<番外編>鉄道の日記念特集 ①日本国有鉄道の歩み
18きっぷでゆく 大人の歴史浪漫 ①「日本国有鉄道・JRの歩み」
明治5年(1872)10月14日、日本初の鉄道が新橋(汐留)~横浜(桜木町)間に開業した。営業㌔29㌔を53分で走行、最速50㌔、1日上下9本、1等1,5円、中等(現在のグリーン車)1円、3等50銭(現在の約¥5,000)であった。まさに文明開化のシンボルの鉄道が走りだした。新橋駅が選ばれた理由は、市街地を避けて横浜への路線を延ばせる位置であり、まとまった土地を確保出来たからである。また、銀座にも比較的近い位置にあった事もあげられる。当時所管した政府官庁は「工部省鉄道寮」と、何とも堅い名前であった。22年、新橋~神戸間までの「東海道線」が開通、江戸日本橋~京都三条大橋まで、約14日かかった行程が1日に短縮され、現在では新幹線で2時間30分の行程である。また、明治26年には、「信越本線」横川~軽井沢間のアブト式鉄道も開通した。
明治37年時点での、首都圏における交通網は、民営の「日本鉄道」が今の「山手線」に匹敵する、新橋~品川~上野~秋葉原間までと、池袋~赤羽間を運行、同じく民営の「甲武鉄道」が、今の「中央線」に当たる中野~飯田町(飯田橋)まで、「東海道線」は新橋まで、「総武鉄道(現在の総武本線)」は、本所(錦糸町)の次、両国橋(両国)が終着駅であった。つまり、秋葉原~新橋間は未開通の状態であった。明治39年3月、「鉄道国有法」が施行され、日本、山陽、九州など全国主要17社私鉄、総延長4800㌔が買収された。 東京駅周辺は日比谷入江(大名小路)の跡という事情から埋め立て工事は難航、折からの日露戦争(明治37年、ロシアに宣戦布告)によって中断されていた。明治政府は皇居側の土地を三菱、岩崎弥太郎に払い下げ、三菱ヶ原と呼ばれて放置されていたが、明治41年から工事が開始され、それから6年間作業員延べ74万人、当時の金で270万円を要した。丸の内側は辰野金吾設計による、ヨーロッパルネッサンス様式を取り入れた、左右に八角形のドームを対比さえた3階建て、長さ322mの駅舎が完成、大正3年12月20日、東京駅は開業した。同じ年、呉服橋駅廃止、烏森駅が新橋駅に改称、新橋駅は貨物専用の汐留駅となった。こうして首都圏の中央ターミナル駅が誕生した。因みにに「日本橋」が五街道の起点として道路元標が置かれた様に、東京駅も東海道線、東北本線(中央線は神田駅)などの起点となり、東京駅7番線中央線路脇には、東海道本線起点を示す零㌔ポイントが置かれている。
東京駅の誕生が光とすれば、影となって消えていった駅がある。幻の昌平橋駅もそのひとつである。この駅は万世橋が出来るまでの仮駅であり、現在の中央線、総武線、メトロ丸の内線が立体交差する絶景ポイントに位置していた。当局は人や馬が通る道路の踏み切りなしの、日本初の市街線高架化計画を打ち出し、新橋~有楽町~東京~神田~万世橋~お茶ノ水駅付近まで、赤煉瓦アーチが造られた。大正元年、ハッ辻(須田町交差点近く)に開業した万世橋駅は当時瀟洒な駅舎が人気をはくしたが、大正3年に開業した東京駅により、神田駅やお茶の水駅にお客を奪われ、また「の」の字運転をしていた半環状線は、大正14年、東京~秋葉原経由~上野間の鉄道が開通、環状線(現在の「山の手線」横浜、神戸は山手線と呼ぶ)が開行、万世橋駅は昭和18年廃駅となり、後年、交通博物館となり鉄道好きの子供たち(大人たちも)を喜ばしてきた。
昭和20年の敗戦以降、国有鉄道(国鉄)は激しいインフレに加え、復員兵や海外引揚げ者の雇用の受け皿となった為、23年以降の特別会計は300億円の赤字となり財政は悪化、また、国鉄は政府出費100%の公社で、いわゆる三公社五現業のひとつであったが、労働争議は絶えなかった。24年、運輸省鉄道監督局のもと「日本国有鉄道」となる。(現在は国土交通省鉄道局管轄である)この様な状況のもと、昭和29年9月26日、青函連絡船「洞爺丸」が台風の為、函館湾で沈没、行方不明者含め犠牲者1155名、続く30年、瀬戸内海の宇高連絡船「紫雲丸}が、5回目の衝突事故を起こし、修学旅行中の小中学生など168名が犠牲になった。これらの事件を踏まえ、青函トンネルを開通させ「津軽海峡線」を開業、坂出~児島ルートの瀬戸大橋を完成、「瀬戸大橋線」を開業させた。37年、三河島駅構内でも衝突事故発生CTC(列車制御装置)導入のきっかけとなっている。
昭和33年、電車特急「こだま」登場、39年、広軌の東海道新幹線が開業、当時、新大坂まで4時間、現在では3分間隔で時速約300㌔を運転している。一方、財政状態はこの頃から高速道路や航空機との競合が激しさを増し、また、新線の建設などにより、39年より赤字体制が続き、この年8300億円の赤字を計上、それ以降一度も黒字にはならなかった。(旅客部門では59年度以降黒字)51年、国鉄のSL全廃、59年第セクター第1号となる「三陸鉄道」が開業、61年には「国鉄民営化関連法案」成立。国鉄時代の償還不能となった債務は24兆2千億円は、平成10年度の国の一般会計に繰りこまれ、郵便貯金特別会計からの繰り入れ、たばこ特別税州、国債などを財源とする国民負担で処理する事になった。政府保証付国鉄長期債務残高は、平成29年3月末で17兆6570億円であった。昭和62年4月1日、日本国有鉄道(Japanese National Railways)の分割民営化によって発足したJR各社は、北海道旅客鉄道、以下、東日本、東海、西日本、四国、九州の6社に、関連会社6社、合計12社に分割された。JR発足から30周年を迎えた平成29年、JR四国を除いたJR東海など5社は、旧国鉄時代に赤字に苦しんだ事から、新会社では「金」を失わない様に、通常の一般文書などを除き、社名などロゴタイプでは「鉄」の字を「失(失う)」から、「矢(つなげる)」で表す事にしている。
プロ野球球団「国鉄スワローズ」は、昭和25年から10年間活躍した。現東京ヤクルトの前身である。チーム名「Swallows」は、1950年代の国鉄人気特急「つばめ」に由来している。昭和5年~18年まで、鉄道省で「燕」(姉妹電車「鷗」)、昭和25年から39年まで、国鉄が流線型C53蒸気機関車で、東海道本線で運行していた特急電車が「つばめ」であった。これら、日本を代表する名門列車は、新幹線開業後は特急として、運転区間を西へ西へと延ばし、最終西鹿児島まで延伸した、山陽新幹線の開業により廃業、20年近く運行されなかったが、平成4年、JR九州が「鹿児島本線」に「特急つばさ」を登場させ、平成16年、九州新幹線にも、その名称を留めている。昭和4年、八重洲口を開業した東京駅は、現在総面積18万2千㎡(東京ドーム3,6個分)1日平均乗降客約46万人、電車本数4千本、ホーム本数28本(うち新幹線6本)の規模を有しているが、昭和20年、大東亜戦争末期、B29で被災、丸の内側駅舎は2階建てとして復興した。平成15年、国の重要文化財に指定され、24年、元の3階建てとして復元され、26年には東京駅開業100年を迎えている。
次号②は18きっぷお薦めコースと1枚残りの「東京発日帰りの旅」をお送りします、
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