イ 地名って何?
「地名」の由来のほとんどは、自然の地形や社地門前町に基づいたものといわれ、また、地名は地域の歴史を端的に表現、即ちそこに住んでいる人々の人間の歴史が地名となっている場合が多い。
六世紀に始ったとされる漢字の使用によって、それまで文字の表記が出来なかった為、音で伝承されてきた地名が、その音に漢字を当てはめる事によって、地名の多様性が生れ、いくつもの意味を表現、多様な解釈のできる地名が誕生していった。
自然発生的な記号としての「地名」が初めて大和朝廷、いわゆる「官」によって統一されるのは、元明天皇(女帝)の時代、和銅六年(七一三)である。その詔書には諸国の国郡郷名は、地名の「二字好字政策」にもとづき、住居表示は縁起の良い二文字で表記せよと云う政策であった。
武蔵の国は二十一郡、江戸は阿太知(足立) 江波良(荏原) 止志末(豊嶋) 大婆多麿(多摩)の四郡であった。この四郡のなかの郷に、いかなる好字が当てがわれたか、馴染みの地名でさぐってみると、加萬太(蒲田) 加波久和(川口) 古乃江(狛江) 佐久良太(桜田) 山乃萬(湯島)となる。当時の郡、郷については、承平年間(九三一~三八)に出された辞書「和名妙」による。
因みに上総、下総、上野、下野と云った、国名や地域名における上、下の区別は、帝がおわす京に近い方が上、遠い方が下。これは江戸になって五街道や、集落の呼び方にも受け継がれている。つまり京に遠い田舎の城、江戸城に近い方が下、下馬、下北沢、下高井戸等がその例である。
もう少し「地名]について探ってみよう。一九三六年(昭和十一年)発刊された柳田国男の「地名の研究}によると、地名の出発点が、我々の生活上の必要に基づいて出来たものであるからには、必ず一つの意味をもち、それがその土地の二人以上の人の間で、共通に使用せらるる符号であるとしている。他人にその場所を伝え様としたら、それを言語で表現しなければならない。それが「地名」であるとしている。
少なくとも地名が出来た当初には、事柄や性質を、適切に他を区別し得るだけの、特徴を捉えていた筈であった。ところが現在の実情は、どの地方に行っても半分以上の地名が、住民でも意味の解らなくなっており、語源音だけを記憶しても、内容は忘れさられていると指摘している。
昔々筆者がまだ出来の悪かった子供の頃(出来の悪さは未だに続いているが)、周りに住んでいる大人達がやたらとうるさかった。反面、やさしく、こまかく面倒みてくれた。特に母親が何かでいない時など、自分の子達と一緒に御飯を食べさせてくれたり、雨の日は傘を持ってきてくれた。
「夕立に とりこんでやる となりの子」
人の心にゆとりがあり、住んでいる人々を愛していたからこそ、何も考えずに自然発生的に動いた行為であった。核家族や一人暮らしが増え、マンション生活の住民が多くなった現代、「隣は何をする人ぞ」 である。自分の子が悪さをしても親は叱らないし、周りの大人も見て見ぬふりをする。返ってよその子のせいにし苦情がはじまり、挙句、その子を教育している学校、先生が悪いからとなる。
自分達親子達だけが可愛い社会がそこにある。その結果友達を無くした子供達が、親からその地域から離れていく。歴史ある地名がだんだんうすれていく現状がここにもある。
「地名は大地に刻まれた人間の、過去の索引である」 谷川健一
この言葉が完全に過去のものとなっていく。
参考までに、嘉永六年(一八五三)朱引地内にあった江戸一六三七町のうち、平成十年(少々資料が古いが)の時点で、江戸からの忠実に引き継がれている町名は、わずか五十五町に留まっている。
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