「佃風物詩」白魚漁と佃煮

 「佃島白魚漁と味自慢・佃煮」

 「月もおぼろに白魚の かがりもかすむ春の宵」お馴染み「三人吉三廓初買」両国三本杭の場面である。「江戸名所図会」を借りれば、この地はことさら白魚に名あり。ゆゑに、冬月の間、毎夜漁舟に篝火を焼(た)き、四手網をもってこれを漁(すなど)れり。都下おしなべてこれを賞せり。春に至り、二月の末より川上に登り、弥生の頃、子を産す。秋に至りて七、八月の頃、江海に入るといふ。事跡合考に云ふ、両国の川筋に産するところの白魚は、尾州名古屋の浦よりとりよせたまふと云々。

 白魚はサケ目シラウオ科の海水魚、内湾にすみ2~4月に川を上り、河口域や沿岸の汽水域の砂底で産卵する。孵化した稚魚は翌年春まで沿岸域で成長して一寸(約10cm)ほどになる。再び汽水域に戻り産卵すると考えられているが、汽水域で一生を過すという新しい学説もある。水中にいる時は半透明で背骨や内臓が透けて見える。頭の部分を真上から見ると葵の御紋のように見えたというが、これも後講釈の域を出ない。陸に上がると白濁する。これが名の由来だとされている。因みによく混同されるシロウオ(素魚)は、スズキ目ハゼ科の海水魚、殆ど仔魚のような形のまま、全長5cm程まで成長する。塩水三合差すところ予の勝手元の料とせよ。再び図絵を借りると「白魚を取りて奉るべき旨、台命によりて、毎年十一月より三月まで、怠らず奉る。その間は、他の猟を堅く禁めたまへり」。一船の漁に対して一升を献上、網代として銀120匁が支払われた。家康のお墨付きをえた佃の漁民たちは、隅田川の河口から、芝や千住大橋辺りまで白魚を求めて夜遅く漁に出かけた。「夜や寒く 白魚に出る 佃島」三間半四方の「四ッ手網」を小舟から川底に差し入れ、篝火の灯りや餌で寄って来た白魚をすくい取るのである。この風景は、図絵「佃島白魚網」として描かれている。島の周辺に幾艘もの舟が盛んに篝火を焚き漁に勤しんでいる。傍らでは寝不足か大欠伸をしている人間がいる。向うの船には既に一服している人間も描かれている。

 「白魚の 篝火ちょぼちょぼ 沖に見え」広重は江戸百,第十四景「永代橋佃しま」で橋桁ごしに漁をしている舟と篝火を描いている。傍らは千石船が舫い、黒い島影、空には寒い半月が、江戸の海を照らしている。「白魚を ふるいよせたる 四ッ手かな」其角。因みに庶民向けは四ッ手網ですくい、将軍様献上の上納品は、白魚を傷つけない様に建網が使われた。現在、霞ヶ浦、宍道湖など大きなな魚場では、刺網、定置網が使われている。白魚漁の漁場は、「白魚も 王子では喰わぬ うちの人」と詠まれている様に、漁の北限は王子辺りだと推定される。これは、産卵した白魚は、味が落ちたからだとされている。また、こういう句もある。「白魚の 佃逃げても 尾久の関」この辺まで、佃の漁民は出張って来た。尾久は千住と王子の間にある隅田川(荒川)沿いの地域、江戸期は尾久の原に、桜草が自生していた。因みにJR宇都宮線尾久駅はチョイ昔まで「おぐ」と訛った。現在は川の汚れを意識してか「おく」と濁らない。

 江戸の頃、白魚は将軍様御用以外の漁獲を禁止した時期「御止魚」と呼ばれた。他に野良仕事に出ない領主の指になぞらえ「殿様魚」とも呼ばれた。また、すっきりと細長い女性の指をなぞらえ、白魚のような指と呼んだ。今は爪に色々細工をしている指が多いため、さしずめ熱帯魚の様な指と云うのであろうか。北海道厚岸ではシラオ、富山県氷見、射水ではシロイヨ、出雲ではフ、大阪、伊勢、和歌山ではシラウオと呼ぶ。また、白魚を数える単位は、何尾と呼ばず何筋である。20筋を「ひとちょぼ」と表現、「樗蒲(ちょぼ)」とはサイコロを使う博打を指し、賽の目の合計は二十一であるが、佃の奥さんたちが入れるのは一箱に20匹、余り一匹はその奥さんのヘソクリとなる。つまり20箱を作ると、21箱目は完全に計算の外の収入となった。因みに天保年間(1830~43)蛤一升20文に対し、白魚ひと摘み(3~4匹)が100文もした。これを繰り返すといい稼ぎとなった。「白魚に 値あるこそ うらみなれ」芭蕉。食用になっているのには、シラウオとイシカワシラウオがある。旬は冬だが年間を通して美味い。日本では高級食材であり、そのレシピは、江戸前寿司では、コハダやアナゴと並んで最古参、塩水でさぁ~と洗うと身も引き締まって、生臭さが取れる。これを軍艦巻きにすると苦味がある大人の味に仕上がる。また、白魚は江戸の頃の正月料理として欠かせぬものであった、雑煮の汁として、生海苔、貝柱などと共に鍋にいれ、醤油、味醂で味を調え三つ葉を添えて出来上がり、初夏の初鰹と共にこれを食べないと、江戸っ子の恥とされた。江戸っ子を気張るのも大変であった。他に生きたままポン酢にいれて食べる、踊り喰いや天麩羅、玉子とじ、炊き込み御飯などがある。江戸期、佃の漁民たちは白魚漁によって、佃島の他に深川や京橋にも土地を拝領している。この為か「しらうおは 鯛にも恥じぬ 屋敷もち」と皮肉られていた。

 佃島は白魚漁が終わると、4、5月はサヨリ、それと併行して佃煮の材料となるアミや蜆、蛤、アサリなどの貝類が獲れ、夏はセイゴ、秋になるとこれまた佃煮材料、芝海老が獲れた。佃煮とは、アサリ、蜆の貝類や昆布などを、醤油や砂糖などを使って煮つけたものである。こうした水産佃煮の他、蕗や豆など農産物を用いたもの、更に蕗や昆布、鰯と紫蘇などブレンド佃煮も見られる。その数100種類以上、御当地お勧めを入れるともっと多くなるといわれる。これらを商いとする佃煮屋は現在佃島に四軒ある。それぞれ素材を生かして、仕込みから調理法、調味料も独特の技で使いこなし、「ウリ」の味に仕上げている。現在では、醤油と砂糖で甘辛に味付けしたものが、佃煮の定番となっているが、当初は日本橋魚河岸で売れ残った小魚や雑魚が沢山獲れた日などは、塩茹にして保存食や携帯食として食べていた。江戸も中期、地廻りの醤油や砂糖が出回る事により、煮物が定番化した。ある日具を鍋に入れ、煮物を始めた奥さん、亭主が突然帰ってきてその対応におわれ、鍋の事がすっかり抜けた。抜けられた鍋の汁は段々と煮つまり、あわや焦げつく寸前で七輪からおろされた。ホッとした奥さん、ホッとしたのは奥さんだけではない、鍋自身もそうである。捨てられる運命にあった。おまけに夫婦喧嘩になる一幕であった。奥さん諦めて捨てようと、蓋を開けるといい匂いがする。一摘み食べてみるとこれがなんとも、味が浸み込んだ江戸っ子好みの味である。かくて佃島イチオシの佃煮が誕生した。しかし、佃の漁師たちは明治になるまで、舟上で塩茹の佃煮を食べて頑張ったという。「いつの世も 一番最後は 親父殿」である。因みに白魚の佃煮レシピは、具材を塩水でさっと洗い、醤油、砂糖、酒、味醂、水飴、お好みで山椒、生姜を加えた煮汁のなかで、白魚は強く煮ても硬くならないが、なるべく短時間で仕上げる。醤油を少なめにした方が、白魚本来の味が生きるという。この佃煮が、全国版になるにはそう時間はかからなかった。住吉神社の参詣者に振舞われたり、参勤交代で江戸に来た侍たちの、お国土産になり全国に広まったいった。明治になって、その保存性と価格の安さ、栄養価で西南戦争や日露戦争の携帯食として重宝され、乃木大将も203高地陥落の作戦を、佃煮を噛みながら練ったに違いない。佃煮はそれを食べる事により、Caが吸収され脳の働きを促す。おまけに何度も噛む事により、口噛筋が動き脳を活性化する。何れも試験対策には必須アイテムであり、お受験には貴重な情報であった。

さて、第三節はいよいよ、八角御輿が踊る「佃の夏祭り」と、佃盆踊りの登場である。、


 



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