江戸の御隠居様の光と影 ②

 御隠居さまを歴史的にみてみると、奈良時代の聖武天皇は、24歳で即位、その時代も地震や疱瘡などの災いが多かったため、これらを憂い、天平勝宝元年(749)娘に譲位、東大寺の大仏開眼を始め、国分寺、国分尼寺の建立に専念している。近世においては、慶長10年(1605)家康が、在位2年で三男秀忠に将軍職を譲っている。この事は将軍世襲を世に示したものであるが、実務的には駿府城で大御所となり、長く政権を握っていた。その後、二代秀忠、八代吉宗、11代家斉と大御所政治は続くが、江戸城とは別に拠を構え、人材を集め、政治的実権を把握していたのは家康のみである。また、各藩においては、浪費など行跡のよろしかぬ藩主を、家臣たちが強制的に隠居させたり、また、上杉鷹山や山内容堂のように、逆に元藩主から政権に復帰した例もみられる。一方、自ら自分の好きな道に進むため、隠居の身を選択、その後の活躍が目覚ましい庶民も沢山いる。「日本沿岸興地全図」を完成した、伊能忠敬は50歳で隠居、下総佐原より江戸へ出て、算術や天文学を学び全国を測量した。「名所江戸百景」を描いた歌川広重は、幕府定火消同心の家職を、文政6年(1823)に養子を迎えて、家督を譲り隠居の身となり、美人画から転向、「東海道五十三次」など、数々の風景画を発表していった。また、俳人松尾芭蕉は、寛文6(1666)仕官を退き、延宝3年(1675)伊賀より江戸へ下り、桃青を名乗り宗匠として自立して蕉門を確立、俳聖とまで呼ばれるようになった。いずれも隠居後の仕事が、大きな実を結んでいる例である。

 隠居後の生活費を、隠居分、寺参り分、隠居分と云う。自分で貯めるか、所有する不動産の家賃などで賄う。具体的には、母屋の敷地内に住むか、根岸の里など閑静な場所に引っ越すか、それも淋しい人は、近所の長屋の一間を借りて、住民との交流を楽しんだ。親孝行と思える子供たちがが沢山いれば、その子たちの住まいを渡り歩く事もできたが、現在と同様、我儘がきかず、また向うの都合で、出ていく場合も多かった。大店の主、御隠居さまは「根岸の里」江戸名所図会では、「呉竹の根岸の里は上野の山陰にして、幽趣ある故にや、都下の遊人多くはここに隠棲する」とある。この里は、火事の多い江戸の冬期には、大店の妻女や子供たちの非難場所や、職域不明の女性たちの住まいとしても使われた。

 御隠居さまたちの楽しみは、寺参りに園芸、釣り、今でいうパソコン教室に当たる囲碁や将棋、「高砂屋」「松竹梅」「十徳」など落語の世界における、横丁の長屋に住む御隠居さまは、もっぱらハっあんや熊さんの相談相手、男女の恋の手ほどきまでしてやった。「お前さんね、女に惚れられようとおこがましい事を思っちゃいけませんよ。先ずはふられない様、嫌われない様、努めなければいけませんよ」などとウンチクをもって指南した。こうした物知り、博学な御隠居さまにも欠点があり、㋑めったやたらと自分の知識を吹聴する事、㋺負け惜しみが強く、我(自己解釈)を曲げず、自分の説を通す事であった。こうした場面において「無学者論に負けず」で、八五郎からの反論に御隠居さまが、タジタジとなる場面もよくあるのは、お馴染み噺である。お隣中国では、年齢が若くとも先生の事を「老師(ラオシ)」と呼ぶ習慣がある。「老」という字には、単に歳をとった人という意味ではなく、人生の先輩、知恵者の事を意味している。現代では、0~19歳を未成年者、20~64歳までを現役世代、65~74歳までを前期、74歳以上を後期高齢者と云う。この前期、後期の分け方、必要性が、未だに解らないでいる。             

 


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