ニ 江戸切絵図をひらく
地図を開くと通常北が上になっている。これは北半球の民族にとって、北極星は常に生活の中心であった為である。一方、江戸の地図は西、正確には北西を真上にし、城を中心にした全体図のものが多かった。
江戸の地形は西が武蔵野台地、東は埋立地、従って西の台地から東の城下町を見渡す様な地図が見やすかった為、また天皇家が西の京にあった事も関係してくると思われる。
江戸都市図最古のものは、通称「寛永江戸図」と呼ばれた「武州豊嶋郡江戸庄図」実測による最初の江戸図は、明暦大火の翌年の万治元年(一六五八)四代家綱が地図の必要性を認め作成した「万治年間江戸実測図」いわゆる「明暦実測図」ある。
江戸切絵図が最初に登場してくるのは、宝暦五年(一七五五)の江戸中期、九代将軍家重の時代である。それまでは江戸全体をカバーする一枚絵であったが、江戸の町は全国からの参勤交代や、一般庶民の商売や普請、訴訟、年季奉公などによりたえず出入りを繰り返している状況であった為、使い易い、わかり易さに重点をおいた切絵図が次第に販売量を伸ばし、大幅な屋敷替えの度に改訂版を刊行、益々需要が増やしていく。
販売量を伸ばしたのは、この他に江戸の城や名所が載っている切絵図は、在(地方)の人達にとって折りたたむと約十一×二十㎝になり、手頃でかさ張らない格好の江戸土産になったからである。
江戸時代実測ではないが、道路や建物の細部が掲載された一枚ずつの小図、通常切絵図と呼ばれ刊行されたものは四種類である。
① 最初のものは先程述べた宝暦5年、美濃屋と吉文字屋が合同出版した「番町絵図」、番町は大名、旗本の武家屋敷が多く表札などもない為分かりづらい地域で、需要が見込めたが八枚で販売をやめている。
② 麹町で荒物屋をしていた近江屋吾平(近吾堂)が弘化三年(一八四六)から安政三年(一八五六)にかけ三十七枚刊行した「近江屋板」、株が書肆の須原屋所有であったが、天保の改革で株仲間が解散させられた為、九十年前の「番町絵図」の復刻板を売りだしヒットさせている。
③ 嘉永二年(一八四九) 同じく麹町で絵草紙屋を開いていた尾張屋清七(近鱗堂)が刊行した、「尾張屋板」の三十枚の絵図は、明るくカラフルな絵柄と本来の販路を利用して、近江屋板をおさえ売れ筋商品として成長していった。
④ 続いて嘉永五年(一八五二)、日本橋旅籠町で地図業を営んでいた平野屋平助が、正確さを売り物にした「平野屋板」刊行したが、売れ行きが振るわず僅か三点で終了してしまう。この翌年の嘉永六年はペリーが来航し、続く安政の大獄と江戸の世情は、開国派だとか尊王攘夷派だと騒がしくなっていく時代である。
因みに尾張屋板が江戸下町日本橋界隈を載せた切絵図はというと ㋑日本橋北内神田両国浜町 ㋺八丁堀細見 ㋩八丁堀霊岸橋日本橋南 ㊁京橋南築地鉄砲洲 の四枚である。現在のマップと重ねて歩いてみるのも面白い。
市中を地域別に分割して刊行された地図が切絵図、さてその切絵図の売れ筋商品「尾張屋板」を参考に先ず江戸の核、江戸城からみてみよう。
表、中、大奥があった江戸城は、白抜きの葵の紋に「御城」の文字、他は国家機密のため空白。因みに「御」という字は将軍の所有物であるとの意味合いがある。
江戸の土地約七割が武家地、更にその約半分が上、中、下とあった大名屋敷。上屋敷は大名の公邸、登城の便を考え、主に西丸下、大名小路、外桜田門周辺に配置されていたが、切絵図では大名家の家紋と家名を、表門の位置に向けて記されてる。
中屋敷は隠居した元藩主や、世継ぎが住む屋敷で切絵図では■印で記され、赤坂にある紀尾井坂は紀州、尾張、井伊の中屋敷が連ねた坂道である。因みに山の手に多い坂の名前は、坂の上に向かって何々坂と表示され、登り下りの位置関係が文字によって解読できる様配慮されている。
蔵屋敷や別荘、避難場所的な役目をもった下屋敷は●印、水運の便がよい掘割沿いに位置しているものが多い。
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