第2章 「江戸の町」ジャンル別ブラ散歩①

1 入り江の門戸<戸のつく地名> 江戸/青戸/今戸/高井戸/戸越/花川戸

 「戸」という文字は、亀戸が亀津と書かれていた様に,「津」が関東訛りで「ト(戸)」や「湊」に、転訛関連語として育っていったものと考えられ、縄文海進、海退を繰り返していた太古の時代、関東にもその名残が残され、戸のつく地名を探すのは困難な事ではない。  門戸にあたっていた「戸」のつく地名は、荒川、江戸川流域や宮戸川、宮津川の別称がある隅田川流域に,青戸、今戸、奥戸、橋戸、花川戸、舟戸などの地名があり、江戸川の対岸には江戸袋、杉戸、松戸などの地名がある。また、西の多摩川流域には岩戸、登戸などがあり、いずれも河川の入江の渡り場所にあり、市場がたち、価格が形成された「湊」の役割を果たしていた。

「江戸」

 日本の社会が、海に向かって大都市を造り、さらにその海の沖合に向かって、都市を拡大していったのが江戸である。江戸という地名は、中世以来の地名であり、武蔵野台地の東端、「日本橋波蝕台地」と呼ばれた舌状台地の一帯の地、「江戸前島」辺りであり、中世では郷名、近世では域名、城下名として用いられ幕末まで続く事になる。

江戸は地形的には日比谷入江の門戸にあたっていた事に由来、アイヌ語では宇土、烏土と出張った処を意味した。荻生徂徠や太田南畝などによれば、江戸は江の所、江の泊り、江の湊であり、荏の生える所、荏土であった。また、東都、江都、江府、武江とも呼ばれた。

現在の東京都は、古代の国名では武蔵の国の豊島、荏原、多摩、足立の各郡と、下総国葛飾郡、伊豆国賀茂郡の一部に相当、都心部に当たるのは豊島郡である。延喜五年(九〇五)に編纂された、法律の施行細則「延喜式」によれば、当時の武蔵国の特産物は、染料のムラサキとアカネ、馬であった。武蔵は広々とした平野であった。

平安後期、国司などの任務で赴任した、貴族たちがそのまま土着、豪族、武士となっていった。平氏の血をひく豊島、江戸、秩父氏らで、江戸氏から江戸の地名が生れたともいわれている。この中で安定した力を示したのが治承四年(一一八〇)頼朝に味方した豊島、江戸の両氏である。

この両氏は南北朝後に衰退、室町末期から戦国時代以降になると、関東管領(後の鎌倉公方)上杉氏の執事であった太田道灌が活躍し始め、「鱗集蟻合して日々市を成せり」、といわれる程に江戸は成長していく。

江戸の勝者となった後北条氏を豊臣氏が滅ぼし、天正十八年(一五九〇)家康入府。では、江戸が幕府の首都になったのは何時からなのか?難しい解釈はさておき、歴史的には、家康が関ヶ原の戦いで勝利をおさめ、慶長八年〈一六〇三)伏見城で、征夷大将軍の称号を朝廷から賜られた時点になる。

江戸が首都としての機能を、備えていたかどうかと問われると、如何なものかという見解がでてくる。その頃、控えめにみても京、大坂を引き合いに出すまでもなく、地方の城下町に比べても田舎であった。武士集団としての、軍事都市という観点からみれば、江戸は数歩譲ってそうであったかも知れないが、少なくとも庶民がハイそうですかと、素直に住める町ではなかった。

その頃の江戸の町は、沿岸で獲れた魚を食べ、近くの田畑で採れた農作物を食べ、これまた近くの山林で伐った、木や草を燃料とした自給自足的な生活、自分達が賄える生活、現代的な表現に置き換えると「地産地消」の生活をしていたのが、江戸のネイティブな原住民達であった。

慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いに勝利、体制が決定した江戸の町に、臣従した全国の諸候が、江戸に屋敷を構える事になる。しかし、屋敷は構えたがその体制、体面を保つ為の食糧、衣類、道具、備品等は、江戸では賄いきれなかったのである。結果、江戸より都市化が進んでいた、上方にこれらを依存した。早い話それより他に、江戸で生活を維持する方法がなかったのである。ここで改めて江戸、東京が、大都市に成長した理由を探ってみると、 ①徳川幕府政権の中心、即ち首都になった。 ②飲料水としての神田上水、玉川上水等、豊な水資源の確保を可能にした。 ③江戸湊や隅田川等、水運による物資輸送に恵まれた環境にあった。家康はこうした条件を見越して、江戸に幕府を開いたのである。

 道灌の江戸城が、日比谷の入江の波打ち際に留まったのに対し、家康の江戸は日比谷の入江を埋め立て、東の葭原を埋め立て、これによって江戸前島を地図の上から抹殺、将軍の代にして四代、年月にして七十余年の歳月をかけて、江戸の街を造りあげていったのである。   その後、宝暦年間から天明年間(一七五一~八八)の江戸後期になると、江戸の町に「大江戸」と云う言葉が、使われ始まる様になる。山東京伝や十返舎一九、大田南畝などの文献の中にも、大江戸の文言が見られ始め、住み慣れた江戸に、誇りをもつようになった江戸っ子達が、自分の町である江戸の自慢をし、「江戸とはこんなもんでぇ」、「江戸っ子とはこんな人間でぇ」と、上方に自信を持ち、対抗意識を持ち、江戸流、江戸前を主張しはじめた証として、大江戸と云う言葉、表現を使い始めたものと考えられる。

 さて、江戸に幕府を開いた家康であったが、元和二年(一六一六)の死因が、鯛の天麩羅か、胃癌か定かではないが、没する迄江戸の滞在は、わずか延べ四年間であるとされる。大部分は故郷駿河か、京での生活であった。家康が悩まされた「一向一揆」の旗印は「厭土穢土、欣土浄土」、やがて徳川軍団の旗印となる。天下を取る為の妥協である。家康は江戸という語句を余り好きでなかったかも知れない。江戸城を「御城」、江戸市街を「御府内」と表記、江戸という文言は、使用されていないのは、偶然であろうか推察の域を出ない。また、もうひとつの理由として、家康が入府した江戸初期、その後江戸下町の中心になる「江戸前島」は、鎌倉円覚寺の所領であり、江戸湊の中心でもあった。天下人秀吉もそれを安堵(所有を認め、保証する事)していたのにも関わらず、家康はそれを知らぬ振りをして無視、日比谷の入江を埋立、前島の尾根に並行する形で、西側に外濠川を造り、西側の沿岸の境界を消し、ついで東側の外側に、埋め残した水路、楓川、三十間堀をもって、東の沿岸を抹消、江戸前島の両海岸線を消す事によって、「江戸前島」という土地の存在を、完全に地図の上から抹殺したのである。

 この間の経過の記載は、全くその時期の文書にはない。意識的に記載しなかったのである。一連の行動そのものが、仕組まれた周到なプロジェクトによる、領地奪取作戦であった。家康は天下取りの為、あえてこの作戦を推し進めた。しかし、人間行動を推し進めても、心の中には合点のいかない、わだかまりが残る。そのわだかまりは、その場所、その言葉として「とらうま」として残る。長期政権を打ちたてた家康も、また人間だった。やはり「江戸」は家康として、生理的、性格的に真に馴染むことが出来なかった「場所」だとすると、「狸爺ぃ」といわれた家康も、意外とピュアな、可愛い性格であったと思われる。

 十八世紀後半の江戸は、江戸が一番江戸らしかった時代であった。今迄の上方風のしばりから解放され、生き方、考え方、作法、趣味、嗜好などなどが、江戸風に変化していく時代であった。従来の重農政策から重商政策に舵をきった田沼意次の時代、「江戸」の呼称にも変化が表れだした。荻生徂徠は政談で、元禄から享保年間(一六八八~一七三六)に、江戸の市街が拡大していく様子を、「何方迄が江戸の内にて、是より田舍という境これなく、民の心のままに家を建てつづける故、江戸の広さは年々に広まりゆき」と記した。こうした地域的空間の拡がりを踏まえ、大田蜀山人、山東京伝らが、その作品に表した「大江戸」という言葉が一般化していった。八っあん、熊さんの住む江戸の人口も、百万都市から百二十万、三十万と増加、ロンドン、パリをしのぐ世界第一の都市へ拡大していった。

 慶応四年、江戸は東征軍の軍政下におかれ、四月二日江戸開府事務が開始される。5月十ニ日、江戸府に「江戸鎮台」を置き、南北奉行所を廃止、市政裁判所を旧南町奉行市に設ける。七月十七日 、明治天皇詔勅を布告。「江戸ヲ称シテ東京トセン、是朕ノ海内一家、東西同視スル所以ナリ」江戸府を東京府と改称、当時の詠み方は「とうけい」で、字も「京」ではなく「亰」の文字であった。八月十七日、江戸城幸門内の大和郡山藩上屋敷を接収、東京府を開庁、明治二十七年、麹町区有楽町に移転。東京府を開設するには経緯があって、大久保利通は浪華(大坂)を主張、これに対し前島密らは江戸を主張した。その理由として、戊辰戦争の最中である関東、東北の人心を掌握する為、「江戸遷都」を重視、明治天皇が東下し、維新の政治を速やかに行うのが最善であるとした。

江戸が首都にいかにふさわしいかは、家康が江戸に幕府を開いた理由とほぼ一致する。前島らが家康を見習ったとみるのが妥当であろう。 ①江戸が地理的に日本のほぼ中心的位置にある。 ②軍事及び物流の観点から利用価値が大きい。 ③後背地が広く、都市の拡大が容易である、などの理由をあげる事が出来る。

参考までに、その後の江戸、東京をたどってみると、明治四年、七月十四日、「廃藩置県」を実施、「大区小区制」が始り、東京府は六大区九十七小区に分けられた。また、士農工商の身分制度を撤廃、一定の区域ごとに行政区画を決め、その区画の住民全てを身分に関係なく、戸籍に登録する事を盛り込んだ「戸籍法」を制定。これにより人口が明確にされ、廃藩置県、学制発布、徴兵制度、税制改革などが推し進められ、近代国家への国造りを目指していく。同十一年、東京府は府域を十五区と六郡に区画、伊豆半島を編入、二十二年、十五の区域を中心に東京市が誕生。二十六年、それまではほぼ現在の二十三区の範囲と、伊豆、小笠原諸島が東京府であったが、水道管理の一元化の為,西、北、南の三多摩を、神奈川県より東京府へ編入、これにより地域が二,三倍に拡大した。しかし、東京府知事が東京市長を兼任する、独立性のない自治体であった。二十九年、「市」を東京都として独立させ、残りを「武蔵県」として分離させようとする法案が出されたが市議会の反対のより実現しなかった。独立性をもつようになるのは、明治三十一年十月一日である。これを記念して「都民の日」が制定されている。

 大正十二年九月一日、関東大震災発生、昭和七年、東京府は人口の増加に伴い、周辺の八十二ヶ町を合併、大東京、三十五区の都市部と、多摩の三郡からの構成となったが市と府の二重構造からくる、権限や行政効率、戦争遂行の問題(行政ノ統一簡素化)の必要性から、同十八年の大東亜戦争戦時下、首都防衛のための行政の一体化を目的として、東京府と東京市を廃止、新たに「東京都」が誕生したが、国家主義的な側面をもち、地方自冶の実現にはそぐわない形であった。従って、東京府は明治四年から昭和十八年まで設置されていた、日本の府県のひとつという事になる。昭和二十二年、三十五区から二十二区に整理統合され、都道府県知事、区長が公選となる。麹町区+神田区=千代田区、日本橋区+京橋区=中央区、芝区+麻布区+赤坂区=港区などである。同八月、板橋区から練馬区が独立、現在の二十三区独立行政府制となる。

 昭和三十五年五月、東京都は統計処理に便利な様に、行政の規模を統一する事を目的とした「行政表示に関する法律」を施行、これを踏まえ市街地の表示方法を、従来の「道路方式」ではなく「街区方式」を選択した。結果、江戸二百六十余年の歴史ある町、江戸・東京は、世界の主要都市に共通する道路を中心にし、その両側に街が展開する「両側町」から、町の外縁部を道路で囲んだ交流のない閉鎖的な「片側町」へと移行する。それに伴い、そこに住む地域住民も親子、兄弟、親類はもとより、所謂「向こう三軒両隣」と云う繋がり、地縁がうすれ、「核」「単体」へと、地域住民の交流が変化、結果、家族そのものも、各々単体のライフスタイルに変わる傾向が強まっていく。いい意味での個人主義や家族、地域との繋がりをどの辺りで選択、線引きするのかは、個々の考え方、年代、スタンスの違いもあって、一概に答えはでないのが現状であるが、家族の暖かみ、繋がりは、江戸も現代も変わりはない。昭和三十九年、東京オリンピック開催、これにより東京の街並みは大きく変化、交通などが便利になった代わりに、江戸の遺産、掘割などが消滅していった。

「青戸」

中川の西岸に位置、この川を渡るこの地は「歩徒渡」といわれた。十地の古老は「おおと」と云う。徒歩で渡しが出来る「逢う戸」、青は「逢う」「会う」を意味する。「戸」は「津」の転嫁したもので、松戸、奥戸と同じく、港津であった事に由来している。青戸は川と川が合流して大きく開けた所で、一般的には「大戸」と呼ばれていた地域である。地名の由来は戦国時代、青砥藤綱を祀る神社があった為ともいわれるが定かではない。青戸は他の戸のつく地名と同じように、「葛西青津」と記載されており、津=入江 湊の入江に位置していた。長享二年(一四八八)頃には、葛西城も築かれており、この地域の政治、経済の中心地であった。

家康入府後、城の跡地には鷹狩りの休息場として、青戸御殿が建てられたが、延宝六年(一六七八)に取り壊されている。青戸に限らず、下町低地帯には多くの遺跡があり、中世以前のものだけでも約七十ヶ所もあり、人々の生活の場所であった事が伺われる。遺跡は江戸川、荒川、隅田川などの河口デルタ地帯の自然堤防や微高地に集中、亀戸(島)、寺嶋、牛嶋、小岩(甲和里)、柴又(嶋俣里)などの地名が残されている。また、墨田(隅田)の地名も「砂州」が「洲田」に転訛したものと云われる。浅草寺周辺や向島も、微高地のひとつで、江戸の下町は、家康が入府してから埋め立てられた、と云うのは誤りであると、「五百年前の東京」で菊地山哉は述べている。因みに地域名は「青戸」と書くが、京成電鉄の駅名は「青砥」の字を充てている。

「今戸」

隅田川と山谷堀が合流する辺りで、この山谷堀を上ると「吉原大門」、つまり吉原通いの新しい(今)津(渡し場)で、転訛して「今戸」となったといわれる。今戸の北が橋場、鎌倉時代、頼朝が渡河した橋杭が残されていた。今津から今戸になったのは、正保年間(一六四四~四七)とされ、今津とは新しい湊という意味で、この辺りまで縄文海進が進んでいた事が伺われる。山谷堀の南に位置する今戸から橋場、対岸の本所中之郷辺りは、昔から瓦などの窯業が盛んで、「今戸焼」は天正年間(一五七二~九二)千葉氏の家来が侍をやめ、瓦土器を作り始めたというが諸説ある。河岸地で焼かれた製品は、船で江戸へ搬送された。その頃の江戸の町は、小火は毎日、大火事も頻繁であった為、瓦の需要が多かった。燃料は松の枝や根、松を使うとヤニで瓦にツヤが出て高く売れたという。瓦の他にも、今戸人形や招き猫、狸等、動物を型とった製品や、現代でも売られている豚の形の蚊取りや、七輪、火鉢、食器等、生活用品も焼かれていた。

また、今戸橋から向島への「今戸の渡し」は 、山谷堀に架かる今戸橋から向島一丁目を繋いでいた。「今戸橋 上より下を 人通る」 と川柳にも詠まれているように、日本堤の下に流れる山谷堀は、新吉原通いの舟で賑わい、永井荷風の「すみだ川」の舞台になっている。切絵図の世界では「都鳥ノ名所ナリ」の地域、金波楼や二文字屋などの料亭も開かれ、こういった環境のもと、日本橋から程良く離れた閑静な場所でもあった為、冬場頻繁に発生する火事から、可愛い妻や子供たちを守るべく、あらかじめ避難させておく別荘として、大店の主が買い求めた一方、全く個人的な事情で、他人様を住まわせておく、隠れ家的な別宅の需要もかなり多かった。 「生きた姉さん 今戸に並んでいる」さて、近江国「今津」ば♪我は海の子で始まる、旧制三高の寮歌「琵琶湖周航の歌」でお馴染みの地であるが、北陸本線長浜から、湖面を竹生島に渡り、対岸湖西線今津は高島市にある。琵琶湖を眺めながらの一周ウォーキングコースも、整備されており桜の季節は更にいい。

「高井戸」

この名の由来は、武蔵野台地の為水脈が高く、水が湧き出していた井戸は高い場所にあった為とも、一方、逆の由来もあり、高い丘陵地の為、井戸を掘っても水が出ない事から、堀り兼ねない処を意味したともいわれている。同様の意味合いを持つ地名には、狭山市の「堀兼の井」がある。また、江戸時代、現在、高井戸四丁目にある宗源寺の高井戸不動が、遠くからでもよく見えた為、「高いお堂の不動様」から、高井戸の名が生まれた等、諸説ある。

慶長七年(一六〇二)甲州道中が開設され、高井戸が第一の宿場となり、同九年宿場は上、下高井戸の二つとなるが、慶安五年(一六五二)玉川上水が開削されると、立ちのいた七軒の農家が、中高井戸を立ちあげている。その後、江戸日本橋から二里の、「内藤新宿」が開設されるまで、約四里の高井戸宿が、甲州道中の初宿場であった。

「戸越」

小さな谷地や低湿地から、丘や台地等への入口を「谷戸」というが、その谷戸を越える処「やとこえ」が、「戸越」になったと考えられている。また、「江戸越えて清水の丘の成就院、願いの糸のとけぬ日はなし」の古歌によれば、「江戸見坂」から中原街道を隔てた戸越は、「江戸越え」からきたものとも考えられ、江戸見坂の由来も、遠く江戸を振りかえって見る、坂の意があるとされている。江戸名所図会には「とごえ」の読み仮名があり、戦国時代は荏原郡品川領、享保年間(一七一六~三五)以降、江戸時代を通じて戸越(トゴシ)村となっている。尚、戸越銀座商店街は、当時関東周辺都市に競ってネーミングされた、〇〇銀座を冠する、初の銀座商店街となっている。

「花川戸」

「江戸砂子」では、川端通の町であり、地名の由来は、桜の並木がある川端から「端川津」が、さらに転訛して「花川戸」となった。また旧地名は「小浜」といい、浅草寺に対する浜方=川端の町で、浜方が花方、更に花川に転訛していったものと云われている。また、花の名所である向島への戸口であり、渡しは花方の渡し、山の宿の渡し、花川戸の渡し、枕橋の渡しなどと呼ばれ、桜並木の川端通りにあった。正徳三年(一七一三)初演された、二代目市川團十郎のはまり役、歌舞伎十八番「助六由縁江戸櫻」は、花の吉原を舞台にした人気演目、花川戸の助六が花魁の揚巻の助けを借りて、悪の根源髭の意休を滅ぼす、痛快歌舞伎である。京の古代紫に対して助六の向こう鉢巻の「江戸紫」の誕生には、八代吉宗も力を注ぎ、紫草の根を精製して染めたもの、素材の良質さ、灰汁の適度、水質の適正と江戸の技術が相まって、奥州南部に次いで、関東のものが良質とされる。

「紫は 五色の外の 江戸自慢」とか「紫と 男は江戸に 限るなり」と詠まれた。

 また、幕末十五代慶喜を助けて活躍する新門辰五郎は、花川戸に居住した火消しの頭で侠客であった。新門の名称は、浅草伝法院の門番であった事に由来、娘の芳は側室となって慶喜をサポートしている。慶応四年(一八六八)戊辰戦争を放棄した慶喜は、京都守護職松平容保らと大坂湾より夜中逃亡、御浜御殿に上陸、その時の第一声が「ああ鰻が喰いてぇ」、開きなおりか余裕か、大坂城退去の際は余程慌てたものとみえ、徳川家代々の旗印を城に置き忘れ、これを辰五郎以下、郎党が取り戻しに行く事になる。

江戸純情派「チーム江戸」

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