ハ 何処までが江戸

天正十八年(一五九○) 家康が入府した頃の江戸は、太田道潅が造った江戸城二里がいわゆる江戸であった。外堀が堀削され、寛永期(一六二四~四四)の末頃迄に「古町三百町」と呼ばれる本町、室町が起立している。

明暦三年(一六五七)の大火以降、江戸の町は大改造が図られ、武家地、寺社が郊外に移転させられ、両国橋の架橋によって、本所、深川の川向こう迄、江戸が拡大していったのがこの時期である。町数は正徳三年(一七一三)、いわゆる八百八町をこえた九三三町となる。

 「嘘よりも八町多い江戸の町」

延享二年(一七四五)には、一六七八町へと僅か三十余年の後、倍近くまで膨れ上ってくる。江戸が拡大するにつれ、市街地の範囲を規定する必要に迫られた幕府は、元禄十一年(一六九八)町奉行支配を「榜示杭」で表示、この杭は江戸を府内、府外最初に示したもので、江戸の周囲に通じる道路二九ヶ所に建てられた。榜示杭には

「此杭より里内 小荷駄馬口附し者不可乗者也」

目安として江戸の人間が徒歩一日で歩ける圏内が江戸市中であった。

享保年間(一七一六~三五)町奉行大岡忠相によって、防火対策として瓦拭きや蔵造りが勧められ、中山道本郷三丁目の化粧品店、かねやす辺りまでが防火対策の境目であった。

 「本郷もかねやすまでは江戸の内」

また、寛政三年(一七九一)江戸払いの刑は、品川、板橋、四谷大木戸、本所、深川より外としているため、ここより内が江戸であったとの見方もできる。

江戸が一番江戸らしかった化政期の文政元年(一八一八) この時まで江戸の範囲基準は明確ではなかった。幕府の定義として、城を中心として四里四方を江戸の範囲とした。

これが余りにも漠然であるとして八月に伺い書 「御府内外境筋之儀」が提出され、これを受けて評定所より決定された事柄は以下である。

御符内とは神田橋、常盤橋門、半蔵門、外桜田門の御曲輪内から四里までの処とし、東は砂村、亀戸、西は代々木、角筈、南は上大崎村、南品川宿、北は千住、板橋とした。

この老中によって絵図面に朱の墨で引かれた江戸が、江戸御府内「朱引内」とし、ここより江戸城寄りを江戸と定めた。御府内とは寺社奉行が勧化(寺社が普請、修理をするために寄付を募る事)を認める範囲である。

大まかに現在の東京の範囲で示すと、JR山手線の内側がこれにあたる。この朱引図とは別に、町奉行の管轄を定めたのが黒の墨で引いた「墨引」である。東は海辺大工町、西は雑司ヶ谷村、南は中目黒村、北が駒込、巣鴨と朱引図よりひと回り小さい範囲であるが、目黒の鷹番辺りが朱引図より突出しているのが目立つ。

両図共 榜示杭のような具体的施設はなく、書類上の区別にとどまり、曖昧さにより関係機関により解釈の違いが生じたのは現代の官公庁と変わりはないが、幕府による見解が示され一応の収拾をみせた。

 

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