明智光秀「光と影」3敵は本能寺にあり

 京の馬揃えから1年もたたない8月、光秀の妹・御妻木(みつまき)が病死した。彼女は信長の奥行き(秘書)を任せられていた女官で、これまでの光秀の立場を代弁し、兄の有利なように信長に口添えをしてくれていた。このようにサポートしてくれていた妹の死は、光秀にとって、肉親の死の悲しみと同時に、大きな政治的な痛手であった。いよいよ運命の年、天正10年(1582)となる。四国の長曾我部元親に対し「四国は切り取り次第」と許していた信長は、天正9年の終わりになってそれを覆し、元親に対し「領有は土佐一国と阿波南半分のみを許す」としていた。5月信長は四国平定の方面軍司令官に三男信孝を起用、補佐役として丹羽長秀と織田信澄をつけるとした。これで光秀は中国方面にも四国方面にも口出し出来る一切の権利を失ってしまった。その上、3月に念願の武田氏を滅亡させた事により、駿河一国を拝領した家康がその御礼として安土に上ってきた。光秀はその家康の饗応役に命じられたが、その3日後にはその役を解かれ、今度は備中高松城で苦戦している秀吉の援軍に廻せられた。娘玉の婿細川忠興や高山右近、中川清秀らが与力に回った。このライバル秀吉の援軍命令は、プライドの高い光秀の自尊心を大いに傷つけた。同時に命令した信長に対しても不満を募らせた。その時期、たまたま織田家の方面司令官たちは、いずれも機内にはいなかった。柴田勝家は北陸地方に、滝川一益は関東地方、秀吉は中国地方で戦っていた。唯一、信孝の軍隊が、四国平定に向かうために大阪湾に終結していた。信孝は本能寺に至近の距離にいたが初動に遅れ、備中高松城にいた秀吉に大幅な遅れをとった。こうした状況にいた光秀の頭脳に、突発的に天下取りの野望が閃いた。同時に日頃からうっ積していた不満、恨みがこの時爆発した。光秀の謀反劇については未だに多くの謎が残されているが、しかし、その時期の選択については適切であった。

 天正10年5月17日、叡山坂本城に戻った光秀は、28日丹波亀山城に向かい、愛宕山威徳院西坊で戦勝祈願の連歌会を開いた。後世に残る「愛宕百韻」である。第一句は光秀の「ときは今 雨が下なる 五月哉」この句を今こそ土岐氏(とき)である光秀が、天下(雨の下)を治める五月だと解釈する説がある一方、光秀が信長を討つのは6月であるある為、土岐氏の流れをくむ光秀自身は天下様(信長)の下にいると自己分析し、これを踏まえて詠んだ句と解釈する説もある。光秀に続く連歌師里村紹巴は、第三句を「花落ちる 池の流れを せきとめて」と詠んだ。花とは土岐一族の代表的な紋である桔梗である。この花を指して光秀が信長を討とうとしている暴挙を止めようとしているとの解釈がなされてきた。しかし、別の解釈では花は桔梗ではなく、花の御所つまり室町幕府将軍足利義昭を指し、紹巴の句は信長の家臣である光秀が、義昭が落ちていった先の毛利家を討ちにいくと云う意味としている。備中高松城の清水宗治を助ける為、両川と呼ばれた吉川元春と小早川隆景が備中に向かった。その両川の水の流れ(援軍)を止めるため、光秀が出陣すると詠んでいるとしている。連歌は更に続き、第三十三句になると光秀が不平不満を表してくる。「葛の葉の みたるる露や   玉ならん」葛の葉が風でひるがえり裏を見せることで、裏見から恨みを暗示させた。この時代の恨みは個人の不平不満を指す。この句は毛利家を温存して、四国を経由から九州平定するという光秀構想が否定され、毛利家との決戦に及び、四国は長曾我部元親を廃し三男信孝に与えようとする信長構想に対し、光秀の大きな不満が表されていると解釈されている。こうした歌を詠みながら自分の気持ちを整理、再確認をしていった。光秀は自分の気持ちを世に示し、自分の野望を貫くためにも信長を討つ他道はないと、この句会を通じて決意を固めていった。

次回光秀光と影は、4「光秀の三日天下」をお送りします。乞う御期待 <チーム江戸> 

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