7 江戸の御隠居様の光と影 ①
男の幸せは「三惚れ」という。そのひとつは、自分の住んでいる土地を愛し惚れること、ふたつめは、自分の仕事に惚れこむこと、そしてみっつめは、これが大事であるが、自分の女房に脇目をふらずに惚れること(他人様のはいけません)だという。また、江戸っ子たちは、人間の幸せを人生の後半におき、若い時期は自分の晩年(老入れ)のための準備期間だと考え、若返りという思想はなかったとされる。晩年になっても、暗いマイナー的な生き方ではなく、前向きな人生を楽しむ自分たちがそこにいた。
隠居とは、人が世俗との関わりを断ち、山野などに隠棲するする事をいうが、一般的には家督を子に譲って、悠々自適の余生を過す事を指す。町人の場合、隠居する年齢は当人の気持ち次第であるが、その為には余生を送るそれなりの財産と、家督を譲っても大丈夫な息子の成長が不可欠であり、おおむね60代が多かった。その手続きは、町内の五人組を通して町名主に「戸主」の変更を届け出れば良かったが、今のように年金制度がなかった江戸時代、「宵越しの銭をもたねぇ」江戸庶民の8割といわれた、長屋暮しのハっあん、熊さんたちにとっては、楽隠居は「夢のまた夢」、体が達者なうちは働き続けなければならなかった。 一方、武家の隠居は、正式には60歳前後であったが、大体が70歳になると組頭に願いを提出、御役御免(致仕)となり、家禄は無事に嫡子に引き継がれた。因みに旧民法では、家族を監督する者を「戸主」といい、この立場にいる者を「家督」といった。昭和22年の民法改正により、「家督」はなくなり「世帯主」となり、必然的に隠居の制度もなくなった。淋しい事である。また、現行憲法でなくなったのは、姦通罪と不敬罪である。
「隠居は江戸の遊びの最たるもの」とした、江戸っ子たちの「隠居の哲学」には、老後とういう言葉はなく、現役から少しずつ降りてゆく「老入れ(おいいれ)という環境に、自分たちをおいて人生を楽しんだ。江戸の御隠居さまは、今ある人生を精一杯、自分の勤めを果たす中で、少しでも生活を充足させようと、家族たちを幸せにしようと考えた。それでも「足るを知る」ことを忘れなかった。物や金はいつも不足がちであったが、心のゆとりだけは、他人様には負けない自負がそこにあった。九尺二間の長屋では、プライバシー、今でいう個人情報につながるものは一切無視されている。逆にいえば、その分人間同士が密接に(今ではコロナのせいで密という言葉はタブー視されているが)助け合って生きていた。長屋の住民が少しでも具合が悪いと、先ず大家が見舞いをし、身の廻りの世話や看護を、長屋の住民に頼みこんだ。こういう事が重なって、住民の間では順番に面倒を看るという、「循環型看護システム」が自然と構築されていく。 現代では、一人暮らしの末の「孤独死」という不安が、常に心の底にわだかまっているが、そうした不安が、少なくとも江戸の大多数の人間には、無縁の社会であった。そうはいっても人生の危機、「死」に対する恐怖は現代よりも沢山あった。江戸に多かった火事や災害、定期的に発生する麻疹や天然痘などの流行り病、女性であれば出産前後の危機管理問題などに加え、江戸時代は、出生後の乳幼児の生存率が、衛生状態の悪さから極めて低かった。これらのリスクを無事乗り越えれば、江戸市民の平均寿命は意外と高く、歴史上人物の平均死亡年齢は、江戸初期67.7歳、中期67.6歳、後期65.2歳となっている。御隠居に関わらず、「養生訓」では、養生とは ㋑生活に留意し、健康の増進を図る事(摂生)、㋺病気の回復に努める事(保養)とし、また、人の幸せとして、㋑身に道を行い、心災いなく善を楽しむ ㋺身に病なく、快く楽しむ ㋩生長くして、久しく愉しむとして、例え富貴にしてもこの楽しみなければ、真の楽しみは無しとしている。如何であろうか?令和の楽しむ御隠居になるべく、勤めを果たしているであろうか?現代では、おでん鍋の様に、にネタ(社会、組織など)毎に、枠で仕切られている傾向にあるが、江戸の人間たちは、ヤミ鍋の様に、何が入っているか解らない楽しみの中で、幾度とない火事や疫病に抗しながら、精一杯に、しかも自分の人生を楽しみながら生きていた。令和の御隠居様たちは、何処に住み場所を決めるのであろうか?
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