毛利家の人々ⅱ <関ケ原の戦い編➁>
毛利家と織田家の対立関係は、信長が追放した足利幕府最後の将軍義昭を、毛利輝元が受け入れた事に始まる。天正5年(1577)10月23日、秀吉は信長から、毛利氏の領国である山陽道から山陰道である中国路方面の攻略を命ぜられ、中国方面司令官として播磨国に侵攻した。秀吉は11月中には播磨は平定出来るであろうと信長に報告している。こうして対毛利氏との戦いを有利に進めていた秀吉であったが、同5年、荒木村重の反乱(有岡城の戦い)により、攻略を一時余儀なくされた。それでも同9年10月になると、2年にわたる兵糧攻めのすえ鳥取城を破って因幡を平定し、中国攻めは佳境に入っていった。
翌天正10年(1581)秀吉は備中高松城に侵攻。高松城は吉備平野の中心に位置し、現在の地名でいくと岡山市北区にあたる。備後と安芸へ通じる旧山陽道が走り、また、伯耆と備中を結ぶ要衝である。縄張は東西≒100m、南北≒300mの細長い平城で、城の周囲は一面沼地で、これが天然の要害=堀となっていた。小早川隆景は毛利家にとっても大事な生命線である、高松城の清水宗治ら備中の七城主(撫川城、日幡城etc)を呼び「もはや織田につこうとも構わぬ」と悲痛な覚悟を伝えた。宗治らは改めて毛利への忠誠と城の城の死守を誓った。4月、備中に入った秀吉は宮地山城や冠山城などを攻略、備中高松城に迫った。高松城の陥落は毛利氏の本拠である安芸・備後の最終決戦を意味していた。秀吉は3万の軍勢を擁し、対する高松城には他の城で破れた兵たちも逃げ込み、約5000の兵力であった。秀吉は兵力差から力攻めで一気に落とそうしたが、城兵の必死の抵抗と周囲の沼地に、秀吉軍の人馬が苦しめられ大敗を期した。攻めあぐんだ秀吉は軍師黒田官兵衛の献策をとり、城の周囲に全長4㌔の堤防を築き、近くの足守川の水を城に注ぎこんだ。城は折からの梅雨の時期のため、数日のうち水没し浮城となった。それでも城主清水宗治は抵抗を続け、知らせを聞いた吉川元春と小早川隆景は救援に駆け付けたが、秀吉の固い防御線のため近くの山から見守る他はなかった。秀吉は「三木の千殺し」「鳥取城の飢え殺し」「高松城の水攻め」と、自軍の勢力を温存しながら、金と時間をかけて敵の城を落していった。こうした戦線の膠着状態の中、6月3日「本能寺の変」が勃発した。家臣明智光秀が主君織田信長を京本能寺で襲った下剋上である。この知らせをひた隠しに隠した秀吉は、素知らぬふりして城兵の助命と宗治の切腹を交換条件に、毛利方と和睦を成立させた。秀吉は直ちに陣払いをし「中国大返し」と呼ばれる強行軍で京へ引き返し、13日「山崎の戦い」で光秀を討ち、天下人の道を一歩進めた。
毛利方がこの情報を得たのは、しばらくしての雑賀衆から知らせであり、毛利方の情報網の遅れが露呈した結果であった。武闘派の吉川元春は秀吉軍の追撃を主張したが、弟隆景はこれを諌めたため、秀吉は明智を討つ事ができた。このことが後の毛利家と豊臣政権の関係を良好にしていくことになる。「清須会議」を経て「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を破った秀吉は、同12年「小牧・長久手の戦い」を経て家康と和睦、13年、長曾我部元親を討ち「四国平定」、同15年「九州平定」の過程で、毛利家は豊臣政権に臣従、同19年輝元は秀吉から中国9ヶ国112万石を安堵され、居城を郡山城から広島城に移した。後の「文禄の役」「慶長の役」にも従軍、輝元、隆景は豊臣政権の五大老の1人を担っていった。こうして我が世の春、天下人の栄華に浸っていた秀吉は、慶長3年(1598)淀君に生ませた秀頼の将来を心配しながら、浪華の露と消えた。享年63歳。これを待っていたかのように、家康は徳川の天下取りに向けて行動を開始した。豊臣政権一筋に励んできた石田三成は、毛利家当主輝元を西軍の総大将に担ぎ上げ家康に対抗、慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」にむかっていく。
「関ヶ原の戦い」において、西軍についた毛利軍の動きを抑え、結果的に東軍の勝利へ導いたのが吉川元春の3男広家である。天正14年、父元春が小倉城で病没、続いて長男元長が陣没したため家督を継いでいた。同16年、秀吉の養女になっていた宇喜多直家の娘(秀家の姉)容光院を、正室として迎え秀吉の娘婿となった。しかし、容光院は2年後に亡くなってしまう。広家は以後正室をおかず、側室を置くに留めた。慶長2~4年にかけての領土問題は、秀吉死後の毛利家に混乱をもたらし、輝元、輝元の婿養子であった秀元、広家らの間で足並みの乱れが露呈し、広家の三成への反発が家康との接近を招いた。家康の上杉景勝に対する「会津征伐」に参加した広家は、7月14日大坂城に入る。引き続き7月19日輝元も大坂城へ入った。あくまでも東軍の勝利を確信した広家は、毛利家存続のため重臣たちと会議、家康との接近を図った。広家は輝元らに内密にしたうえで黒田長政を通じて家康に接近、毛利領の安堵の密約を取り付けた。9月15日、広家は西軍として南宮山に布陣、秀元らの出陣を阻止出来る位置に陣取り、自軍である毛利軍の動きを牽制した。この結果毛利軍は戦わずに関ヶ原を離脱した。戦いは正午近くまで一進一退、シビレをきらした家康の威嚇の鉄砲で、内応を決め込んでいた小早川秀秋が南雲山を駆け下り、大谷吉継軍を襲ったことにより、。趨勢は東軍に傾いていった。次回は戦い後の毛利家のお話しとなります。<チーム江戸>
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