5 椋鳥一茶江戸へ翔ぶ ①江戸は掃溜
この物語の主人公の名「一茶」とは、一椀の茶の泡末の如き人生を表す。本人の無常感に基づく命名である。信濃の国相原に生まれた小林一茶は、三歳の幼さで生母を亡くした。子供の頃から義母との折り合いが悪く、これが一茶の句の作風に大きく影響を与えている。安永6年(1777)15歳で奉公の為、江戸へ出て俳諧と出会う「掃溜の 江戸へ江戸へと 時鳥」農閑期、故郷信濃で生活出来ない沢山の人間は、初霜がおりる11月頃になると、椋鳥の様に集団で江戸へ出稼ぎに入り込んだ。江戸は全国の掃溜と云われ、雪解けの春になると国へ帰っていった。「此の日信濃冬奉公人来る。信州雪国なれば、冬のたつきなし。その間江都へ出て奉公し、ある者は量炭などを売って営みとす。来るとしの二月の末、みな帰国あう」やってくるのは信濃ばかりでなく、会津福島や越後など雪国が多かった。「小仏は ぞろぞろ下りる 寒いこと」今でも小仏峠は信濃往還の難所である。
江戸に住む人間たちは、一茶のような地方からの労働者たちを「椋鳥」といってさげすんだ。奉公先や住まいも安定しなかったからである。これは彼らのせいではない。世の中の仕組みのせいである。景気の良い時期は安い賃金で仕事を捌き、逆に不景気になると、彼らのような不正規労働者を一番先に解雇、雇用者側はリスクを回避、身の安全を図った。彼らは無宿人同様の境遇におかれていたのである。現代の外国人労働者と、企業との関係とがかぶてくる。しかし、彼らが日本人の嫌う、疲れる、汚い、臭い仕事を担う事によって、日本国そのものの機能が、維持されている事も忘れてはならない。「初雪や これから江戸へ 食ひに出る」江戸へ出て何の混ぜ物がない、白い御飯が腹一杯喰える事が、現金収入もさることながら、彼らにとって無常の喜びであった。白い御飯は彼らを江戸へ呼んだ大きな一因であった。「信濃者 ぶらりぶらりと 直売し」椋鳥たちも毎年江戸へ来ていると、居心地のいい巣(奉公先)に向かう。巣のほうでも気心が知れているから、商談即決となる。
「椋鳥も 毎年来ると 江戸雀」 江戸雀が毎年帰らず、江戸に住みついたのが一茶であった。こうした人々の職を斡旋したのが「口入屋(くにゅうや)」である。口入屋とは職業斡旋業者のことで、今でいうハローワーク、口を挟む事で転訛して、仲介、斡旋の意味を指した。入口、受入宿、肝煎、慶安などと呼ばれ、男性のみに関わらず女性、子供たちも対象とした。この職業は江戸初期から存在、地方から出てきた者たちの保証人となり。職場を斡旋、稼ぎの一部を徴収した。享保年間(1716~35)頃から、天災、飢饉などで金に困っている農家の娘たちを、吉原や岡場所に売りとばす女衒のような仕事や、商人の嫁を紹介(結婚相談所)したりしていた。旧3月5日は出替、出代(でかわり)の日で、1年契約の奉公人が解雇、若しくは再雇用される日で、半年契約の者は9月5日である。この時代の年俸は中間小者で3両2分。下女(はした)は3両前後、1両を現在値10万円と単順計算して、年収30万円、月収2万5千、三食住い付きとはいえ、1日千円にも満たない生活であった。
さて一茶が訪れた「日本橋芳町」は、安政版江戸切絵図によると、東堀留川(堀江町堀)の東側にあった。「西万(にしよろず)河岸」があった「堀江町六軒町」辺りで、家康側室「於万の方(養珠院)」が、年金がわりに拝領した河岸は、古くは葭などの生えていた処、芳町という町名は江戸期の俗称である。北に堀留の問屋街、掘割の東裏には「芝居町」、その向こうは明暦の大火迄「元吉原」があり、湯島天神などと共に蔭間茶屋なども存在した。こうした場所柄、次第に口入を稼業とする人間たちが集まり、生業を始めた。また、江戸初期から花街として発展、元大坂町、住吉町などを総称して「芳町芸者」と呼んだ。東京六花街の中でも最古の歴史をもつ芳町は、芝居町の役者や客からの目が厳しく、近くに芸事の師匠たちも沢山いたことから、自然と厳しく育てられ「粋で おきゃんで 芸がたつ」芳町芸者と成長していった。新橋、赤坂が維新後の薩長に贔屓にされたのに対し、芳町、柳橋は根っからの江戸の人間を相手にその歴史を育んでいった。芳町、柳橋が薩長に贔屓にされなかったのでなく、逆に彼女らが袖にしたのである。彼女らの意地と気風がそうさせた。柳橋芸者に牡丹のふかい彩りがあるとするならば、芳町芸者には百合に似た香りがあるとされた。
東堀留川の西側は「堀江町」家康入府の際、魚類調達を勤めた堀江六郎が、この地を開拓した事による。北側は堀留2丁目、西側は小網町1~4丁目である。堀江町1丁目は団扇問屋や栗、蜜柑問屋が、4丁目には穀物問屋が並んでいた。堀江町の3丁目と4丁目(現在の1~3丁目の間)にあったのが「照降(てりふり、てれふれ)町」である。雨の日は雪駄や雨傘、晴れた日には下駄を売り、全天候型の商売をしていた為この名がある。また、この町の名の由来には他にもあって、江戸日本橋から人形町の、芝居小屋や悪所へ通う道筋出あった事から、晴れても降っても人通りが絶えなかった事からとも云う。「むら時雨 てれふれ町の 名なるべし」 芭蕉。この裏店に若き頃の其角が住んでいた。そこへ嵐雪や笠翁が転がり込み、3人で貧乏暮らしのニートをやっていた。晩年、茅場町に移り住んだ、其角の住まいの裏は荻生徂徠(惣ヱ門)、元禄14年(1701)播州赤穂浪士たちの仇打ち処断は、室鳩巣など幕府抱えの学者たちが主張した「義」による処断を退け、「法」による処断を綱吉に下させた、吉保お抱えの学者である。幕府はこの事件をきっかっけに、法治国家の体制をより強めていくことになる。さて、その学者の隣人であった其角は酒が大好きで、死因はその酒によるものだといわれる。酒を飲みすぎて亡くなった其角、現代のコロナの蔓延ぶりと、人々の苦しみを見て何と句をひねってであろうか。「妙薬は 酒飲むことと 覚えたり」と、とぼけたかも知れない。江戸は気持ちの上でも、大らかですごしやすかった。
江戸純情派 「チーム江戸」 しのつか でした。
0コメント