毛利家の人々ⅱ <関ケ原の戦い編①>
飛鳥672年、天智天皇の子大海人皇子と天皇弟大友皇子が皇位継承をめぐって争った。「壬申の乱」である。勝利した大海人皇子は天武天皇として即位、翌年この地に、大和の国の平和を願い美濃に関所を置いた。古代三大関所のひとつ「不破関」である。北は伊吹山、南は鈴鹿山脈に囲まれ、西国から尾張、美濃へ抜けるにはこの道を通過しなければならなかった。「関ヶ原」という地名は、関所があった原っぱという意味である。また、関東、関西という呼び方も、関ヶ原を境にして生まれた言葉であるという。
戦国時代初期、西国諸国を制覇領有し、梟雄と呼ばれた毛利藩12代当主元就が、元亀2年(1571)享年75歳で病没した。生前、元就にとって悔やまれる事は、我が身より8年も前に嫡男隆元が食あたり(毒殺?)で亡くなったことであった。隆元は父元就の引退後、家督を継いで優れた内政手腕により、父の勢力拡大を支えていた。吉川元春、小早川隆景は、母妙玖を同じくした弟たちであり、安芸高田郡の猿掛城で生まれた。次男元春は、母方の従兄吉川興経の養子になり、元春が主に山陰方面(陸軍)を担当、安芸竹原の国人領主、小早川家の養子に入った三男隆景は、主に山陽方面(海軍)を担当、父元就亡き後、家督を継いだ隆元の嫡男、彼らから見れば甥の輝元を補佐、「毛利両川体制」を構築、毛利家の存続をかけて、群雄割拠の戦国時代を乗り切っていこうとした。そうした中、天下布武を掲げた信長と決裂した。一旦は義昭を奉じて入京した信長であったが、天正元年(1573)逆に足利幕府最後の将軍義昭を追放、義昭が備前鞆の浦に下向、毛利家14代当主輝元がこれを受け入れた事で、毛利家と織田家は全面戦争に突入した。信長が浅井・朝倉勢を滅亡させた年である。
天正4年(1576)大坂の地に安土城を凌ぐ、集大成の城の建築を夢見た信長は、浄土真宗石山本願寺を包囲した。顕如は輝元に救援を要請した。小早川水軍を主力とする毛利水軍と村上水軍が操る約800艘の船団は、大坂湾木津川河口にむかい、本願寺に立てこもる武士や信者たちへ兵糧を運び込んだ。「第1次木津川口の戦い」である。天正6年になると信長は鉄甲船を配下の九鬼水軍に配備、村上海賊の焙烙火矢の戦法は敗退を期した。この結果、顕如は信長と講和を結び、石山本願寺は撤退した。毛利水軍は戦いの矛先を失った。一方陸上では、天正6年3月、信長の命令により、秀吉は播磨国三木城別所長治を攻めた。同年7月毛利軍は尼子勝久が立てこもる上月城を攻略、尼子残党を壊滅させた。「上月城の戦い」である。しかし、翌7年になると備前宇喜多直家が毛利家を離反、同8年三木城が落城、9年、大友宗麟が毛利領に侵攻、因幡鳥取城で吉川一族の吉川経家が自刃し、毛利家は劣勢に傾いていった。いよいよ問題の天正10年(1582)である。秀吉軍が包囲していた備中高松城に元春、隆景は救援に向かったが、戦局は膠着状態が続いていた。そのような状況の6月2日「本能寺の変」がおきた。明智光秀が主君信長を殺害したのである。典型的な「下剋上」である。この情報をいち早く掴んだ秀吉は、毛利家にはこれを内密にして、高松城主清水宗治と講和、光秀を討つべく「中国大返し」を敢行した。毛利軍がこの情報を知ったのは2日後の紀伊雑賀衆からの知らせであった。情報戦の完全なる敗退である。これを知った元春は直ちに追撃を主張したが、弟隆景は毛利家存続を第一と考え、これを強く押しとどめた。秀吉に恩を売ったともみられているが、実質的には秀吉軍を追撃して勝利する戦力が、毛利軍には無かったためとも云われている。また、隆景が父元就の遺訓「我 天下を競望せず」に従った結果であるともされている。元就は存命中孫輝元の性格を見抜き、隆景を通じて輝元の短慮を諌めるように、度々言い聞かせていた。元就のこの心配が「関ヶ原の戦い」で的中、毛利家は大幅な減封の憂き目にあう事になる。
梟雄元就が生きた戦国の世は「本能寺の変」により、天下布武を目前にしながら横死した信長の安土時代は終わり、その死を巧みに利用した、部下の秀吉に天下は収斂されていった。いよいよ桃山時代の幕開けである。天正11年「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を破った秀吉は、信長の念願であった石山本願寺跡に大坂城を築き始めた。翌12年の「小牧長久手の戦い」で、家康との戦には負けたが外交に勝る秀吉により、政局は秀吉に傾いていった。翌13年、長曾我部元親の四国を平定、同15年には島津義久も降伏、九州も平定された。残るは関八州の小田原北条氏と奥羽の伊達政宗であった。毛利家の人々も「本能寺の変」以降の天正11年秀吉に臣従、四国、九州征伐に参加して禄高を増やしていった。小早川隆景は四国の戦いでは伊予を、九州の戦いでは筑前、筑後と肥前の一部を秀吉から与えられ、文禄4年(1595)輝元と共に豊臣政権の五大老を担ったが、この2年後脳溢血のため急逝した。享年65歳。小早川隆景の官位官職は九州筑前37万石であったが、実子がなく秀吉の義理の甥秀秋を養子としていた。この小早川秀秋が「関ケ原の戦い」ではキーパーソンとなる。一方、武闘派の兄吉川元春は秀吉に仕える事を嫌い、家督を嫡男元長に譲って引退、秀吉の戦いには参加しなかったが、秀吉の強い要請で「九州征伐」に参加したが、陣中の豊前小倉城で悪性腫瘍のため死去、享年57歳であった。元春の正室新庄局(熊谷信直の娘)は美形ではなかったというが元春は結婚した。その理由として嫁の貰い手のない娘を妻とすれば、その父親は感謝して元春に協力してくれるであろうとの計算した結果であるというが、彼女の叔母は当代一の美形であったといい、この話ははたして?の部類になる。この夫婦の間に生まれた三男が吉川広家である。父と兄が相次いで亡くなったため、吉川家の当主として、「関ヶ原の戦い」に望むことになる。この広家も毛利家存続のため奔走、敢えて東軍の主将家康と内通する事になるが、関ヶ原の裏幕物語は次回の話となる。<江戸純情派 チーム江戸>
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