6 江戸の若旦那の現実
令和からまだそう遠くない時代、まだ江戸と呼ばれた東京の町にも、江戸紫に彩られた紫陽花が、梅雨寒の冷雨にしっとりと濡れ、道行く人々の目をひきつけている。運動会や学校行事も中止や延期、江戸から馴染みの居酒屋も、飲み始めたと思ったらもう看板、あれも駄目これも控えての、つまらない世の中になっている。コロナと変異が蔓延しているこの日本にあって「何故、運動会は駄目で、オリパラだけがいいの?」素朴な子供たちの疑問に、大人たちは明確な回答が出せないまま不信感だけが増幅している。コロナ株、変異株、これからの五輪株が大会後、日本に蔓延し犠牲者が増えたら、運営関係者はどう自己の責任を取るであろうか?、また、多大なる借金のツケを何処に廻すのであろうか?多分、おそらくというより必然的に確実に、各々が先の大戦終了時がそうであったように、ああだこうだと云っている本人が、自分でも解らない言葉で責任逃れをするであろうことは、明確なシナリオである。
江戸幕府初代の家康から、15代慶喜まで仕えた老中、側用人、その他の武士たち、加えて大奥で務めた奥女中たちは、次の将軍代替わりにおいて交代、引退、左遷、蟄居、不遇のまま死を迎えた。また、その部下たちも一生昇給しない俸給を大事に頂き、その状況のもとで何とか自家の存続に翻弄した。しかし、節義を貴ぶ江戸時代の武士たちや現代の東京人は「鷹は死すとも 穂は摘まず」と、どんなに困っても不正な金品は受け取らなかった。だが現代日本の多くの政治家たちは違う。自分たちの職域で金の匂いや機会あれば絶対に逃さない。政治家のあるべき道理をそこへ置き、金あさりに奔走する。その結果が不正受給の政治家となる。しかもその上でその事実を否定する。きっと秘書だろうと立場的に弱い人間に振る。こうした人間は政治家とは云わない、政治屋と云う。屋とは金儲けに奔走する手合いを云う。こうして道に外れた手法で手に入れた金品は身につかずに、出ていってしまう。「宝、貨、材(たから) 逆(さか)って 運ぶなり」である。逆って入ってきたものは、また、逆って出(いず)るとなる。若旦那も親からくすねた金だから、吉原や芝居町など悪所で平気に豪遊した。労働の経験なし、その金を稼ぎ出すために、どれだけの労や気をすり減らさなければならないのか、知る由もなかった。ではこうした若旦那たちを庶民の一員、商人の親たちはどういうけじめのつけ方をしたのであろうか?自分若しくは数代で築きあげた身代、店を存続させるべき後継ぎがいない。いや、居ない訳ではない、跡を継ぐべき人間は確かに我が家にはいるのである。居るのは居るのではあるが、ただ居るだけであって、店を切り盛りする能力、商才がないか、その気(労働意欲)が全くないのである。これはあながち本人のせいばかりではない。おぎゃと生れたから、両親、祖父母、親類たちから、乳母日傘で育てられ、箱に入れられ目に入れられ可愛がわれ、外からの刺激を意識的に取り除かれ、所謂免疫力「ゼロ」の人間に造り上げられた作品が、今回の主人公江戸「若旦那」である。商家などの主人を旦那、大旦那と呼ぶのに対し、その跡を継ぐ息子を敬っていう言葉を「若旦那」と呼ぶ。先代の財産を喰い潰す役割を担った人間で、考え方が勝手気儘で労働意欲はさらさらない。若旦那は本人にしてみれば、起きた時点の朝若しくは昼過ぎになっても、するべき仕事、約束はない。今日は何処へ行って遊ぼうとか、何処の娘と会ってヒマを潰そうとか、先ずそれが頭に浮かぶ。江戸落語の世界では道楽息子、ドラ息子、放蕩息子などと云う。時間的にあり余った余裕と、懐的にはそれなりのゆとりと若さが揃えば、江戸の町は極楽、パラダイスで楽しかった。
江戸城の東側、東堀留川に架かる親父橋の下流に「思案橋」がある。すぐ先は日本橋川である。別称「わざくれ橋」と云う。「わざくれ」とは「ままよ」とか「どうにでもなれ」というという意味で、少々開きなおった意味がある。庄司甚右衛門が立ちあげた「元吉原」に行こうか、その手前の「芝居町」へ行こうか、日本橋からきた若旦那はこの橋の畔で思案する。毎日、暇をもてあましている若旦那にしてみれば、悩む必要もないことだが、本人にしてみれば毎日が勝負なのである。この思案橋は「元吉原」が明暦大火以前からの約束通り、浅草田圃へ移転させられるから「吉原が 引けて思案は いらぬ橋」の立場の橋となる。この思案橋と呼ばれる橋は全国幕府公認の廓の近くに存在、京島原では「ささやき橋」と呼ばれる。「ささやき」はこの橋を渡る客が、自分を納得させるための自分のつぶやきであったのであろうか。大坂新町では「大手橋」秀吉五奉行の一人増田長盛が橋の名をつける際に、迷った事からこの名があるいう。長﨑丸山では、現在、長﨑電気鉄道本線(路面伝車)に思案橋停留場がある。新吉原と同じ様に見返り柳、思切橋、忍び坂と進むと廓に繋がった。
世の中楽しい時間は短い。周りの環境はいつまでも若旦那を遊ばせてはおかなかった。現在ではせいぜい大卒辺りが限界であろうか、それから先は厳しい社会の現実が待っている。若旦那にはこうした切り替えが出来た者と、いつまでもどっぷりとつかった者がいた。どっぷり組は親がそろそろ定年を考える時期になって、その処遇に検索が入る。本人に全くその見込みが見られないと判断され、弟がいれば勿論その人間に、姉妹がいれば子飼の出来のいい番頭を婿に入れ、父親がそうであったように、一生、無報酬でその家の存続の為に、体よく働いてもらうことになる。若旦那は武士でいうならば部屋住みの身分(居候)か「勘当」となり、多少の小使いで生活する事になる。勘当とは、一般に両親が我が子に対して縁を切る事ををいい、主従、師匠などの関係にもあてはまる。類似語に確執、喧嘩、絶縁、反目などがある。勘当には「内証勘当」と「本勘当」があり、内証勘当は、其の事を町役人には届けず、家族、親族内だけで承認をうけて決めるもので、人別帖の本人の名前の上に札(付箋)が貼られ、警戒ライン(オレンジカード)上におかれた。素行の悪い人間が「札つき」と呼ばれたのはこの為である。本勘当は、両親、兄弟、親類が見切りをつけ、町内の五人組と名主に勘当届を出し、奉行所の勘当帖に記載され、人別帖から外される事を云う。外された本人は「無宿者」になる。世間からドロップアウトする事になり、家族との関係は一切なくなり、仮に本人が罪を犯しても、家族は連座の罪から免れる事になる。江戸にはこうした自らの結果で無宿人となった者たちの他に、「天明の飢饉」など自然災害や失政などにより、無宿人の立ち場に陥った人たちが多くを占め、兵増が長谷川平蔵が建策し、松平定信が施行した「石川島人足寄場」は、それなりの効果をみせたものの、時代を変えるまでには至らなかった。現在でも、コロナ渦によって職場が縮小及び閉店により、働きたくとも働けないシングルマザーや学生が存在、IOCの人間たちの超優遇ぶりと比べても「天国と地獄」の状況を示している。これが日本の現在の政治である。
現代では、親子喧嘩などで逆縁も叫ばれるというが、子からの勘当はどうなのか?これも問題になってくる訳であるが、1898年に施行された「特別養子縁組法」による6歳以下の縁組以外は、子供からにせよ親からにせよ、どの様な方法を用いても、実の親子の法律上の関係は無くならない。故に、実子、実親に対し、それぞれが一方的な意向によって、法的に親子の縁を切れる関係でも性格のものではない。従って、現行法においては、勘当という言葉は何の法的拘束力をもたず、言葉のみが用いられれいるに過ぎない。唯一の制度として「相続廃除」があるが、これも認められるケースは極めて稀である。シンプルな結論として、損得勘定からすれば、親子仲よくが一番無駄のない道であり、人間的勘定からにしても、親子無理のない自然のつきあいが、一番疲れなくて居心地がいい。 <チーム江戸>
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