<江戸グルメ旅>練馬大根と犬公方綱吉 ①

 <練馬大根編>「大根は何れ世帯の料理草」といわれるように、煮たり漬けたり、生のままとレシピは豊富である。また少し前までは、熱さましや咳止め消化促進と、薬用としても用いられてきた。「和漢三才図会」には日本は全国で大根を植えていない国はないと記され、大根は江戸の頃よりわが国でメジャーな作物であった。江戸近郊においても、武蔵野台地の柔らかい土壌によって長く大きく育つ「練馬大根」を筆頭に、春に収穫され根は1尺程であるが、味はシャキシャキと歯ごたえがいい「亀戸大根」(この大根は昭和初期に荒川放水路ができるまで、荒川水系の江戸下町の肥沃な粘土質土壌に自生していた)や、同じく荒川放水路の完成により、生産農家が減少、現在では葛飾区や北海道などで生産されている「おかめ大根(お多福大根)」などがある。また、江戸番付表である「江都自慢」には、江戸の野菜が多くランクつけされている。東の大関である日本橋魚山に続いて、須田町水菓子、ねりま大根、谷中せいが(生姜)、小松川のな(菜)、深大寺そばなどがある。西の大関は蔵前米粒、続いて千葉場青物、岩附ねぎ、木母寺芋、浮間の茄子、三河島漬菜など名産が並んでいた。

 江戸時代の食料自給率は100%、現在ではその半分以下の40%に過ぎない。そのくせ欧米諸国諸国に習って食料廃棄率が高い。作られた物が売れ残る、食べ残しなどが起因している。国費の無駄である以上に、地球規模の損失、地球環境の破壊となっている。アフリカ大陸や南米、アジア諸国での飢餓、そこからくる慢性的免疫低下による疾患、これらの問題は早急に解決すべき事柄であるにも関わらず、そのリーダーシップを務めるべき大国といわれる国々はエゴむき出しに、勝手な戦争を仕掛けている。こうした過去の愚かさとは真逆に江戸のカミさんたちは賢く何事に対しても無駄がなかった。大根1本にしてもとことん無駄なく料理し捨てる部分がなくし、大根は家計の強力な味方であった。江戸の野菜は練馬、板橋、三河島などからは筋違橋へ、上総、安房からは鎌倉河岸へ、葛西、砂村の産物は神田川筋の河岸などへと、生産農家が馬の背に乗せて江戸の街に運んできた。これらの青果商達が貞享3年(1686)連雀町、佐柄町、多町などに集まって青果市場を形成したと云われている。棒振り商人はこれらから仕入れた大根や茄子や瓜、小松菜などを前後の籠に入れ、長屋から長屋に廻ってきた。1本5~10文(1文≒¥25、因みに沢庵は≒15文)で購入、三浦大根なら使い易い青首あたりを下ろして、これに鰹節と醤油を振りかけて亭主の酒のアテにする。秋ならモチ焼き秋刀魚にたっぷりと添え、秋刀魚が燃えているうちに地回り醤油をかけてかぶりつくのが江戸の定番である。次に刻みやすい中ほどは菜切り包丁で皮をむいて千切りに揃え、明日の味噌汁の具にする。勿論、鍋に干鰯を折って入れとくことも忘れない。また冬に入ってこの部分が柔らかく肉厚であったたら、ふらふき大根、田楽味噌、オデンの具にしてもいい。尻尾は勿論捨てない。糠漬けにしたり、冬ならブリ鍋、鱈鍋などにもいい。剥いた皮はこれも細かく千切りにして、お天道様の光で天日干しにする。自家製切干大根の出来上がりである。これを戻し人参、油揚げなどを加えて煮込むと栄養豊富な一品となり、これも亭主の晩酌のアテや子供たちのおかずになる。また、最近では、葉のついた大根を余り見かけないが、江戸のカミさんたちは葉を塩揉みし細かく刻んで、鰹節醤油で和えると立派な大根の漬け物に変身させた。以上、江戸大根の無駄のない完全消費版料理教室のレシピ一例である。

「浅漬を 素直に切って 叱られる」神無月11月は八百万の神々が出雲に出張して、恵比寿様だけが江戸の町の留守居役を任された。淋しい恵比寿様を慰めるための祭りが、旧暦10月20日の「恵比寿講」である。この日は家族、奉公人、親類、知人、取引先を呼んで無礼講の宴会が始まる。これがまた来年の商売繁盛につながる。今でいう接待ゴルフか銀座辺りの飲み会の類であろうか。しかし江戸の人間は自分だけでなく家族、少なくとも妻を同伴した。遊郭を除いて。封建社会であった江戸時代であっても、考え方は西欧的であった。下町日本橋の冬の風物詩となっている「べったら市」は、現在でも毎年グレゴリオ暦10月19、20日になると日本橋堀留界隈の椙森神社や寳田恵比寿神社を中心に開かれ、裸電球の下、大根や諸々の屋台が店を並べる。べったらのゆわれは、麹まみれの手で客の袖をベタベタ引いたからとも、大根をベタベタと鳴らして売っていたからだともいわれている。塩で下漬けした大根を麹と砂糖でなじませたべったら漬けの大根は、甘い浅漬けでサクサクとして歯切れがいい。この甘い大根漬けを普段比較的に塩辛いものを好む江戸っ子たちは好んで食べた。好みが矛盾するように思えるが、元々江戸っ子は地方からの寄せ集めの人間たちであったが故に、食に関しては、いや食に関しなくとも何でもありの人間たちであったといえる。許容範囲が広かったと言えば聞こえがいいが、要はものにこだわらないアバウトな人間たちが住む町が江戸の町であった。その人間たちが寒い冬のはしりに、べったら市で買ってきた浅漬には切り方に作法があった。普通の沢庵漬けは硬いから食べやすいように薄く切るが、べったら漬けはその三倍程度の厚さで切るのを作法としていた。こいつを一口でほおばった。従って喉が詰り、しばらくは息も出来ず話も出来ず、ただひたすらに噛みつき、そのうち涙が出てくる。それをこらえてかみ砕き、麹の甘い香りと共に胃の中へ放り込む。これが江戸流のべったら漬けの食し方である。こいつを田舎(尤も江戸もチョイ前までは田舎であったが)から嫁いできた嫁さんが、厚く切っては姑から嫌味を云われると思い、気を利かせて薄く上品に切り揃えて食卓へ出す。途端に一喝「べらんぼうめ べったらは厚く切るもんだ」浅く切ろうが厚く切ろうが、まとめて口に放り込めば同じことである。いちいち大声出すことでもないだろうと嫁は悔しがる。それよりも悔しいのは地元生まれで、それを当初から知っている亭主が、何故自分の愛しいはずの嫁の私に、事前に教えてくれなかったのか。「この馬鹿亭主、そんなら早くも教えてよ」舅に吠えられたより、こちらの方が夜も眠られないられない程の悔し涙であった。若い妻の夫へのウラミツラミは、時空を超えて次第に仕組まれていき、ここからの長い人生を経るる間に、二人の立場は徐々に逆転をしていく。次回は練馬大根と犬公方綱吉の関係を追っていきます。乞うご期待。

 




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