ホ 切絵図を開く

 江戸で屋敷を拝領していたのは、全国の大名と旗本、御家人をあわせたいわゆる直参と呼ばれた武家集団達であった。そのうち旗本達は、大名と同じく個々に土地を拝領していた為、切絵図でも各々の名称が記されたが、御家人達は自分達が所属す組単位がまとめて屋敷を拝領、これが「組屋敷」と呼ばれた屋敷である。

 「御手先組」「御徒組」等がこれであるが、実際には内部で個々人に区割して生活の場としている。歴代将軍の警護役を務めた御徒組はひと組三十人体制、五~六千坪の屋敷を拝領、従って一世帯二百坪前後の土地に、屋敷を構える事ができた。現代の公務員宿舎よりゆとりである。

 商人と違い敷地的には、若干の余裕をもつ武家集団であったが、昇給のない俸禄、慢性的物価の上昇によるインフレに悩まされた。この困窮を補う為に大名は下屋敷利用して、仙台藩は仙台味噌、尾張藩では楽々焼、水戸藩では陶芸作品などに力を入れ藩財政を補い、旗本、御家人達は朝顔やツツジの栽培、金魚や松虫、鈴虫の飼育等で現金収入を得た。

 また八丁堀の旦那達は地の利を生かして、通り沿いの土地を医者や学者といった知的集団に賃貸して、賢く不動産収入を得た。現代サラリーマンが、余暇を利用してアルバイトするのも、御先祖様のDNAがさせるものか、生活費補充か時間の有効活用か定かではない。

 こうして大名、旗本屋敷は、個人名や定紋で記されたが、その屋敷の場所の区別はおおまかには三十六見附の内か外か、その見附を目安として道筋、坂、屋敷内の大きな樹木等を目当てに、表札なしの屋敷街を探し出すのは並み大抵の苦労ではなかった。番町のような特徴のない同じ構えの屋敷街ではなおさらであった。切絵図の需要先一番地であった。

 こうした実情を考慮してか、幕府、大名、旗本達が主要道路に「辻番」□印を自主的に九百ヶ所以上設置、最寄り武家が二十四時間体制で屋敷街の取り締まりを担っていく。

 町人地の辻番所は「自身番屋」、当初はその町の住民が交代に番をしたが次第に雇い制に移行していく。その「町人地」は、町の名前で御城に向けて一括表記され、道路は御城から放射線状に伸びる「本町通」は城から、御城の環状線となる「通町筋」は日本橋から一丁目が始まっていた。江戸時代はそうであったが、現在の本町通は江戸の歴史、慣習を無視して江戸橋から本町一丁目が始まる。

 現代のマップも写真入り、道順入り、イラスト入りと至れり尽くせりで反面、字が細かすぎて見づらい、バス停何分が何処の駅からのバスで何ていうバス停なのか表記がなく、イマイチはっきりわからない御本もある。

 江戸切絵図はニーズに応え、道路、堀割、武家地、町人地、寺社地等を当時の印刷技術を駆使して多彩な色で、ユーザーの要望に答えている。では、実際の切絵図の色分けはどうであったのだろうか、お馴染み尾張屋板で見てみよう。

江戸の約7割弱を占めていた武家地や小石川療養所等の幕府施設は白色の無地、残り3割強の土地を寺社地、町人地が仲良く分け合っている。

寺社地は赤色、明治になって薩長土の新政府が廃仏棄釈をうちだすが、江戸時代は徳川家の菩提寺である上野寛永寺が約三十五万坪、芝増上寺が約二十五万坪の例をだすまでもなく、浅草寺など寺院の勢力が強かった時代、寺院の境内は神社のそれよりも広大であった。切絵図の記載は、表門のある方向に向け何々寺と記されていたので、参詣者達は広い境内の塀を廻らずに済んだ。

 仲よく分け合った町人地は灰色に塗られていたが、ここに住む江戸人口の約半分の江戸っ子達は、個人情報を全く無視された環境長屋の中で、お節介を焼きながら肩を寄せ合い生き、気持ちはいつも日本晴の碧色であった。

 因みに江戸は、中期になってロンドン、パリを凌ぐ百~百二十万都市といわれたが、その数字は農、工、商の江戸人は、二年に一度行われる人別帖の調べによってある

程度正確さをきしたが、士の階級では参勤交代による、江戸参府の人数が把握しきれず、従って江戸全人口の把握もファジーとなっている。

 現在もそうであるが、住宅地はその土地柄によってイメージが変わってくる。江戸の頃も日本橋など、大店が並ぶ通りの地域、その通りから入った横丁、新道の地域、さらにそこから路地に入った、市井と呼ばれた地域ではそれぞれおのずと土地柄も異なり住んでいる人々も異なっていた。

 江戸を通して、この市井と呼ばれた地域に住み生活した庶民達によって、江戸の文化や慣習、しぐさが生まれ、育ち、成長、発展してきたのは紛れもない事実である。

 因みに地名、町名、通り名を表記するには○印をつけ、「此辺、此地何々ト云」「此通何々通ト云」と記載、また武家地の横丁は主要道路から、御家人地や寺町へ通ずる道路が多かったが、町人地では横丁が新道を指す場合もあったが、両方共、課税対象にはならない私道であった。

 町行く人々が歩く道路の色は黄色が使われている。江戸っ子達が住んでいた江戸の下町は、道路占有率、堀割占有率が現代に比べ大きな割合を占めており、こうした状況を重視した幕府は、明暦大火後、道奉行を新設、さらに享保5年(1720)これを廃止、代わって普請奉行管轄で道路や水道を管理させている。

 江戸下町を縦横に流れていた掘割の色は青色。江戸の町は隅田川、多摩川以外は人工の河川、riberでなくcanalである。

家康入府当時、御城の東側、御城下町(おしろしたまち)は日本橋波蝕台地(江戸前島)の微高地を除いて湿地帯、そこを埋立し町割をする際、丘陵地からの土砂の他に、堀割を開削して出た土砂を使用、両側の土地を埋立しながら、新しい土地を造成

していった。

従って堀割というといかにも土地を掘って、新しい水路にした様に思われがちであるが、実際には湿地帯に縄張りをして、その部分を「埋め残した」と解釈するのが妥当である。

 切絵図を開くと町並みに比べこの青さが目にしみる。江戸の町がベニスに 匹敵する程水の都であった事がうなずける。残念ながらこの東洋のベニスであった江戸・東京は震災や戦災の瓦礫処理、1964年の東京オリンピック開催による、高速道路の建設によって江戸の歴史は無視され、その遺産は食い潰されていった。

 さて、江戸ののどかな田や畑は薄緑、山林や土手、馬場や御用地は緑色で表示された。御城は内堀を造った際、掘り出した土砂で築き上げたのが江戸城の土塁であり、その上に石垣を組み白い連塀をめぐらし、松の並木をしつらえた。

 半蔵門から桜田門にかけて内堀は、松の緑と白壁を写し見事な曲線を描いている。ここに枝垂桜が風にそよぎ、白鳥のつがいが羽を休めているのは絵になる。この堀沿いの道を、万延元年(1860)3月3日朝、雪降りしきる中を江戸城に急いでいた人物は、時の大老井伊直弼であった。

 

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