毛利家の人々ⅲ <幕末維新編>

「関ヶ原の戦い」で敗者となった毛利家は、周防、長門の2ヶ国となり、112万石から29,8万石に減封された。大坂城にこもらず徳川家に従えばこれまでの領土は安堵すると云った約定を反故にされ、西軍総大将毛利輝元はじめ毛利家の人々は苦杯を舐めた。関ケ原から260余年積もり積もった長州藩の怨念が爆発、「薩長同盟」から武力闘争に進み、「戊辰戦争」に向かっていった。毛利家の新年の拝賀において、家老が「殿、今年の倒幕はいかに?」と問うと殿は「時期尚早」と答える習わしがあったという。この慣習の真偽は定かではないが、幕末維新まで受け継がれた、徳川幕府への深い恨みつらみが蓄積していった事柄が、人々の間にまことしやかに伝えられたことになる。また、幕末までに至る長州藩は、財政が逼迫していた。その打開策として藩は税収増を図ったが、その政策は当然のように農民の反発を買い、一揆が頻発した。そこで藩は藩による事業を推進、その結果次第に財政面、軍事面で力をつけていき、幕末への力をつけていった。

 安芸広島城を追われた毛利元就の嫡男輝元は、新本拠として長門の国萩に城を築いた。明治維新まで13代世襲した「萩城」である。萩は現在の山口県北部に位置、日本海に面し三方を山に囲まれた町であり、城は日本海に島状に突出した指月山(143m)とその山麓に築かれた。天守閣の延べ面積は、広島城のそれの約8割にとどまるが、外観は白漆喰総塗籠で姫路城のさきがけとなっている。しかし、萩城は幕末の文久3年(1863)、13代敬親が攘夷運動に際し海防上不利であるとして山口に移転、事実上の廃城となった。現在では松下村塾や幕末維新に活躍したぶしたちの史跡が多く残されている。

 幕末において、長州藩はどの藩よりも強く外国勢力討伐を訴え行動した。長州藩は関門海峡と瀬戸内海の二つの海の道=シーレーンが領国に面していた。当時の我が国は鎖国状態であったが、長崎出島でオランダ、対馬で朝鮮と交易、薩摩藩は琉球と密貿易をしていた。長州藩ではこれらの窓口から海外の情報を二つの海の道を経て手に入れていた。薩摩の島津斉彬は琉球から、隣国清王朝がイギリスに敗北したことを知り危機を感じていた。「アヘン戦争」である。毛利家の人々も海の道からそれらの情報を入手、尊王攘夷の思想に傾いていった。当時の長州藩主敬親は「そうせい侯」と呼ばれる殿で、家来たちの提案に「そうせい」と許可する人間であった。養子の元徳も以下同文であったため、藩士たちは自由な活動が可能であった。その主なメンバーが吉田松陰を始めとする松下村塾の門下生たちであった。高杉晋作、伊藤博文、井上馨、久坂玄瑞などである門下生ではなかったが桂小五郎(木戸孝允)、品川弥次郎もそのメンバーであった。こうして長州藩では「公武合体論」や「尊王攘夷論」を拠り所に京都朝廷に影響を与えるようになっていった。彼らは天皇を敬い「尊王」、外国人を打ち払う「攘夷」考えを持つ人々で、倒幕運動を勧めた人々は下級武士階級が多かった。

 安政5年(1858)時の大老井伊直弼は不平等条約と呼ばれる「日米修好通商条約」などを5ヶ国と締結、孝明天皇はこれを拒否、朝廷は幕府の調印を咎め、水戸藩など13の諸藩に対し勅諚を下した。これを受けた攘夷派の人々は、幕府は天皇をないがしろにしている組織であると反幕府を唱えた。不平等条約で国益を大きく損なうとして、吉田松陰は外国勢力に対抗、密航や大老暗殺を諮った。これに対応した幕府は締め付けを図った。「安政の大獄」である。伝馬町牢屋敷で松陰や橋本左内など多くの勤王の人々が処刑された。こうした状況の中、長州藩は嘉永6年(1853)の「ペリー来航」以来、長州藩は過激な攘夷運動に走っていった。この傾向を嫌った幕府は、会津と薩摩に命じて長州の人間たちを京から追放した。その翌年の元治元年(1864)7月、京へ進軍してきた長州軍は会津と薩摩の連合軍に敗北、再び京から追放される。「禁門(蛤御門)の変」である。こうして長州藩は「下関戦争」「八月十八日の政変」「池田屋事件」「禁門の変」、元年8月「第1次長州征伐」などの戦いにことごとく敗退、倒幕運動は衰退していった。長州藩の武士たちは自分の草履の裏に「薩賊会奸」と薩摩と会津を侮辱する言葉を書いて、歩く度にその文字を踏みつける形をとった。彼らはこの思いを忘れず「会津戦争」では、官軍となり遺憾なく発揮されることになる。

 負け戦がつづいた長州藩の中で立ち上がったのが、松下村塾門下生の高杉晋作である。晋作は「第1次長州征伐」の後、元治元年12月「功山寺挙兵」を挙行「奇兵隊」を結成、幕府に降伏体制から「倒幕」へと大きく政策転換をしていった。長州藩は弱体化した幕府を倒し、外敵から我が国を護る事ができる新しい政府を作ろうと考えた。同じ時期薩摩藩も幕府と縁を切り、倒幕を目指し始めた。当初薩摩藩は幕府に組織改革をさせ、薩摩藩と幕府が協力して外国勢力を倒そうとしていたが、この目論見は外様大名の口出しを嫌った15代に就任した慶喜により失敗、慶喜の態度に激怒したぼっけもん薩摩隼人は、自ら日本を仕切る政策に方針転換、同じ考えである長州藩と政策同盟を結ぼうと考えた。元土佐藩士坂本龍馬が提案した「薩長同盟」である。薩摩藩に縁切り言動をしてしまった慶喜は、維新後自らの言動を大いに反省し、薩摩藩を大いに恨んだという。龍馬は犬猿の仲であった薩長を、それぞれの不足分を満たす事で結びつけようとした。薩摩藩は当時凶作により食料不足にあえいでいた。一方で長州藩は幕府討伐に向け武器弾薬が不足していた。これらを自らの商社「海援隊」により相互補完させ、慶応2年(1866)1月、京にあった薩摩藩家老小松帯刀の屋敷で同盟締結に結びつけた。この同盟により幕府、薩摩藩、会津藩vs長州藩の構図であったものが、幕府、会津藩vs薩摩藩、長州藩に変わった。締結後の同6月、薩摩藩と協力関係になった長州藩は「第2次長州征伐」で勝利、時局は慶応3年「大政奉還」、同4年1月「鳥羽伏見の戦い」から始まる「戊辰戦争」へと大きく移り変わっていく。この一連の戦いの主役を演じたのは、薩摩藩、長州藩、土佐藩、佐賀藩の4藩の面々、維新後は新政府の要職を彼らが独占した。閣僚経験者79人のうち、薩長が各14人、土佐藩9人、佐賀藩5人が割り振られ、総理大臣、元老では薩長2藩が圧倒的に多かった。こうして維新の元勲と呼ばれ、要職に就いた人々は恵まれたが、共に戦った多くの士族は維新後、職階、俸禄を失い路頭に迷った。期待していた新政府に裏切られ、捨てられ、不満を抱いた。明治7年江藤新平の「佐賀の乱」を始めとし、同9年10月に「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」と士族の乱はたて続きに勃発、同10年、西郷隆盛の「西南戦争」で、我が国の国内内乱は終結する。四民平等、民主化を目指した明治新政府であったが、そののちの我が国の政策方針は、諸外国に追いつけ追い越せと「富国強兵」「殖産興業」を打ち出し、軍国化へと進んでいき、昭和20年国土は荒廃した。 

 今年も1年間お疲れ様でした。さて、2026新年第1作は、縁起を担いで「江戸恵方参り」。五不動、六地蔵など沢山の仏さまを巡ります。どうぞご利益がありますようにです。                        「江戸純情派 チーム江戸」篠塚でした。

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