり、霊山に登山するための団体組織が「講」であり、講元が往来手形や宿の手当てをしてくれた。

富士講の他に伊勢講、大山講、成田講などもあり、その他、江戸期の信仰旅行として、熊野講、安芸の宮島や金比羅詣り、四国八十八所巡りなどもあった。西南約百㌔mに構える富士の山/を、広重や北斎などは好んで絵の題材として取り上げた。

旧暦六月朔日は「富士詣」、古来より富士山は日本人の崇敬の中心であり、憧れの的でもあった。江戸時代になって富士信仰が盛んになり、組織化されていった。反面、幕府は何度も富士講禁止令をだしている。

富士講は先達、講元、世話人の三役により運営され、講金を集め登山やその他の世話をしたが、講に外れた人々や登れない人々の為に、行かなくとも擬似体験が出来る様に、市中の神社の境内に、実際の富士山の岩等で築いたのが「富士塚」である。富士山を理想郷の象徴と考える拠点が富士塚で、ここに登れば実際に富士のお山に登ったのと同じ御利益があるとされた。

庶民が日常生活から抜け出して、講という組織の中での行動とはいえ、現代の人間が家庭や職場からはなれ、旅に出かけその元気を吸い取るのと同様、江戸っ子たちにとっても、日頃の生活を活性化させ、人間関係の円滑化をもたらしたのである。

「高田富士」は安永八年(一七七九)江戸で最初に造られた「富士塚」で、高田村の植木職人が築造、規模も一番大きかったが今はない。「目黒富士」は,文化九年(一八一二)、目黒の信者が熔岩流をもって築造、高さ十二m、浅間神社も建てられた。目切坂とも暗闇坂ともよばれた坂を上りきった脇にあり、「元富士」とも呼ばれたがこれも今はない。中目黒二丁目「別所坂」上の、高さ十五mほどの「目黒新富士」は、「東富士」「近藤富士」とも呼ばれ、今も健在している。尚、都内に現存する富士塚は、駒込、深川、池袋、千住、鉄砲洲、千駄ヶ谷など百ヶ所余となっている。

さて、富士浅間神社の祭神は「木花咲邪姫命」、この女神様、神であっても人間と同じ感情をもち、美人の同性に対し嫉妬心が強く、美人に見える女性が御参りすると、必ず雨を降らしたといわれる。だが、美的感覚というものは時代によって異なり、ある時代に受け入れられた感覚が、ある時代においては全く無視される場合が多い。所謂「今風」であるか、ないかであるが、木花咲邪姫曰く「現代では美人にみえるは作られた者達故、雨を降らすにはあたらず」なんて、しらけきっているかも知れない。

「今でも見える富士びゅうスポット」

スカイツリーを始め、若州海浜公園、羽田国際線展望デッキ、貿易センタービル、葛西臨海公園観覧車、ゆりかごめ、東京タワーなど、人工的な構造物が多い中、まだ地面から見える場所は荒川土手、野川公園、荻窪及び北綾瀬駅周辺、靖国神社周辺、多摩川浅間神社、大井町線上野毛辺りの富士見橋、小田急成城辺りの線路をまたぐ富士見橋など、意外な場所からも富士を見る事が出来る。

因みに日本全国から、富士山を確認出来る場所の最東端は、富士山から一九八Km離れた、千葉県銚子市犬吠﨑燈台、西は三二九Km離れた、紀州那智勝浦にある富士見峠、南端は二七一Km洋上の東京都八丈島、北限は富士山から二九九Km離れた、福島県二本松市付近となっている。

江戸の頃は、何処からでも眺められた富士のお山は、現代では地上からはほとんど見る事は出来ない。昔、富士見坂から見る事が出来た六百近い「富士びゅうスポット」も、都内では西日暮里三丁目の「夕焼けだんだん」付近、大塚「不動坂」、上目黒の「目切坂」など、これらのスポットもマンションの建設などで、眺望が遮られつつあるのが現状である。

東京都は、日本の町並み保存である「伝統的建造物群保存地区」がない珍しい自治体である。ヨーロッパの首都、パリ、ロンドン、ローマ、プラハなどを始めアジアのバンコック、北京、イスタンブールなどは、その町、その近くに世界遺産が存在している。

国内では京都府が、大文字山が見える場所には高い建物は建てない、倉敷市でも景観を損ねるビルの空中権を、市が買い取る等の努力をしているが、東京都は、この様な景観を保存する努力が、みられていないのが現状である。

世界有数の環境都市、庭園都市であった江戸が、維新後、明治政府の富国強兵、殖産興業等の政策により、「富」「強さ」「効率」を重視した結果、江戸っ子と武士の共通のシンボル「不二の山の眺め」を捨て、何とも殺風景な町になり、おまけに家賃、物価と介護保険などが、やたらと高い住みづらい町へとなってしまった。池波正太郎氏いわく「田舍の木っ葉役人どもが、江戸の遺産を喰いつぶした」結果である。

江戸純情派「チーム江戸」

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