江戸から現代を斬る・江戸物語88<天之巻>第1章 江戸っ子とは
俗に「芝で生まれて神田で育つ」人間が江戸っ子と呼ばれる人間の最低条件である。これには前句があって「すいどの水で産湯を使い 金の鯱チラチラ眺め 芝で生まれて神田で育つ」とくる。こうした人間がチャキチャキの江戸っ子となる。チャキチャキとは武士が刀を鞘に収める際に鳴るチャリンを指す。つまり筋金入りの江戸っ子であることを指している。また、江戸っ子にもいろいろあって、田舎から出てきて江戸に住み始めた人たちを「田舎っ子」どちらかの親が田舎の人間である、その子は「斑っ子」、両親とも江戸に生まれ江戸に生活している子、三代目を「江戸っ子」という。昭和20年の区政改正による前の通り日本橋区、京橋区、神田区、いわゆる下町=城下町(しろしたまち)に住んでいた人々である。その頃、本郷や浅草に住んでいた人たちは、日本橋などへ来る時は、江戸へ行く、下町へ行くと称していた。
江戸っ子は概して、粋でかっこしで空元気、金離れがいいがいつも財布は空っけつ。理由は簡単、稼ぎ以上に金を使うか、先に使ってしまって稼ぎが追いつかないか、いずれにしても貯えがないのである。最もこれには妥当性があって、後の項で触れるが、江戸に多きものとして火事が挙げられる。ひとたび火事が発生すれば裸一貫で逃げ出さなければならない。庶民は江戸人口の約半分、その7~8割が長屋=賃貸暮らし、つまりその月、極端に云えば、その日の飯と寝る布団さえあれば、お天道様はついてまわったのである。何処かの小金持ちの様に金品にはこだわらない。「江戸っ子のなりそこないが金を貯め」江戸っ子の痛烈な批判かひがみか。また、人情味があって、多少他人様には親切と云うよりお節介的であるがそれを人には押しつけない。「イヤならいいよ」といい意味での個人主義。飲む事、食べる事や、祭り等人の集まる処に出たがり、騒ぐのを好む習性がある。流行には敏感であるが、いいとこだけ取って染まらない。自己のパーソナリティを出し独自のおしゃれを楽しむ。「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し 威勢はいいが腸(はらわた)はなし」と云われる様に、口の使い様はぞんざいであるが、今時のおばさまの様な底意地の悪さは持ち合わせていない。これが江戸的人間関係の凬通しの良さである。根にもたない、宵越しの銭は持たねぇ、いや持てねぇ。自分の家も持たねぇ、ましてや土地付き一戸建て等、夢のまた夢であった。
平成の娘達が嫁に行かず、たまにいっても出戻る一人者が多いが、江戸の長屋の八っあん、熊さんも周りが全員間借り人、「皆なで借りてりゃこわくない」てな寸法で目立たなかった。現代人の様に自己所有のマンションや一戸建てに、庶民がこだわりだしたのは先の太平洋戦争に負けてからである。そう云った環境土壌のせいか、江戸っ子は余り労働の強化は好まなかった。早く云えば勤勉性に欠けるのである。ある程度生活が出来ればそれで良しとし、自分達の生活を楽しんだ。現代人の様に家の為、子供の為、ましてや自分の墓の為お金を貯めなくても良かった。さて問題の女性に対しては、カッコしいで親切ではあるが、優しすぎてイマイチ押しが足らない。優しさだけでは一緒にはなれない。現代の若者達と良く似ている。従って押し切られる形で一緒になる。結果一生敷かれる下地がここから始まっている。対して、江戸下町の娘たちは、概して肌浅黒く柳腰に瓜実顔、スッピンの顔に紅を引いた薄化粧を好む。着るものは藍、ネズミ、黒色など地味系。ポンポンとモノを云う割には涙もろい処がある。相手の男を気に入ればつくすが、見切りをつけると後を振り返らない。黙ってサッといなくなる。追う男に追われる女、構図は今と変わらない。江戸の娘は「コシ」があって「キレ」がいいと云われている。例えるなら大吟醸の日本酒のような、深い味(人間性)を醸し出している。
「江戸っ子とはこんなもんでぇ」と、ひとつの生き方を戯作者の山東京伝が洒落本・通信総まがきの中で、「江戸っ子の浪漫の夢」として吐露している。「金の鯱鉾をにらんで すいどの水で産湯につかり、おひざ元に生まれ出ては、拝み突きの米を喰って、乳母日傘にて長(人となり)。金銀の細縲はじき 水(大川)の白魚も中落ちを喰わず(中略) 本町の角屋敷を投げて大門打つは、人の心の花にぞありける。 江戸っ子の根性骨 萬時に渡る日本橋の真ん中から」
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